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台湾の歴史

国民党台湾へ

大陸南京の国民党政権は1947年4月22日、陳儀行政長官を罷免、長官公署を廃止し、「台湾省政府」を設置、5月17には米国に受けの良い魏道明が台湾省政府主席に就任した。就任翌日、戒厳令を解除し、「二・二八事件」関係者逮捕の中止を声明した。しかし、実際は事件関係者の逮捕と処刑は暫く続く事になる。魏道明主席は台湾人懐柔策として台湾省政府委員や省政府高官の半数に台湾人を起用したが、結局は彼らの部下である外省人が実権を掌握していた。

中国大陸での共産党と国民党の内戦は、国民党の形勢不利が明らかになっており、国民党政権は台湾への移転に向けて本格的な準備を始めた。1948年12月、蒋介石の腹心、陳誠が魏道明に代わって台湾省政府主席に任じられ、蒋介石の長男、蒋経国が中国国民党台湾省委員会主任委員に就任した。また、次男の蒋緯国が率いる陸軍精鋭舞台も台湾に移動した。陳誠は警備総司令官も兼任し、港と河口を封鎖、海岸線を管制下に置き、軍人、官吏、商人などの台湾上陸を制限し、台湾への難民移入を止めた。1949年5月20日、戒厳令を施工。この戒厳令は1987年7月15日に解除されるまで、40年の間実施された世界で最も長いものとなった。

国民党の形勢がますます不利になった1949年8月、台湾に渡った蒋介石は台北市北部の陽明山を本拠に定め、国民党総裁として命令を下すようになった。10月1日、共産党が「中華人民共和国」の建国を宣言し、国民党の敗北は決定的なものとなった。

1950年6月の朝鮮戦争勃発に際し、米国トルーマン大統領は「台湾海峡の中立化」を宣言し、台湾海峡に米国艦隊を派遣し、中国が台湾に武力侵攻すること、また反対に台湾が中国に武力侵攻することを阻止した。この後、台湾は米国の軍事保護下に置かれ、西側陣営の一角となった。朝鮮戦争前は、米国が台湾海峡不介入を表明していただけに、朝鮮戦争の勃発は台湾のその後の運命を決定付ける大きな出来事だった。1979年の米中国交正常化の後も、米国国内法の「台湾関係法」で台湾を政治的な実体とみなし、実質的関係を保持し、台湾が防衛に必要な軍事物資を有償で提供しつづけた。国民党政権は米国の保護下で、台湾で生き延びる事が出来たのである。

蒋介石が国民党初代総統に就任した当時「動員戡乱時期臨時条款」という、臨時に憲法に優越する法律が制定された。(1948年5月)これは反乱団体である中国共産党を平定(戡乱)するまでの国家騒動員の時期を指し、2年間の時限立法とされた。国民党が台湾に移った後の1950年5月に満了となったが、「反乱」の平定が実現していないことを口実に延長され、1991年5月まで43年間にわたり施行されることとなった。つまり、国民党政権は、米国の保護下の台湾を非常時の「国民戡乱時期」体制に置き、「動員戡乱時期臨時条款」で統治したのである。「動員戡乱時期臨時条款」を補強するのが戒厳令だったり、「動員戡乱時期臨時条款」のもとに制定された160もの法律である。国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実にも台湾での強権政治を正当化した。これにより、蒋介石総統、また後の蒋経国総統を頂点とした一党独裁体制が築かれて行った。

「二・二八事件」後、台湾に監視と摘発の網を張り巡らせた国民党政権は、改革要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国共産党に通じた」「中共のスパイをかくまった」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で、容赦無く弾圧した。それだけでなく、批判や抵抗をする異議分子抹殺のために、罪の捏造も行った。

1953年5月の「呉国驛Aメリカ亡命」がその最も古い代表的な例だ。外省人である呉国驍ヘアメリカの信任が篤く、1949年12月に台湾省政府主席に起用されたが、蒋経国とうまくいかず、暗殺の危機を察知して台湾省政府主席を1953年3月に離任、5月にアメリカへ亡命した。亡命後は国民党政権の強権政治を強く批判した。

1955年8月「孫立人事件」。外省人である孫立人もまたアメリカの信任篤い将軍で、戦前はビルマ戦線で日本軍と戦い、成果をあげたが、戦後は国民党軍の司令官を歴任したが蒋経国とうまくいかず、総統府参軍長在任中に、部下の中国共産党スパイ事件で解任され、軟禁された。1988年になって33年ぶりに軟禁を解かれた。

1960年9月、雑誌で「反抗大陸無謀論」を展開し、スパイ庇護容疑で逮捕された「雷震事件」、1961年9月、台湾独立首謀容疑で200名の支持者と共に逮捕された「蘇東啓事件」、1962年1月、台湾共和国臨時大統領廖文毅を支持したとして200人が逮捕された「廖文毅台湾独立事件」、1964年9月、「一つの中国、一つの台湾」論をいち早く展開した台湾大学教授と弟子2名が逮捕された「彭明敏事件」、1968年8月、反国民党の激論を常々展開していたため、270人の支持者とともに逮捕された「林水泉事件」などが発生している。まだまだ続く。

1971年11月、台湾キリスト教長老派教会の「国是声明」は、「台湾の民主化」と「台湾の将来は台湾人が決める」を主旨とし、また、1977年には「人権宣言」を発表、国民党政権を強く刺激し、その後のキリスト教関係者の弾圧と逮捕に結びついた。

1975年10月、立法委員の補充選挙に出馬するにあたり、29か条の蒋経国への公開質問状を印刷したところで反乱罪で逮捕された「白雅燦事件」。この事件では質問状の印刷業者も逮捕されている。

1979年12月、「美麗島事件」。12月10日の国際人権デー記念集会が無許可であることを理由に規制に遭い、官憲と衝突して流血騒ぎとなった。反国民党指導者が一斉に反乱罪に遭い、12年から14年の懲役刑となった。

1980年2月、「林義雄家族虐殺事件」。前年の「美麗島事件」で反乱罪により留置中の林義雄だったが、2月28日正午に彼の自宅に何者かが押し入り、実母と双子の娘の3人が惨殺された。林義雄は「美麗島事件」の重要容疑者で、自宅も監視下にあっての犯行なので、政府関連の特務機関の関与がささやかれている。林義雄は現在の民進党の主席である。

1981年7月、「陳文成博士虐殺事件」。陳文成は米国カーネギーメロン大学の教授だったが、在米中より国民党政権を批判していた。一時帰国していた際、警備総司令部から呼び出されたまま行方が判らなくなり、翌日、台湾大学構内で死体で発見された。数々の暴行の跡が残っていたという。

1984年10月、「江南殺害事件」。外省人だが、米国籍を持つ米国で活躍していた作家で、国民党政権の内情を暴露した『蒋経国伝』の出版問題をめぐり、蒋経国次男の蒋孝武の命令で国防軍軍事情報局が派遣したヤクザ組織によりサンフランシスコ郊外の自宅で惨殺された。

この事件を受け、当時のアメリカ大統領で「親台湾」と言われていたレーガン大統領が国民党に民主化推進の圧力をかけた。これがきっかけとなり、1986年の野党・民進党の結党や、1987年の戒厳令解除につながっていった。

 

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