TOPIC No.7−20 キルギス拉致事件

1. '99年8月24日−9月10日、2. '99年9月11日−10月09日、3. '99年10月10日−10月22日、 4. '99年10月23日−10月26日、5. '99年10月23日−

TOPIC No.7−20−5 '99年10月26日−(キルギス拉致事件)


キルギス共和国について(Kyrgyzstan)

報告書、身代金に触れず

1999年11月12日 14時21分 共同通信社
キルギスの日本人技師拉致事件で外務省が12日まとめた調査報告書は、再三取りざたされてきた身代金の受け渡しについては全く触れていない。人質に医薬品を差し入れていたことや、キルギス政府以外からも人質の安否情報を得ていたことなどを明らかにしながら、その詳細についても外務省担当者は「関係者の安全にかかわる」などの理由でコメントを拒否、情報管理の徹底ぶりは相変わらず。

現地の人に情報収集委託

1999年11月5日 11時07分 共同通信社
河野洋平外相は5日午前の閣議後の記者会見で、キルギスの日本人拉致(らち)事件のような在外公館のない国での邦人誘拐の再発防止策について「現地の人から継続的に情報収集する仕組みが大事だ。これを積極的にやりたい」と述べ、国際協力事業団(JICA)の行う援助事業に従事する日本人の安全確保のために治安情報収集を現地の関係者に委託する考えを示した。

タジクからの撤退を約束

1999年11月5日 19時14分【モスクワ共同通信社 】
5日のインタファクス通信によると、キルギスの日本人技師拉致(らち)事件を起こしたイスラム武装勢力のナマンゴニ野戦司令官は4日、タジキスタンの元反政府イスラム組織、統一野党のヌリ代表と会談し、現在拠点としているタジクから撤退することを約束した。

人質解放「身代金で成否」 キルギス保安省幹部語る

03:10a.m. JST October 31, 1999
キルギス南部で起きた日本人鉱山技師4人らの拉致事件で、解放交渉に携わった関係者の証言などから、キルギス政府による解放工作の決め手は「身代金の支払い」という可能性が強まってきた。キルギス保安省では2つのグループが別々の筋で解放交渉を進め、第1のグループは今月16日の交渉大詰めで身代金の手渡しに失敗し、25日に解放を成功させたのは第2のグループだったようだ。解放工作はイスラム武装勢力のナマンガニ野戦司令官につながる人脈をたどることを含め、多角的に進められ、人質は拉致から64日目にしてようやく解放された。
朝日新聞の取材に応じた保安省幹部によると、省内につくられた2つの交渉グループの1つは、人質らが捕らわれていたタジキスタンの首都ドゥシャンベを拠点に、タジク統一野党幹部のジエーエフ緊急事態相に協力を働きかける「Aグループ」。もう1つは、キルギス南部カラムイク村の病院を拠点に、隣接するタジクのショフ国境警備隊長を通じ、武装勢力と接触を図る「Bグループ」だった。
同幹部によれば、200万ドル近い身代金は今月中旬までに日本政府の代表が首都ビシケクを訪れ、キルギス側に手渡したが、資金の出所が政府か企業かは不明。2つのグループは、その金を入手し、自らの手で事件を解決しようと競い合った。
ドゥシャンベのAグループは、武装勢力のナマンガニ野戦司令官の義弟ザイニディン氏を通じて交渉し、「身代金を準備すれば、人質を解放する」との感触を得ていた。グループは「人質解放の準備はすべて整った。後は身代金だけだ」とキルギス当局に電話連絡した。
だが、身代金を管理するキルギス政府の責任者が「途中で身内にピンはねされないとも限らない」と慎重になり、Aグループには現金は渡らなかった。
「解決間近」を伝えたAグループの電話報告が外にもれたことが、時期尚早となった16日の解放情報につながったようだ。
一方、Bグループを率いるベルチャギン保安省第1次官は、身代金を管理する責任者と個人的なつながりを持っていたため、現金引き渡しの保証を取り付けることができた。同次官側は解放の直前、武装勢力との仲介役であるタジクのショフ国境警備隊長に、支払いを確約した。
保安省幹部は、身代金がどのように分配されたかは知らないと述べた。

