御霊の実

1999年4月に召天されたフィラード・L・ラウンズ宣教師を記念して

本文は、『御霊の実によって生きる』を翻訳者の許可を得て、部分的に抜粋。

「4 寛容(忍耐) 価値ある絵にふさわしい額縁は、その額縁そのものにではなく、その中にある絵に人々の目をひきつけるものです。信仰者の生活における忍耐は、信仰者自身でなく恵み深い主イエスに人々をひきつけます。忍耐にはいくつかの類義語があります。辛抱、我慢、不動の信念、すべてに耐えること、主を待ち望むこと、堅忍などです。忍耐の語は聖書に426回出てきます。

農場で育った少女が、父の仕事がニュヨークに移ると聞いて祈っているのが聞こえました。「神様、これでお別れです。私達はニュヨークに引っ越すのです。」この子と同じように、私達も、間違った結論に飛躍することがよくあります。私達の神は、どこにでもおられるのです。聖霊は、御霊の実を私達に提示されるときに、忍耐の実をこの順番で述べておられるのは賢明なことです。

・・・・御霊の実は自己努力によってではなく聖霊によって結ぶのである事を忘れてはいませんか。・・・忍耐の反対は何でしょう。耐えられないことです。耐えられないこととは何でしょうか。神を受け入れないことです。耐えられないことは、神の真理と愛の道を拒絶することです。耐えられないとは偶像礼拝です。耐えられないとき、私達はとても危ないところにいます。何かあるとすぐ倒れてしまいます。

今日私は花屋に行きました。鉢植と切り花がありました。店員は、切り花を全部元気良く保つために気を使って水を入れてくれました。私達も、神の子供として、その霊を健康で若々しく保つために、神の御言葉と神の民としての交わりという命の水に、私達自身を、私達の値を深く入れておかねばなりません。1940年から1950年の間に、何百人もの人が刑務所で回心しました。刑が終わって、多くの人が主のために伝道に出て行きました。

私達はクリスチャンの愛でこの人々を受け入れました。多くの人が、殺人や強盗、その他の犯罪を赦されていました。

ところが、この間に、教会の若者たちが自分達の小さな証をつまらない思って、証することをやめてしまっているのに気づきました。鯨に飲み込まれて英雄になるのは簡単です。しかし、人生のピラニヤに少しずつ噛まれているときこそ、忍耐が必要なのです。 ・・・私達は人間なので、自分の家の窓越しに見て、隣の洗濯物がうす汚れていると言いがちです。でも、後で自分の家の窓が薄汚れていたのだと気付くのです。寛容でない人は人を裁きます。神は裁くなと言われます。寛容な人は祈り、待ち、祈ります。

せっかちなパウロは、剣をつかんで飛び出して、マルコスの頭を切り損なって、耳を切り落としました。(マタイ26・51)寛容がないと神様を念頭に置きません。モーセは「神は怒ることをおそくいらせられる」と書きました。(出エジプト記34・6)神の聖徒よ、このことを感謝しましょう。寛容の心があると「神は私の人生に働いておられる。私はそれを知っている。私は主のご支配の下にいる私は主のものである。」と認めます。 農夫は、忍耐強く稲の苗を植え、育成し、収穫を期待して待ちます。彼らはめったなことに失望しません。私達は、神の民として、自分で出来るだけのことをやって、後は神がお働きになるのを待ちましょう。そうすれば、まあ、何と素晴らしい収穫があることでしょう。・・・」

著者紹介

1928年アイオワ州デモインにて出生。1947年Open Bible College 入学。1950年同校卒業。 1950年から1966年までの16年間日本で七つの教会設立を援助、日本地区を監督。本田弘慈師らの伝道を全面的バックアップ。1966年米国に帰国後、1988年までオーラル・ロバーツ大学にて奉仕。その後、オクラホマ・タルサのファースト・ユナイテッド・メソジスト教会の牧師として奉仕。1999年4月召天。

申込先は東関東キリスト教会047-464-3587

千葉県船橋市習志野台2-49-19-3F 古野陽一牧師(元上智大学経済学部教授)

価格は800円

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