池袋R大学「シコふんじゃた」体験記

「他人のフンドシで、相撲を取る」という事は・・・・・・・・


序の口

映画「シコふんじゃった」の中で、つぶれそうな相撲部を情熱だけで支えていた青木という男にとって、「フンドシ」と「マワシ」は、明確な違いを持って認識されていた。彼にとっては、「フンドシ」とは下着であり、「マワシ」とは相撲を取る為の神聖な道具であり、衣装であったと思う。
しかし、その相撲部の存続の為に集められた、相撲の素人達には、「フンドシ」と「マワシ」の違いなどは、どうでもよい事であり、会話の端々でたびたび混同されるので、青木はその訂正に神経を使っていた。

この映画が撮影されたのは、周防正行監督の母校、池袋のR大学である。そして、これを書いている私の母校でもある。蔦の絡まる煉瓦造りの時計台とチャペル、テニスラケットを抱えて鈴掛の径の下を通るチルデンセーターの男女、某プロ野球人気球団の往年の名選手であり、現在監督を務める男の卒業したブランドイメージの高いと言われる大学である。

だが、光あるところには、影がある。私のような地方出身者は、チルデンセーターの若者達を引き立たせる為の鈴掛の枯れ葉の様なものだった。ギターが好きで、キャンパスのベンチでよく弾いていたものだったが、弾いている曲は民族音楽で、一般受けするような音楽ではなかった。しかも、ギターをやっていると、とかく運動不足になりがちで、私も大学時代に、随分と体重を増やしたものである。

それでも、毎年10月10日の体育の日に、大学が主催するスポーツ・フェスティバルには、ギタークラブの仲間たちとバレーボールに出たりしたものだが、大学も4年生になると、就職活動等で、そんな催しに参加するメンバーは集まらない。そこで、予てから一度出たいと思っていた個人種目の「相撲」に参加してみる事にしたのである。

二段目:

場所は、相撲部の相撲道場。ここが、「シコふんじゃった」の一番メインとなる舞台だった事は、言うまでもあるまい。そう、あの神棚も確かにあったよ。だけど、日本人である私には、当たり前すぎる風景だったので、クリスチャンの大学とは言え、別に不自然とは思わなかった。キリスト教に改宗しないと、この大学に入れないと思っている人もいるらしいが、私も、私の家族もあの時も今もずうっと仏教徒だし、神棚に手を合わせたりもする。

煉瓦造りの時計台のある本館の下をくぐって、歩いていくとこれまた煉瓦造りの第一学生食堂があり、その右脇には、当時は文科系サークルの部室棟、通称「山小屋」が有ったもので、我々の部室もそこに有った。その神棚のせいかどうか、相撲道場は、学食から見て、正反対の左側の体育会系の部室群の一番外れにあり、映画で語られるとおり、この大学に相撲道場がある事は、あまり知られていなかった。そこで、神棚を飾って、相撲を取るという事は、まるで隠れキリシタンが、マリア観音を拝んでいるようなものだった。時代は繰り返すとは、よく言われる事だが、逆転するという事もまた、よくある話しだ。

こんなファッション雑誌が取材に来るようなキャンパスで、何を好き好んで「相撲」なんぞしにくる奴が居るものかと思いきや、流石は日本の国技、大勢の日本男児が、既に集まっていた。角刈りの頭の小柄な奴等は応援団で、毎年この相撲大会の景気付けに参加するらしい。巨漢の男もいる、アメフトのラインマンだ。男女入り交じったにぎやかなギャラリーが応援しているのは、少林寺拳法部の精悍な男だった。そして、朝練の為に遅れて集まってきたのは、柔道部の猛者達で、彼らがこの大会の優勝候補らしい。何と頼もしい事だ。この日本男児等によって、日本の武道の伝統が守られると、その時思ったものだった。

三段目:


