『新世界訳』聖書の訳出の統一性

まず, この記事を論考する前に, 主から示されたみことばを, 皆様に, ご紹介します。 「愛は, 辛抱強く, また親切です。愛はねたまず, 自慢せず, 思い上がらず, みだりな振る舞いをせず, 自分の利益を求めず, 刺激されてもいらだちません」。『新世界訳』聖書。

ここでは1990年版『聖書全体は, 神の霊感を受けたもので有益です』に絞り考察してみましょう。

1, 現代語で訳される 『霊感』第328頁4段落への論考

聖書を現代語に翻訳することに反対しません。古い文体は, 古文詩独特の響きが あって古い文体の翻訳も捨てがたいものです。しかし, 現代に生活している私達には, 古い文体を理解するためには多少骨が折れます。ですから, 「誰もが聖書を読んで, 理解することが, 出来るようにするためには」と言う意味で, 聖書の現代語への翻訳に賛成致します。

2, 訳し方の統一性  『霊感』第328頁7段落への論考

字義訳は混乱を起こします

『霊感』第327頁には次のように書かれています。「新世界訳は翻訳に一貫性を保つようにあらゆる努力を払っています。ヘブライ語, ギリシャ語の特定の原語の言葉に対して同一の訳語が当てられ, その訳語は慣用法, また分脈の許す限り, 十分理解できる範囲内で統一的に用いられています。例えば, 『ネフェシュ』というヘブライ語は一貫して『魂』と訳されています」。

もし, このことが本当に成立すれば翻訳作業は, 大変簡単なことに成ります。しかし現実には, そうはいきません。「翻訳」に対する, ものみの塔聖書冊子協会のそのような考え方が,『新世界訳』聖書を, 大変奇妙な訳文にしている原因の一つなのです。ある原語の,中のある単語は, その言語を用いる人々の集団(=言語集団)の中で, 歴史的に形成されて来た概念の表現です。従って異なる言語集団が歩んできた歴史も異なり, 歴史の中で, 結成される概念も違う言語を, 他国の言葉で一つに表現することなど不可能に近いのです。

時代と原語集団が変われば, 言葉の意味も変わります

また, 同じ言語集団であっても, 時代が異なれば同じ単語が, 別の意味を持ちます。 異なる複数の意味を持つ単語を, その単語の属する言語とは, 別個の同じ単語に一貫して翻訳する事が出来ると言うことは, 実際はないと言っていいでしょう。  翻訳についての彼らのこのような間違った考えにより, 『新世界訳』聖書を摩訶不思議な聖書としています。このことに関しては, 既に研究者によって論証されているので一例のみ挙げます。列王記第一 7:6-8ではソロモンの神殿に於いて「玄関だらけの家」が述べられています。

これはヘブライ語のウーラムと言う原語を一つの単語, 即ち,「玄関」に訳出したために, この様な奇怪な訳になってしまったのです。これは二度とお目にかかれないほどの名訳(迷訳)です。『霊感』第327頁には次のように述べられています。「『ネフェシュ』と言うヘブライ語は一貫して『魂』と訳されています」。この言葉によって, あたかも『新世界訳』聖書はその翻訳に一貫性を保っているように述べています。それではイザヤ 56:11の「魂の願望の強い犬」とは何でしょうか。

『聖書から論じる』第300-301頁で,「ヨシュア 11:11『彼らはそこにいたすべての魂[ヘブライ語:ネフェシュ]を剣で討った』」。(ここで, 魂は剣で触れることの出来るものであることが示されています。ですから, これらの魂が霊であったはずがありません, と述べています。)そうするとイエスがマタイ 10:28で「体を殺しても, 魂を殺すことの出来ない者を恐れてはなりません。」という言葉は矛盾していることになります。何故なら, 魂が命であるならヨシュア11:11に記されている様に魂が剣の刃で討たれる以上, 体を殺すことと魂を殺すことととは同義であることになります。それ故に「体を殺しても魂を殺すことの出来ない者」など存在しないからです。

いずれにしても,『新世界訳』聖書は難解な聖書であり, 字義訳の故に混乱を巻き起こす翻訳です。字義訳にしたために, 現代の私達には解らない表現が沢山出てきます。「魂」に関しては『洞察』第二巻第155-159頁に, 「玄関」に関しては, 『洞察』第一巻 第873頁に注解が述べられています。一つの原語を一つに翻訳したために, さらに語句の説明が必要とされるのです。結局のところ, この様な翻訳は, 組織のお膳立てした 解釈になってしまう結果を生み出すのです。

3, 創世記 1:3 の光「オール」と創世記 1:14の「マオール」について

創世記 1:3には「神は言われた。『光あれ』こうして, 光があった」と書かれています。この聖句の「光」はヘブライ語の[オール]で「光, 稲妻」という意味です。 KJV, NKJV, NIV, NWTは, Light(単数形)として訳出し, 光源ではないことを明示しています。邦訳では, 文語訳, 口語訳, 新改訳, 新共同訳も「光」と訳出しています。

「オール」は光源を持っていないか, 発話者にとって光源から切り離された単なる光を意味しているようです。何故なら稲妻とは, 天体の光のようなそれ自身が, 光っている光源から切り離された単なる光を意味しているからです。一方, 創世記 1:14の「マオール」は 「発光体, 光, 燈火」の複数形で表され, 「光る物, 光体, 光源」と訳出する事は適切なことです。『新改訳』聖書も「光る物」と訳出しています。ちなみにKJV, NKJV, NIVは, Lights(複数形)として訳出しています。NWTはLuminariesと翻訳しています。この「オール」及び「マオール」の訳出に関して言えば正しく訳出していると言えます。ただし,『新世界訳』聖書に先立つこと350年前に, キリスト教会が正しく翻訳していることも付け加えておきましょう。

文責:M

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