和訳聖書の歴史

1, キリシタン時代の初期の聖書

日本における聖書の歴史は, 1549年フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が初めて鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まると言われている。しかし, 現在記録は残っていない。フロイスの『日本史』によると, ザビエルがマラッカで出会った日本人ヤジロウの協力によって和訳の計画をしていたことは確かである。

ザビエルに同行した修道士イルマン・フェルナンデス(1525-1568)は, このヤジロウの協力を得て信仰問答をローマ字に訳している。この中には, モーセの「十戒」や「主の祈り」が入っていたはずだから, 聖書の一部は既にこの時代に日本語にされていたようである。フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようだが, それに関する詳しいことは不明である。しかし, 彼とともに同地に布教していたフロイスの記録によれば, 1563年肥前(長崎県)度島(たくしま)の教会の火災で, この稿本が無惨にも焼失したと言われている。

2, 屏風の下張りに使われていた聖書和訳稿

現在知られている最も古い和訳聖書の断片は, 松田毅一氏が1960年にエヴォラ図書館から整理を依頼された際, 古屏風の下張りから発見されたものである。

そこには旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)3章7節が「云ヘキ時アリ, モタスヘキ時アリ」と訳されている。このほかにイザヤ書1章11節など幾つもの訳稿が発見されている。これらは1580年頃のものと推定される。

3, 幻の京都版「新約聖書」

英国国教会の信徒, 船長のセーリスは『日本航海記』の1613年10月9日に, 「ミヤコ(京都)で新約聖書を日本語で印刷している」と記している。この京都版は, カトリック教会の記録にも裏付けられてはいるが, これ以上はわかっていない。


三人の漂流民とギュツラフの出会い

1832(天保3)年10月11日, 尾張米を積んで, 鳥羽港を江戸へ向けて出航した千石船「宝順丸」は, 遠州灘で遭難し14か月間の漂流の後, 北米西海岸のフラッタリー岬に漂着した。1834(天保5)年1月のことである。生き残りは, 船員14名中, 岩吉(推定28才, 後にキリスト教に転向), 久吉(同15才), 音吉(同14才, 後にキリスト教に転向後通訳として来日)の3名であった。三浦綾子著の『海嶺』やビデオ『海嶺』に詳しい。

彼らは, アメリカインディアンに捕らえられ, 奴隷のように酷使されていたが, ハドソン湾会社の支配人に助けられ, 日本に送り返されるために, ロンドン, 喜望峰を経て, 1835(天保6)年12月にマカオに到着した。3名は, 英国商務庁の保護のもとにおかれ, 主席通訳官であるプロシヤ生まれでオランダ伝道協会の宣教師のカール・ギュツラフの家にそのまま滞在することとなった。

一方, ギュツラフは何とかして, まだ見ぬ日本の人々に聖書を自分の言葉で読んでもらいたいと日頃から願っていた。ギュツラフはその祈りが聞かれたと感じ, 翌年3月, シンガポールにいたアメリカ聖書協会のブリガムに手紙を書いている。「これらの日本人に出会ったのは, 千載一遇の好機である。」と説いて, 費用を負担してくれるように求めている。その結果, アメリカ聖書協会は, 年間72ドル支払ったと記録されている。翻訳は, 1835年12月より始まり, 翌年11月に完成した。この聖書は, 現存する最初の日本語聖書として有名なギュツラフ訳の「ヨハネ伝」「ヨハネ書簡」である。

日本への伝道を志したギュツラフも, そして日本へ帰国することを待ち焦がれた3人の男たちも, ついにこの聖書を日本へ届けることは出来なかった。1859(安政6)年, ヘボンがその聖書を持って, 日本へ来るのは実に翻訳完成の23年後であり, 開国後のことである。


現存する最初の日本語聖書

ギュツラフ訳「約翰福音之傳」と「約翰上中下書」。ハジマリニカシコイモノゴザル 最初に日本語に翻訳された聖書は, ギュツラフの「約翰福音之傳」(ヨハネ福音書)と「約翰上中下書」(ヨハネの手紙1, 2, 3)である。