私は、出場登録を済ませると、ジャージ姿のまま、土俵から離れたところで、前屈などのアップをしていた。すると、程なく相撲部の部員が現われて、説明を始めた。日本男児の闘志がみなぎりはじめた。その気配は、肌を通しても伝わって来るようで、否応も無く、私の緊張を高めた。そこで、相撲部の男は言った。

「勝負は、みなマワシを素肌に〆込んでやってもらいます。」
「おお・・・・!」道場内にどよめきが走った。この場に来て、フンドシ(マワシ)姿が、恥ずかしいなどと思っているヤワな奴等は、一人もいない。みな、本式の雰囲気を味わえる身の幸運を喜び、自分用のマワシが、道場内の何処にあるのか、見回し、探しているようだった。
だが、・・・・・・・・・・・・

「マワシは、そこに掛っている部員の物を使ってもらいます。」相撲部員の男は窓辺の手すりに掛っている使い古しのマワシを指して言った。

絶句・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「マジかよ・・・・・、他人のフンドシで相撲を取るってのはさぁ・・・・」誰かが呟いた。
「フンドシじゃなくて、マ・ワ・シだ」相撲部員は、即座に訂正した。だが、我々には、それはどうでもいい事だった。繰り返し言うが、フンドシ(マワシ)姿が、恥ずかしいのではない。問題は、そのフンドシ(マワシ)と言うものが、いかなる状態であるか?と言う事だった。
「知ってるか?マワシって、洗濯しないんだぜ。」小声で話している奴もいた。

「タジ・・・・・・・・・ッ!」そう、まるでそんな音が聞こえて来そうな程、一瞬にして、日本男児等の士気は、あっけなく萎え、縮み、消え去った。
その気配は、相撲部員にも敏感に伝わったらしい。これでは、大会の進行は覚束ない。相撲部員は、暫く、OBらしき人と、掛け合った後、
「あっ、では、ジャージの上に着けてもらいます。」
仕方なく、相撲部員は、妥協したのだった。
「ホォッ・・・・・・・・・!」安堵のどよめきが起こった。ジャージの上にマワシとは、情けないカッコではあったが、この点を妥協してもらわないと、我々は先へ進めなかった。ともあれ、日本男児等の士気は、再び燃え上がった。繰り返し言うが、マワシを〆たカッコが恥ずかしいんじゃない。
「他人のフンドシで相撲を取る」と言う事が・・・・・えっ、「フンドシ」じゃなくて、「マワシ」?そういう問題じゃない!


幕下:


上半身だけ脱いで、準備を始めた私に、相撲部コーチが、マワシと称する物体を持って、近づいてきた。
「君、イイ体してるねぇ・・・・」男には、耳元で囁かれたくないセリフが、コーチの口から、発せられた。「サークルは?何もしてないの?・・・・・えぇ!スペイン・ギター?もったいねぇなぁ・・・・」そうおだてられても、雰囲気は和まない。原因は、明らかだ。

窓辺に掛っていたマワシとやらは、相撲部の激しい稽古の末に、汗と土がシミとなっていて、臭気さえ発しているようだった。さらに、股間に当る縦褌(たてみつ)の部分は、得体の知れない、茶色の大きな塊がこびり付いていた。「何だろう、これ・・・・・?」でも、到底手で触れてみる気にはなれない。
「もし、これを直接〆込む事になっていたら・・・・」と考えると・・・・・・・・

日本の伝統や文化が衰退して行く、原因がそこに見たような気がした。
後に貴乃花と宮沢りえが、婚約の記者会見までしておきながら、破局になった真相がその辺にあるのではないかと、今にしてみれば、そう思う。

マワシが、洗濯できるようにならないものだろうか?本気で、そう考えた。
生地の質と、使用目的から言って、それは難しい問題だろう。度重なる水洗いの末に、マワシは伸びて緩み、もろく切れ易くなってしまうだろうからだ。洗濯機などを使おうものなら、マワシの生地の大きさからいって、マワシより先に、洗濯機の方がイカレてしまうかもしれない。現在使われている生地をそのまま使っているうちは、洗う事は出来ないだろう。