解放の喜び報告 キルギス事件の人質が首相、外相と会談

9:33p.m. JST October 29, 1999
キルギスでイスラム武装勢力に拉致され、2カ月ぶりに解放された中島信久さん(49)ら日本人鉱山技師4人が29日、小渕恵三首相と河野洋平外相をそれぞれ訪ね、「解放直後に首相から電話をいただき、感激しました。ありがとうございました」と、解放の喜びを報告した。
首相は「ひげがないと違ってみえますね」と笑顔で迎え、「毎日心配していました。中央アジア発展のため活躍していた皆さんが人質となる事件が起きたことは非常に残念です」と4人の苦労をねぎらった。中島さんらは「緊張がほぐれ、昨日あたりから疲れが出てきました」とほっとした表情を浮かべた。
4人は、武装勢力とともに越えた4000メートル級の峠について「荷を積んだロバも腰を抜かすような大変な山だった」と紹介。「歯ブラシやタオルもなく、ふろにも入れなかった。食事はヤクの肉など軍事食でした」と話した。また、武装勢力がタジク語やウズベク語を使っていたため「会話の内容が悪くても、こちらは分からないので気楽だったのかもしれない」と、苦しかった人質生活を生々しく振り返った。

人質の「横取り」狙う集団も キルギスの補佐官語る

9:01p.m. JST October 27, 1999
キルギスでの日本人鉱山技師拉致事件で、最後の解放交渉に加わり、イスラム武装勢力から人質たちを引き取った国会議員補佐官ヌリディン氏(41)は、26日、朝日新聞記者のインタビューに応じ、交渉や解放直後の様子を語った。交渉場所のタジキスタン北部では、身代金目当ての別の武装勢力が人質の横取りを狙っており、解放は危険な状況の中で行われた。人質が武装勢力の手を離れた後も「解放」がすぐに発表されなかった背景には、こうした事情があったとみられる。
仲介役を務めたバキルウウル国会議員の補佐官であるヌリディン氏によれば、交渉は解放前日の24日夜、タジク北部ジルギタリ付近で行われた。武装勢力のナマンガニ野戦司令官らは、約80キロ南東のダビリダリから人質を連れて交渉場所にやってきたという。
司令官は「すぐに人質を解放したい。3つの武装グループが身柄を狙っている」と話した。その付近では、だれの統制も受けずに活動するタジク系の武装グループがいくつもあった。司令官は「身代金がやつらの目当てだ。我々は金は求めない。だが、世間は、我々(ウズベキスタン系の勢力)と彼らとは区別できない。もし、金が彼らの手に渡れば、こちらが悪者にされる」と、自らの身代金要求については否定した。
司令官はヌリディン氏に「ウズベク当局に逮捕された仲間の釈放と、ウズベクへ攻め込むためにキルギスを通行できるよう『回廊』を設けてほしい」と要求した。ヌリディン氏は「それは無理だ」と答え、それ以上、解放の条件は話さなかったという。
交渉には、仲介に中心的な役割を果たしたとみられるタジク統一野党のショフ国境警備隊長も同席していた。交渉は24日午後10時(日本時間25日午前1時)すぎ終わった。ショフ隊長とナマンガニ司令官は、ヌリディン氏を残し外へ出た。約40分後、ショフ隊長がヌリディン氏を迎えに来て、車で一緒にジャガイモ畑へ行った。畑の前の路上で、武装勢力から4人の日本人とキルギス人通訳を引き取ったという。
キルギス内務省が26日、朝日新聞に語ったところでは、人質の解放は身代金と武装勢力の捕虜5人との交換だったという。事実とすれば、ショフ隊長とナマンガニ司令官の間で話が進められた可能性がある。
ヌリディン氏によれば、解放後、別に用意されていた日本製四輪駆動車の後部座席に人質らを乗せた。武装グループの誘拐を防ぐため、銃を持ったショフ隊長の部下が護衛した。
車中、人質は目隠しをされ、じっと動かなかった。ヌリディン氏は、隣に座った通訳のオムルベク氏に「おめでとう。みんな家に帰れますよ」と話しかけた。通訳されると、日本人4人は急ににぎやかに話し始めた。そのうちの1人がロシア語で「スパシーバ(ありがとう)」と繰り返した。
ショフ隊長は「2カ月間、風呂に入れなかったみたいだな」と冗談めかして言った。隊長は自分の基地に着くと、風呂を使わせ、タジク風のスープをごちそうした。25日朝、キルギス国境まで連れて行き、人質たちの目隠しを取った。
ヌリディン氏はタジクでの会談前、キルギス南部のオシ市で待機していたが、会談場所へ向かうための自動車が見つからず、10時間も足止めを食った。ヌリディン氏は「(解放交渉を担った)キルギス保安省は当初、車も用意してくれなかった。しかし、ナマンガニ司令官が私との会談を求めたため、同省も態度を変えた」と話した。