ヨハネ福音書は, 1835(天保6)年〜36年にかけて, 3人の日本人漂流船員(岩吉, 久吉, 音吉)の助けを借りて, マカオで翻訳され, 1837(天保8)年, シンガポールで木版刷りで印刷されたものである。1,690冊印刷されたと伝えられているが, 現在, 世界には16冊しか残っていない。「ハジマリニカシコイモノゴザル」で始まる全文カタカナで, 翻訳の苦労が偲ばれる。この聖書は, その後の研究によると3回印刷されたようである。しかし, 1838(天保9)年7月のアメリカ聖書協会の委員会の記録によると, この翻訳は聖書協会が要求する水準にないとの理由で, 印刷を打ち切られている。この聖書は, 千葉聖書展で見ることができた。

更に, ギュツラフは, 「ヨハネの手紙1, 2, 3」も翻訳したが, 僅か2冊しか残っていない。「ヨハネ福音書」と同じ体裁で1837(天保8)年にシンガポールで出版され, 大英博物館とパリ国民図書館に1冊ずつ所蔵されている。約翰福音之傳 60丁(120頁), 約翰上中下書 10丁(20頁)版木彫り代 1丁 約2ドル40セント, 版木刷り代 1丁 約16セント。1丁は, 見開きで2頁分である。

ベッテルハイムは, ハンガリー人であるが, 英国人の妻の国籍に入った医師であり, 英国の琉球海運伝道会の命を受け琉球に派遣された。1846(弘化3)年5月1日, 彼は妻と子供3人の家族を伴い那覇に着いた。琉球では迫害に会いながら, 「路加傳福音書」(ルカ), 「約翰傳福音書」(ヨハネ), 「聖差言行傳」(使徒言行録), 「保羅寄羅馬人書」(ローマ書)を翻訳, 1855(安政2)年香港で出版した。


日本で最初に印刷された聖書

1859(安政6)年, 開国後すぐに来日した7人の米国宣教師たちの中で, 聖書翻訳の担い手になった, ヘボン, S.R.ブラウン, ゴーブルの3人が, 神奈川成仏寺に集められたことは, 偶然ではない。彼らは, それぞれに海外で訳された日本語聖書との出会いを経験している。

ヘボンは1841(天保12)年, シンガポールの米国外国伝道協会の書院でギュツラフの「約翰福音之傳」を見いだした。ブラウンは, 1839年中国宣教師となってマカオに滞在した時, モリソン記念学校の校長として英語を教えながら中国語を学んだ。その校舎はギュツラフ邸であったので当然, 彼の影響を受けている。

日本伝道の準備のためにペリー艦隊に参加したゴーブルは, 琉球でベッテルハイムの訳業に感激し, その出版の手助けをしたいと願った。3人は海外訳聖書の系譜を継ぎながら来日し, 神奈川成仏寺の一ヶ所に集められ, お互いに一日も早い聖書の刊行を競い合って, この版木に至った。ゴーブルは, 1871(明治4)年に貧困の中で日本最初の「摩太(マタイ)福音書」を出版する。

ヘボンとS.R.ブラウンは, 翌1872(明治5)年に「新約聖書馬可傳」(マルコ), 「同約翰傳」(ヨハネ)を, 1873(明治6)年に「同馬太傳」(マタイ)を, 木版刷りで出版した。まだ, キリスト教は禁制下にあり決死的事業であった。


日本の聖書普及事業の始まり

1872(明治5)年9月20日, 日本在住の各ミッション合同の第1回宣教師会議が, 横浜居留地39番のヘボン宅で開かれた。席上, ヘボンは各教派共同で聖書の翻訳に当たることを提案した。各教派からS.R.ブラウン, ヘボン, グリーン, マクレー, N.ブラウン, パイパアとライトの7名が選ばれ, 1874(明治7)年「翻訳委員社中」が組織され, 新約聖書の翻訳に従事した。

