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台湾の歴史

虐殺と粛清

日本がポツダム宣言を受諾したことにより、日本は連合国軍の占領地となった。1945年9月2日、東京湾の米国戦艦ミズーリ号において、日本国全権は降伏文書に署名した。同日に発せられた連合国軍の指令第一号で、中国、台湾、北ベトナムの日本軍に対し、蒋介石大元帥への投降を命じた。この命令により、台湾、北ベトナムは蒋介石配下の中国軍に支配されるようになった。この頃、中国では既に国共内戦が始まっていたが、蒋介石配下の中国軍は実質的には国民党軍だった。

しかし、この命令の前日、四川省重慶に居た蒋介石を中心とする国民党政権は、「台湾省行政長官公署」と『台湾警備総司令部」を設立し、陳儀を行政長官兼警備総司令官に任命した。この時点では、まだ台湾の領有に関する国際条約も変更されていなかったのだが、中国が台湾をその一部とみなし、「台湾省」としたのは、カイロ宣言で既に決められていたからだ。台湾占領にあたる先遣部隊80人が米軍機で10月5日に台北に降り立ち、続いて17日には、国民党軍22,000人と官吏200人が30隻の米軍艦船に分乗して基隆港に上陸、同日のうちに台北へ進軍した。国民党政権は戦勝国だったが、米軍の支援あっての台湾占領で、国民党軍の低い士気や最低の装備を目にした台湾人は、日本軍とのあまりの差に驚き、日本が中国に敗れたとはとても信じられない様子だった。このような国民党軍への失望は、「祖国復帰」に一抹の不安を残すものであった。

行政長官兼警備総司令官の陳儀は10月24日に米軍機で上海より台北に入った。翌日10月25日、台北公会堂(現在は台北中山堂)で「中国戦区台湾地区降伏式」が行われた。この式典後、陳儀がラジオ放送で台湾が正式に中国の領土となったという声明を発表した。また、台湾人の意思に関わらず、その国籍を日本から中華民国に変更するもので、日本が日清戦争後の台湾割譲の際に二年の猶予期間を与えたのとは大きく異なっていた。また、「慶祝台湾光復大会」が同日行われ、祖国復帰を祝った。これ以後、10月25日は光復節とされた。この日から台湾人の国籍は「中華民国」となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた人を「外省人」と称して区別するようになった。

こうして台湾は中国経済の一部として取り入りられるようになり、日本に輸出されていた砂糖や米はすべて中国向けとなった。しかし、台湾元と中国貨幣間の交換レートを固定レートとし、台湾元を不当に低くしたため、中国から移入した商品の価格は押し上げられた。台湾経済は破局的困難に陥ったのだ。さらに、前線から帰還した軍人、軍属、軍夫を受け入れる職場も無かったし、国民党政権の意図的な台湾人排除もあって、失業者は30万人以上になった。治安も悪化し、日本時代の「法治国家」から「無法地帯」になった。バスや汽車にまで、警護員が同乗して対処にあたるほどだったと言われている。

国民党軍兵士の強奪、狼藉、また官吏の腐敗と貪欲は限りを知らず、台湾人は「同胞」という新支配者に失望し、不満を持つようになった。知識人から「長官公署」に対し、さまざまな要望が出されたが結局はうやむやにされていた。主な要望は陳儀行政長官以下の貪欲官吏の更迭だった。長官公署はそれほど無能だったのだ。

台湾人の不満が鬱積していた1947年2月27日、台北市淡水河沿いの台湾人商店街で起きた、密輸タバコ売りの取締りに端を発したいざこざは、たちまち全島規模の「二・二八事件」に発展した。この大体のあらましは、「取締員の傳學通(広東人)ら6名が、中年の台湾人女性の林江邁から、商品の密輸タバコの没収だけでなく、所持金までも取り上げたため、林はひざまづいて現金の返却を懇願したが、返却されないばかりか銃で頭部を殴られ、血を流して倒れた。憤慨した群衆が一斉に取締員らを攻撃したため、取締員らは逃げながら発砲、流れ弾が傍観の一市民に当たり即死となった。それが一層群衆を刺激し、近くの警察局と憲兵隊を包囲して逃げ込んだ取締員らの引渡しを迫ったが拒否された。」というものだ。