「・・・・ならば」、と考えたのは、例のTVCMで、原日出子さんが、エライ遠回しに、
「健康な女性の、ナント80%が悩んでいる、敏感な部分のカユミ」と言っているものの為に作られたシートを貼り付けるのはどうだろうか?と、提案したくなったが、その冗談は相撲部員には、伝わらないだろうと思った。
第一、そのようなものが、縦褌の部分に一緒に〆込まれているヘヴィーな想像をしただけで、相撲などする気にはなれなくなる。やはり、洗濯によって、生地の強度が変化しない、丈夫な素材の開発が必要となって来る。


関取:


私の相撲大会での成績は、大した事はなかった。
無様なカッコとは思いながらも、ジャージの上にマワシを〆込んだ姿で、準備運動の四股と鉄砲、そして、土俵上での儀式的な動作の講習の後始まった予選では、3連勝した。だが、最初の2人は、罰ゲームで参加したような応援団の見るからに弱そうな奴だった。3人目の少林寺拳法部員にも勝ったが、この男には、手強さを感じていた。もう一度勝負する事があった時には、逆転されるかもと思っていたのだ。でも、まぁ、すぐには当たらないだろうと思っていたのだったが・・・・・
一敗も許されない筈の決勝トーナメントの1回戦で、まさかのその男と対戦したのだった。

少林寺拳法部のその男は、勝負慣れしていた。私の立ち会いのタイミングより、わずかに早く仕掛けて、私の出足を止め、前褌を取った。私も、その腕を決めながら、絞り込んで、相手の上体を少しだけ起こしながら、出方を待ち、無理な投げを打って来る事に付け込もうと思った。
案の定打ってきた出し投げを堪えて、付け込み、前褌を掴んだ手を切ると、相手は無防備な体勢で、前にいた。両差しとなって、前に出ようとしたが、捨て身で打ってきた小手投げで、私は土俵に叩き付けられた。

完敗である。押し相撲の私は、立ち会いの勢いを止められると、相手に対しての絶対的優位の状態を失う。普段から、格闘技に馴染んでいる彼は、そのポイントさえ抑えてしまえば、勝負になると踏んだのだろう。

大会の途中ではあったが、私は、帰り支度を始めた。優勝者が誰であるかなどは、興味がなかった。
私に勝った男は強い男でもあるし、インテリジェンスもある。有力な候補ではあると思うが、勝負は水物である。
終わったばかりの勝負の事をあれこれ振り返りながら、私は道場の片隅で、マワシを解いた。(ジャージの上に〆ているから出来た事ではあるが・・・・)
投げられた瞬間に、肘を擦り剥いていたようだった。傷口を労りながら、私は、道場を後にした。


結び:


勝負は残念な結果に終わったが、特に思い残す事も無かった。
それよりも、この忌まわしいマワシとやらの縛め(いましめ)を一刻も早くとき解きたかったのだ。
「山小屋」の部室に戻ると、女の子達が、結果を知りたがったが、擦り剥いた個所を見てか?自ずと、それについては、察したようだった。

ジャージの上からマワシを〆た事を聞いた連中は、一応に、否定的な事を言ったが、そのマワシとやらが、どのようなものであるかと言う事を私が説明してからは、「うわぁ・・・・、それじゃあなぁ・・・・」と納得したようだった。

これを書き込んでいるのは、その時から、もう18年くらい経ってからであるが、つい最近、日本相撲協会の理事長には、私の住む街の出身者である時津風親方が就任した。
以前から、その親方が、協会の幹部であるせいか、我が街には、大相撲の地方巡業が、よくやって来る。数年前、運良く入場券を手に入れたので、見に行ってみたら、あるある・・・・・・