一方, 旧約聖書は1878(明治11)年に「聖書常置委員会」(N.ブラウン, クインビー, カクラン, ヘボン, S.R.ブラウン, ライト, ワデル, ゴーブル, クレッカー, マクレー, グリーン, パイパアの12名)が組織され, ヘボンを委員長として翻訳がなされた。これに日本人補佐役として, 奥野昌綱, 高橋五郎, 松山高吉らが協力している。

1875(明治8)年には, 北英国(スコットランド)聖書会社(NBSS)が, 横浜で最初に聖書事業を始めた。翌1876(明治9)年には米国聖書会社(ABS), 大英国聖書会社(BFBS)がそれぞれの支社を横浜に開設した。この3つの聖書会社は, 1904(明治37)年から, 米国は北部日本を担当し, スコットランドと英国は本拠地を神戸に移し西日本における聖書普及事業を分担して展開していく。米国聖書会社が, 東京・銀座に横浜から移るのは1919(大正8)年のことである。


文語訳から口語訳へ

「文語訳」1887(明治20)年完成

新約聖書はヘボン, S.R.ブラウンを中心とする「翻訳委員社中」が, 1874(明治7)年から翻訳を始め, 分冊で順次出版し, 1880(明治13)年に完成した。一方, 旧約聖書の翻訳は, 1878(明治11)年に「聖書常置委員会」を組織し, 本格的に翻訳が開始された。翻訳には, 欽定訳英語聖書, ブリッジマン・カルバートソン漢訳聖書などが参考にされた。

1887(明治20)年全部の翻訳が完成し, 翌年, 歴史的な完成感謝の祝賀会が東京・築地の新栄教会で開催された。米国, 英国, スコットランドの聖書協会の経済的助力による。これが, 「明治訳」(元訳)と言われるもので, その旧約聖書は, 今でも「文語訳」として用いられている。「明治訳」の新約聖書はその後改訳されて, 1917(大正6)年10月に出版された。大正改訳として有名である。

「口語訳」1955(昭和30)年完成。

1950(昭和25)年ごろになると戦後の現代かなづかい, 当用漢字の制定などによる国語の変化や聖書学の急速な進歩で, 聖書改訳要求が次第に高まってきた。1951(昭和26)年4月, 米, 英両聖書協会の協力を得て, 翻訳が始まった。この翻訳は, 初めて日本人の聖書学者によってなされ, 1954(昭和29)年に新約, 1955(昭和30)年に旧約が完成し出版された。

1962(昭和37)年『詳訳聖書』頒布。

1963(昭和38)年『新改訳聖書』頒布。

1975(昭和50)年『リビング・バイブル』頒布。

1978(昭和53)年『新約聖書 共同訳』が完成, 1987(昭和62)年9月5日, 『聖書 新共同訳』が発刊された。

1983(昭和58)年『現代訳』(尾山訳)頒布。

1960, 1965, 1988年『英和対照 新改訳新約聖書』頒布。

その他の邦訳

岩倉具実・大島功訳(ローマ字書き聖書), 関根正雄訳, 塚本虎二訳, 前田訳, バルバロ訳, フランシスコ会聖書研究所訳, エフ・パロット編聖書, 増補改訂旧約聖書略解(日基)増補改訂新約聖書略解(日基), 共同訳, 岩隈直訳, ヴルガタ全訳, 子供聖書 新しいお約束の御本(上沢謙二訳), 左近義弼訳, 杉浦貞二郎訳, 新世界訳*など。

現在に於ける聖書事業

今までに, 世界130ヶ国以上のクリスチャン実業家及び専門職業人で組織された, 国際ギデオン協会によって4億冊以上の聖書が, 無料で贈呈されてきました。その贈呈先は, ホテル, 旅館, 病院, 刑務所, 自衛官, 警察官, 学生, 生徒, 看護婦等です。読者がこの聖書を通して,生ける神と出会い,日々の生活の中で救いを見いだせるようにと祈ってやみません。

*新世界訳は, 聖書とは名付けられているが, 「聖書」として認めず‘一般書’として扱う古書店もある。

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