翌日28日、怒った群衆は専売局台北分局に抗議し、分局長と3名の職員を殴打して、書類などを路上で燃やした。午後になると長官公署前広場に終結した群衆は、抗議デモを行い、政治改革を要求した。長官公署の屋上から憲兵が機関銃を乱射し、数十名の群衆が即死した。ますます事態は緊迫し、台北市内の商店は閉店、工場は操業を停止、学生も授業をボイコット、数万の市民が抗議の列に加わり市中騒然となった。警備総司令部は戒厳令を布告。市民は放送局を占拠し、全島に向けて事件の発生を知らせた。

翌3月1日、事件は全土に波及、大都市のみならず地方でも騒動が起こり、市民が警察局を襲撃して外省人を殴打し国民党政権への不満をぶちまけた。軍、憲兵、警察は発砲して事態の収拾に努めたが、ますます悪化していった。台北市では「二・二八事件処理委員会」が設置され、陳儀行政長官に承認された。

3月2日、「二・二八事件処理委員会」が召集され、台北中山堂で民間人と行政長官側官吏5名での話合いが持たれた。

3月3日、「二・二八事件処理委員会」は「台湾省政の改革」を掲げた「二・二八事件処理委員会組織大綱」を採択した。行政主要ポストの半数に台湾人を起用する事、縣長・市長の選挙実施、自由の保証などがその要点である。

3月7日、「二・二八事件処理委員会」は混乱の中、合計42条からなる「処理大綱」を採択した。陳儀行政長官が台湾人の要求を受け入れるかのごとく見えたが…。

3月8日、中国から派遣された13,000名の応援部隊が高雄と基隆に到着、上陸の後、手当たり次第に台湾人に向けて発砲した。今まで台湾に居たのは接収部隊で装いも情けなかったが、応援部隊は米国の援助で装備された部隊であり、武器の無い台湾人が抵抗できるものではなかった。陳儀行政長官は応援部隊の到着の報を聞くと、「二・二八事件処理委員会」を不法組織として解散させた。前日までの交渉が嘘のような変わり様である。

台湾人の無差別な殺戮は高雄・基隆から始まり、約2週間で全島を鎮圧した。殺戮には機関銃が使用されたが、手のひらに針金を刺し、数人1組に繋いだり、麻袋に詰めて海や河に投げ捨てたり、また、処刑前に市中引き回しを行い、処刑後は数日間放置されたり、と今世紀に生きる近代文明の人間がなしえる業とは思えぬ野蛮きわまりない手口だった。

3月14日、警備総司令部により「粛奸工作」が開始される。「粛奸工作」の対象は、事件に直接関与していない者も多く含まれ、社会的指導者はもとより、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など、多くの知識人が逮捕された。意図的に日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようである。このため、台湾の知識人の存在は一時期の間空白となってしまう。

「二・二八事件」の関係者の逮捕は1949年になって緩和されるが、「要注意人物」の逮捕はまだ暫く続くのであった。国民党の発表によると、事件後1ヶ月に殺された台湾人は28,000に上る。これは50年の日本統治において日本軍によって殺戮された台湾人の数に匹敵する。また、有罪判決を受けて有期・無期の投獄に処せられた人数は計り知れないという。

国民党の台湾における「二・二八事件」に対する過剰な殺戮と鎮圧は国際社会の痛烈な批判を浴びた。国共内戦で劣勢にあり米国の援助が必要だった国民党は、米国の駐中国大使の抗議を受けると、蒋介石は米国の意向を無視できず、4月22日、陳儀を免職、5月1日に南京に召還した。余談になるが、陳儀は1950年に、中国共産党と通じたして反逆罪で逮捕、やがて処刑された。

日本統治下では「法の支配」、「法治国家」の精神を植え付けられ、国民党にもそれを期待していた。日本統治下では、いくら政府を批判しても、悪法とは言えども、治安警察法などの法によって裁判と処罰を受けていた。しかし、国民党は抵抗するものを手当たり次第に「鉄砲」で裁く事しかしなかったのだ。

 

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