例の如く、マワシが天日に干されていた。誰のかは知らない。
が、やはり、今でも洗われてはいないのだろう。幕下ぐらいの若い衆にタワシで、擦られていた。
もちろん、縦褌の股に当たる部分は、マワシの生地が黒い色であるにもかかわらず、褐変していた。
幕下君は、その部分を適当に擦り付けると、後は、他のマワシと同様、巡業会場の回りの芝生の上に、無造作に放り出していった。まぁ・・・・誰も盗まないだろうが・・・・・


弓取り式:


相撲、とりわけ大相撲における習慣には、ミステリアスな部分が多い。
元来、日本男児は、多くを語らないものと言う、美意識?価値観?の様なものが、相撲を取り巻く社会を支配しているせいだろう。好奇心旺盛な外国人には、この辺がたまらないから、相撲の海外巡業が人気を博しているのだろう。

我らが周防監督の「シコふんじゃった」が、カンヌ映画祭に参考出品され、公開された映画館では、スタンディングオベーションまでしてもらえた背景には、こうした大相撲のミステリアスな部分の作用によるものが大きいと思う。

だが、弊害が無い訳でない。
相撲は、柔道などより、勝負の判定が明確で、見ている方も柔道の時のように、「相手を倒したのに、何故一本にならないのか?」と言う疑問は出難い。この解り易さが、受け入れられ易い理由である為に、「相手を倒せばいいんだろう?」という、生半可の理解を産み、「そうではない」と否定されると、「何故なんだ」と、途端に解り難くなった相撲そのものへの不満を、日本人の欺瞞と誤解されかねない危険も孕んでいると思う。
ミステリアスであるという事は、相手の空想・推測に任せる部分が大きく、誤解も生み易いと言う事なのだ。つまり、説明不足と言われているようなものなのである。

外国人に、日本を理解させるのは、難しい事だが、こちらから、何も発信しなければ、あちらに都合の酔い様に解釈されてしまう訳だから、難しい事でも、辛抱強く、粘り強く、理解させる努力をしなければならない。
大体、マワシの事、一つを取っても、日本人にさえ、正しく理解されていないではないか。映画の中のセリフで、永六輔が言ったとされる「?丸折りたたみ説」(実は、この話しを私も、永さんの著書の「みだらまんだら」で、読んだ記憶がある)にしても、何も発信されないせいで、まかり通ってしまった誤報だし、「女性が、土俵に上がれない訳」だって、日本人女性に対してすら、何一つ明確な理由を以って、伝えられていない。大相撲の海外巡業の際、現地の女王や女性首相から、自ら優勝力士に、賞品を授与したい旨の申し出があった場合、「日本人は、宗教上、女性を不浄の者と考えているので、女性を土俵には上げられない」と、正直に伝えるのだろうか?

映画「シコふんじゃった」では、ラストシーンで、主演の本木雅弘が、清水美砂に「四股」の踏み方を教えるシーンだが、その時、彼女の足は、土俵の中に踏み込まれている。
このシーンは、現実に、潰れかかっている(もう既に無くなっているかもしれない)R大学の相撲部の土俵だからこそ、撮影する事の出来たもので、日大や拓大、農大などで、撮影許可を得ようと思っても、取れないシーンだろう。
周防さんは、このシーンを描く事で、理由らしい理由もハッキリしないで、伝統だからと言う理由だけで続けられている旧弊が、その事を理解できないような若い世代によって、打ち破られ、新しい展開繰り広げていく予感を感じさせてくれるような描き方をしているようだが、本来、ちゃんとした理由があるのに、説明不足の為に、根拠の無い旧弊として、葬り去られてしまうような事が有ってはならないと思う。

打ち出し太鼓:

永六輔の「?丸折りたたみ説」。確か、愛川欽也の深夜放送パック・イン・ミュージック(TBS)でも、そんな話しをしてたように思う。著書のみならず、公共の電波で、いい加減な事を言うなんて、責任重いよなぁ。(怒)
まぁ、とにかく、あの時の体験で、「他人の褌で相撲を取る」と言う事が、何故、世間で蔑まれる行為なのかが、私には良く解ったと言う訳だ。
以上。


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