どっちもどっちではない

まず, 初めにこの記事は, 特定の人物を誹謗中傷する為に, 書くものではない。田川建三氏が, 指摘するように「聖書翻訳の問題を取り扱うならば語学としてラテン語, ギリシャ語, ヘブライ語, 英語に精通し, 聖書本文から翻訳できることが, 前提条件である」との意見に全く, 同感である。

ものみの塔は, 1999年7月現在迄に99種類の聖書を, 参照してきた。 その一例を挙げればフィリップス訳, Geneva Bible , NIV, TEV, リーダーズ・ダイジェスト訳, ヨハネス・グレーベル訳, 改訂標準共同訳, RSV, エルサレム聖書, アメリカ訳, アルクイン・バイブル, アンカー・バイブル, アントワープ・ポリグロット, ウェスト・ミンスター訳, エルバー・フェルンダー訳, プランタン訳, デンドリウス・エラスムス訳, KJV, NKJV, カソリック・コンフラタニティ訳, Catholic New Testament, ドウエィ訳, エンファティック・ダイアグロット訳, ERV, Holman Linear Bible, Knox Version, Moffatt, Murdock, Noyes.G. R, Peshit Version, Philoxenian Harkleina, RSV, ロザハム訳, Samaritan Pentateuch, Septuagint, 20世紀の新約聖書, ウェイマウス, CEV, バイイングトン訳, ヘクサプラ(オリゲネス編), ベリーによるヘブライ語旧約聖書行間逐語訳, ベンジャミン・ウィルズ・ニュートン訳, ボナー・バイブル, マイルズ・カバデール訳, マーシュ訳, マルゴーリス訳, リビング・バイブル(ティラー訳), ローベル・ステファヌス訳, フランケサ・ソレ訳, グル・チョーリ訳, 前田訳, 関根訳, 現代訳, 文語訳, 新共同訳, 新改訳, 詳訳聖書, ルター訳, GNB, 等である。

『新世界訳聖書』は, 1950年8月2日ニュヨーク・ヤンキースタジアムにて発表された。ギリシャ語の翻訳に当たっては, ギリシャ出身のジョージ・ギャンギャス, ヘブライ語の訳出に関しては,シンシナティ大学で2年間学んだというフレデリック・フランズを中心として, 既成の翻訳が参照された。

ものみの塔の翻訳の一部を, 捉えて「改竄している」などと決定づけるのは, 早計である。新世界訳聖書が, どの様な意図で翻訳されたかは, 聖書語句大辞典による緻密な調査により, 偏った神学背景に基づいていることが, 浮き彫りにされる。中途半端なギリシャ語知識やヘブライ語知識のある者が, 新世界訳の訳出の優位性に引き寄せられることもある。それゆえ, ものみの塔協会の出版する『新世界訳聖書』が, ある意図をもって意訳された翻訳であることを, 証明するためには, 多くの実例と紙面を必要とする。今回は, そのことを取り扱う予定は, ないので割愛する。

さて, 内藤氏の主張を引用する。

聖書本文の他に「キリストの占められるべき地位」を決める基準があるらしい‥‥昭和45年に「いのちのことば社」より発売された聖書によると次のように書かれている。 新改訳聖書の訳業は、次のような原則によっています。

1 原典にできるだけ忠実であること。
2 文法的に正確であること。
3 一般の人に理解できるものであること。
4 主イエス・キリストの占められるべき地位、みことばが主にささげている地位を正しく認めること。そして、この業績は決して個人に帰せられるべきものではない。

1の「原典にできるだけ忠実であること」は訳者諸先生方の建前であろう。もしかしたら枕詞みたいに無意識に使用しているのかもしれない。訳者諸先生方の本音は4の「主イエス・キリストの占められるべき地位」に出ている。

これでは聖書本文の他に「キリストの占められるべき地位」を決める基準があることになる。 聖書原典にできるだけ忠実であること、と初めに言いながら、自らこれを否定しているのではないか?

主イエスの地位を決めているのは聖書だけである。しかし、聖書を翻訳している内に翻訳者の多くは、次の様に感じ思い、事をすすめたのであろう。何と聖書原典に書かれている「主イエス・キリストの占められるべき地位」が当初考え信じていたのとは違う、特に主イエスの地位が低すぎる、それで翻訳を越えて意訳にまですすむべきだ、即ち「みことばが主にささげている地位を正しく認めること」にまで翻訳作業をすすめなければならない。それで確かに「この業績は決して個人に帰せられるべきものではない」。しかしこれを悪く取ると「この責任は私にはない」と各自が責任逃れしている様にもとれる。

あるいは他のいろいろの翻訳された聖書を調べると「主イエス・キリストの占められるべき地位」が明確にされていない。即ち「みことばが主にささげている地位を正しく認めていない」。それでこの翻訳では、これをもう少し明確にしようということであろう。 しかしこれでは聖書の本文に忠実ではありえない。これは神をも恐れない暴挙というべきであろう。何とこれが聖書を最もよく知り、聖書を神の言葉と信じ、聖書が語っていることをすべてそのまま信じる聖書に絶対的な権威を置くと信じる福音的信仰者の姿なのである。


まず, 初めに「聖書本文の他に『キリストの占められるべき地位』を決める基準があるらしい」という表現は, 大変誤解を招く言葉である。

つまり, 「訳出に先立ち‘イエス・キリストは神である’との神学的立場に於いて, 翻訳した」印象を受けてしまう。

しかし, 内藤氏も自書の中でギリシャ語文法からすれば御子イエス・キリストが神であることを認めている。

『エホバの証人(ものみの塔)−その狂気の構造』(現在絶版)90-91頁に於いてヨハネ第一5章20節に触れ 「この方が真実な方(父なる神)を示すのかどうかが問題になる。文法的には, キリストだが・・・」と認めている。

因みに, この問題については, 「目薬」誌1999年7月号でも取り上げられている。ヨハネ第一 5:20に於ける「この方」というのは, ギリシャ語文法や英語文法からも「この方」は直前の名詞である「御子イエス・キリスト」を指し示しているは, 明白である。

さて, ヨハネ1章1節の解釈に当たっては, 永年ユニテリアンによって翻訳された聖書でさえも Word was God 或いは, Logos was Godと訳出されていた。

エホバの証人とキリストの神性について論じる場合, 文法釈義から論じていては, 平行線に終わる可能性が, 高い。エホバの証人と論じる際には, イエス・キリストが神であるのかということよりも, キリストが※※※なのかどうかを論じた方が効果的である。

また, ものみの塔の※※※※※※は, ※※※ているのかどうかを論じる方が, 議論に対して白黒の決着を付けやすいのである。

つまり, よほどの文法の専門家でないと理解できない事柄を扱うよりも(実際, エホバの証人は, ギリシャ語原文やヘブライ語原文やラテン語原文から話し始めるとパリサイ人のように警戒し始めるから知恵が必要である), だれが見ても一目瞭然の内容を扱うべきである。

つまり, 内藤氏のHPの内容は, 肝心な争点をずらして, 平行線への道を辿っていることになる。尚, ここでは内藤氏の扱っている「三位一体の歴史」等については, 紙面を割く予定はない。

この紙面では, ※※※は, 機密事項の為, 非公開としたが, ある事柄から論証するならば, それは「どっちもどっち」ではなく, 明白な答えが出る。

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