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台湾の歴史

鄭氏による支配

オランダが台湾を支配している頃、中国大陸では満州族が勢力を強めていた。1636年に国名を「後金」から「清」と改め、朝鮮を服属させ、漢民族の「明」を脅かすようになった。「清」は「明」に取って代わる雰囲気だ。こういう状況の中、1628年に、鄭芝龍という勢力の強い海賊を呼び寄せ、その力に期待をかけた。鄭芝龍は長崎県平戸に滞在した事があり、田川という姓の日本人女性と結婚し、1624年に長男の鄭森(後の鄭成功)を産んだ。1631年に鄭森は母と弟と共に中国へ渡るが、当時の明は弱りきっていた。1644年に崇禎帝が自害した後も、南京、福建で政権を立てるが、やがて清に追われ、明王朝は終焉した。鄭成功は台湾に逃れたが、折りを見て清を攻め、明王朝の再興をたくらんでいた。

1661年、明王朝終焉の後、中国を転々としていた鄭成功だが、福建省の厦門(アモイ)で、オランダ連合東インド会社の通訳から台湾の土地の豊かさを聞かされ、侵攻を勧められた。厦門(アモイ)を長男鄭経に任せ、早速艦船を率い、同年4月には澎湖列島を占領、その後オランダの城塞を攻め、翌年2月にはオランダが降伏、台湾から撤退した。ここでオランダによる38年間の台湾支配は終わる。

台湾に到着して1年ほど経った1662年5月、明王朝の再興は成し遂げられぬまま、鄭成功は39歳の若さでこの世を去った。その死を知った厦門(アモイ)の長男鄭経はすぐに台湾に向かい、後継体制を整え、すぐに厦門(アモイ)に戻るが、1664年、清軍に攻められ、台湾へ逃れる事になった。明王朝再興はこれで諦めざるを得ない状況になった。しかし、鄭経も父鄭成功と同じ39歳で死去するまでの19年間、中国大陸の明王朝再興の事ばかりを考えていたため、台湾経営の政務には関心も無く、鄭成功以来の重臣である陳永華がその任に当たっていた。陳永華の功績は大きく、土地制度、戸籍、行政機関を整備し、鄭氏政権の基礎を築いた。しかし、明王朝再興を夢見る軍事政権とも言うべき鄭経への貢献の高さは、台湾住民への圧政を行ったからで、住民の抵抗は強かった。

鄭経が台湾に移った後、清はすぐに台湾を封鎖する政策を取った。東南沿海5省の住民に対し、沿岸から約17キロの内陸へ移させ、さらにその間の土地での居住、農耕のほか、立ち入りさえも禁じた。また、漁船商船の出入港も禁じた。しかし、これは清にとって反対の結果となり、密貿易が盛となり、封鎖政策に困窮した住民がどんどんと台湾へ移住して行った。住民が増えた台湾では、開拓が進み、耕地面積も飛躍的に増加した。開拓の一方で、鄭経の政権は、財源確保のため、オランダ以上の過酷な徴税を行っており、次第に住民の抵抗は最高潮に達していた。中国からの移民の増加により、原住民は漢民族の支配を受けるようになり、少数民族へと移行していった。

1681年2月の鄭経の死後、後継者争いの内紛が生じ、清打倒明再興派と台湾経営重視派に別れた。台湾経営重視派の陳永華が破れたため、清打倒明再興派が擁立した鄭克ソウ(土へんに「爽」)が後継者となった。鄭氏の後継争いは、鄭氏政権の末期症状と言え、鄭氏政権の打倒をねらう清にとっては、良い機会となった。

清は福建省に、鄭氏を裏切り清に寝返る投降者を奨励する役所を設け、寝返る者を優遇する作戦に出た。この作戦は大当たりし、鄭氏を裏切るものが後を絶たなかったという。鄭氏政権の荒廃ぶりがうかがわれる。

 

 

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