極限の日々 拉致64日 キルギス人通訳が明かす

8:59p.m. JST October 27, 1999
中央アジア・キルギスの拉致事件で、日本人鉱山技師4人とともに最後まで武装勢力の人質となったキルギス人通訳、ジャナケーエフ・オムルベクさん(35)が26日、朝日新聞のインタビューに応じ、事件前後の模様を初めて詳細に語った。
■拉致
8月23日午前1時ごろ――。
キャンプの下の方から突然、機関銃の音がした。外に出ると、背後から弾が飛んできて体をかすめた。トレーラーハウスに走って戻り、ベッドに潜り込んだ。私たち地質屋は武器を持たない。抵抗できなかった。近くにいたキルギス兵士が撃ち返したが、敵の多さにあきらめ、機関銃を放り投げて大声で降参を叫んだ。トレーラーハウスから人が追い出された。全員が手を上げて指示に従った。
ジープの後部座席に私たち7人が詰め込まれた。10分ほど走って後ろを振り向くと、トレーラーハウスは火に包まれていた。
武装勢力の侵攻は事前に聞いていた。もっと早めに避難するつもりだった。一般の人は、すでに逃げていた。しかし、キルギスの警察官らは「心配ない。私たちが守ります」と避難を止めた。今から思えば、それが間違っていた。
■逃避行
車が止まった。手を頭に乗せて山の方に向かされた。後ろから撃たれると思い、身が凍えた。小銃とリュックを持たされて歩かされた。ひざほどの深さの川を渡らされたが、転んで胸までびしょぬれになった。未明に拉致されたから何も持っていなかった。有家敏晃さんはスリッパで歩かされていた。彼に靴を貸し、私は靴なしで山道を何キロも歩いた。一緒に拉致されたキルギスのシャムケーエフ司令官は心臓が悪く、後ろから押して助けた。
ヤギでなければ通れないような道。はるか下に川やがけが見えた。夜明けとともに移動は中断し、2人ずつ大きな岩の下に隠れさせられた。1時間ほど休むと、すぐ、「ハラカ(行け)」と言われ、食事なしで歩き続けた。
これほど海抜が高い場所で、こんなに長く歩いたのは全員が初めてだった。
夜11時ごろ、ようやくホジャアチカンの村についた。硬い肉と湯の食事が初めて出たが、日本人はほとんど食べていなかった。
■住居
この地方独特の木と土で造られた家に入れられた。寝る家は固定されておらず、村の中で、2日ぐらいで次々と移動させられた。
ウズベキスタンの空爆を避けるため、何度もホジャアチカン村から移動した。
移動はいつも夜で、突然起こされた。次第に慣れて、寝るときは衣服、茶わん、スプーン、フォークなどの荷物をいつもまとめるようになった。
食事はヤクの肉の料理など武装勢力と全く同じものだった。
仕事は強制されなかったが、食事の支度、まき集め、家の補修など生活に必要なことは自主的にした。
日本人技師たちといろいろなことを話した。家族のこと、昔あった楽しいこと、どこかに行った思い出。それから、今の政治情勢について。
これからどうなるのか、みんなが聞いた小さな情報を集め合った。
兵士に軽い質問をしたり、話し合いを盗み聞きしたりした。うそも多かったが、解放交渉が進められていることは分かった。
武装勢力は「日本のラジオでは毎日事件のことを伝えている」と言った。それで、私たちはずいぶん勇気づけられた。
日本人は我慢強い民族だと思う。武装勢力の兵士たちは「殺してやろうか」などと悪い冗談を時々言ったが、みんなじっと耐えていた。
■解放
ホジャアチカン村を出ると、4000メートルぐらいと思われる峠を越えさせられ、タジキスタン国境を越えた。
峠を下りると、何もないところで夜を明かした。寒くてみんな眠れず、一晩中体を動かしていた。その後、岩の下にテントを張って1週間ぐらい暮らした。次は車に乗って、ジルギタリを通り、たぶんタジカバードについた。翌日、さらに山を登り、ふんが散らばっている羊小屋に泊まらされた。その夜、シャムケーエフ司令官がいなくなった。解放されたと後で知った。
その後、廃屋に入れられた。結局解放までそこに泊まっていた。窓にはガラスがなく、風を防ぐためにみんなで石を積み上げて土を詰めた。
深夜、突然起こされた。解放されるなんて全く考えていなかった。3台の車で出発し、ハイトという村で武装勢力側のナマンガニ野戦司令官とタジキスタンのショフという大佐らの交渉が始まった。私たちは目隠しされ、車の中に閉じこめられていたが、話し声で雰囲気が分かった。
別の車に乗り換えさせられた。トヨタのランドクルーザーだった。交渉をしていた国会議員のヌリディン補佐官が隣に座り、「オムルベクさんですか」と聞いた。その夜は国境警備隊の建物で1泊した。ふろに入り、頭と体を洗って歯を磨いた。みんな大喜びしたが、それでもまだ解放されたとは信じていなかった。
翌25日、朝9時ごろ国境まで行き、昼ごろカラムイクについてヘリコプターに乗った。それからは皆さんの知っている通りだ。
26日朝、マスコミを避けるために早く起きて全員の部屋に別れのあいさつをしに行った。「絶対忘れない」と誓い合った。監禁された64日間で、私たちは家族や兄弟のようになった。

 

解放された4人が帰国 キルギス邦人拉致事件

00:00a.m. JST October 27, 1999
中央アジアのキルギス南部でイスラム武装勢力に拉致され、25日に解放された日本人鉱山技師4人は26日午後8時、日本政府が用意したチャーター機で成田空港に着いた。4人は花束を持ち、しっかりとした足取りで小型ジェット機から降り立った。
帰国したのは中島信久さん(49)=海外鉱物資源開発(東京都港区)副部長▽藤井広太郎さん(47)=三井金属資源開発(東京都品川区)開発部長補佐▽原田陽夫さん(38)=同社調査部長補佐▽有家敏晃さん(58)=同社鉱物資源事業部員。
4人は25日、ビシケクの循環器内科センターに入院して健康チェックを受けたあと、同病院で一夜明かした。26日午前10時(日本時間午後1時)すぎ、ビシケクのマナス空港を出発。チャーター機には4人のほか、加藤重信・現地対策本部次長と医師2人も乗り込んだ。
人質生活は2カ月に及び、健康状態を考えると一刻も早い帰国が望ましいとの現地対策本部の判断から、ただちに帰国した。4人は6月中旬から鉱物資源調査に従事しており、帰国は約4カ月ぶりになる。空港では外務省や国際協力事業団(JICA)、会社関係者らが出迎えた。
    ◇
藤井さん、原田さん、有家さんの3人を乗せた救急車は午後9時半、東京都千代田区神田和泉町の三井記念病院に到着した。正面玄関で会社の同僚や医師、看護婦ら約30人に拍手で出迎えられた。車から降りた3人に同僚たちが「よかった、よかった」と声をかけると、日焼けした顔を初めてほころばせた。有家さんは顔見知りの同僚に「対策本部のみなさん?」と言って笑わせるなど、余裕の表情だった。
3人は、病院で到着を待っていた妻がいる病室へ入り、久しぶりの対面を果たした。医師の簡単な問診を受けた後、26日夜は個室にそれぞれ泊まった。27日午前には健康診断を受ける予定だという。

1時はアフガン連行の恐れ

1999年10月26日 19時56分【ビシケク共同通信社】
キルギスの日本人技師拉致(らち)事件で、中島信久さん(49)ら4人の解放を実現したキルギス政府交渉団メンバーの有力議員エルキンバエフ氏は26日、共同通信と単独会見し、イスラム武装勢力との最後の交渉で解放が合意できなければ、日本人らがアフガニスタンに連行される恐れがあったなど、綱渡りの交渉だったことを明らかにした。

日本人技師4人がキルギスを出発、帰国の途へ

6:56p.m. JST October 26, 1999
キルギス南部でイスラム武装勢力に拉致され、25日に解放された日本人鉱山技師4人は26日午前10時(日本時間午後1時)すぎ、日本政府が用意したチャーター便でビシケクのマナス空港を出発し、帰国の途についた。4人は健康チェックを受けたビシケクの循環器内科センターで一夜を過ごした。日本時間の同日夜に成田空港に到着する予定だ。
解放された4人は、中島信久さん(49)=海外鉱物資源開発(東京都港区)副部長▽藤井広太郎さん(47)=三井金属資源開発(東京都品川区)開発部長補佐▽原田陽夫さん(38)=同社調査部長補佐▽有家敏晃さん(58)=同社鉱物資源事業部員。4人は6月中旬から鉱物資源調査に従事しており、約4カ月ぶりの帰国となる。
ビシケクの日本現地対策本部は26日未明まで、東京の外務省と4人の帰国手順などについて協議した。その結果、記者会見は行わず、すみやかな帰国を決めた。「人質生活は2カ月間に及び、健康状態を考えると一刻も早い帰国が望ましい」(現地対策本部)との判断からだ。チャーター機には医療機能も備えてあるという。
     ◇
ビシケクの循環器内科センターで一夜を明かした日本人技師4人は26日朝、同センターわきの出入り口から姿を現した。4人ともひげをそり、さっぱりとした様子で顔色もいい。手には赤い花を持ち、背広姿の人もいた。報道陣に囲まれて無言のまま、用意された4台の救急車につぎつぎと乗り込んだ。最後に出てきた原田陽夫さんは救急車に乗る前に医師とあいさつをした。
4人は25日夕、空港から同センターに向かい、健康診断を受けた後、5階の病室に入ったという。廊下には警備員が立ち、ものものしい雰囲気だった。
      ◇
解放から一夜明けた26日朝、岐阜県神岡町の有家敏晃さん(58)の自宅では母国枝さん(82)が親類らと敏晃さんの帰りを待ちわびている。
「元気でいる」。25日午後9時過ぎ、敏晃さんから自宅に国際電話で無事を知らせる連絡があった。
電話は解放の知らせを聞いてかけつけた親類が受けた。「私はちょうどおふろに入っていたもんで、声が聞けなかった」と国枝さんは残念そうだ。
「でもテレビで見た顔は本当に元気そうだったし、安心してます」
妻の真由美さん(55)は「一刻も早く会いたい」と25日午後、東京へ向かった。真由美さんから親せきの家に電話があった。「東京に迎えに来ました。子どもたちも今日には東京に来る予定です」。真由美さんは、帰ってくるのを待ちきれない様子だった。

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