新編 富岡案内

京急富岡駅

京急富岡駅は昭和六年、湘南電気鉄道の開通に伴い、翌年設置された当初は、木造の無人駅であった。其の頃、乗車する者がなければ通過するので、運転士に良く見える場所にい居ないと、通過される事があった。又、降車する時は運転士か車掌に申告して停車してもらったものだった。
 昭和十年代になって、軍需工場が出来るにおよんで、其の乗降は増えていった。終戦の直前の、昭和二十年六月十日の米軍機の爆撃による被害は大きく、駅舎は木っ端微塵となりました。
 駅を出て、大きなガードがありますが、これは東京オリンピックの時、奥の方にあった射撃場が一時、使用されるとの噂の有った時改造されました。その隣に、小さなトンネルじょう状のガードがあります。

旧湘南電鉄ガード

 現在、駐輪場となるこの辺りは、其の昔、富岡の集落から耕地へ行く、作道で有ったが湘南電鉄が布設される際、ガードトンネルとして設けられたものです。昭和十年代になりこの奥に、家が建てられ引っ越しの時に、難渋したのは昔語りである。
 このガードには、昭和二十年六月十日の空襲の際、折悪しく停車した上下二列車の乗客は駅前のガードに避難して、この直撃を受けて大きな被害を受けました。
 此の事は忘れる事の出来ない事実であり、永劫に戦争をしてはならない事の証である。
 三叉路の煙草屋と崖に貼りついた様な民家の間の道を、土手に添って行くと、日本画の大家、川合玉堂の別荘だった二松庵がある。

二松庵

大正の始め、東京 牛込 若松町に住まっていた、日本画の大家、川合玉堂がこの地に別荘を構えた。以来、昭和十年代の喧騒になるまで、画室も設けられて、四季の画作の拠点となっていた。
 大作、紅梅白梅も富岡の画室で完成している。この一郭は、良き昔の富岡の風情が見られている。
 道を小戻りして、富岡郵便局の前を過ぎて、大通りに出合うが、駅前から此処までは、前田川を暗渠にして出来た道路である。向こう側の紅やから、三和銀行の一帯には、大正の始め、福沢房子の為に別荘が作られていた所。その後、耕地の奥に移された。その裏道を行けばやがて、国道16号に出る。向こう側に、霊験のあらたかな、富岡六地蔵が祀られている。

  開け放つ画室の窓や通草咲く

富岡六地蔵尊

 其の昔、富岡の村の中心の阿弥陀堂に程近くに有ったと、伝えられるこの地蔵様は、明治四十年代の県道新設に当たり、現在地に移されたと伝えられている。当時、富岡橋を渡ると国道と岐れて山へ行く坂路があって、是れを「堰の坂」と称していた。
 この岐れ道の土手に、寄添うように祀られていたが、付近開発に伴って、現在地に安置されたものです。其の頃各地の開発により、居場所を奪われた野仏や庚申塔が、何時とはなしに持ち込まれて現況を呈する様になりました。
 土地の者達の、六地蔵様への崇敬の念は深く、毎年四月下旬の日曜日には供養会が催されています。
 古道金沢路の「堰の坂」は今、階段状に舗装されて昔の面影は有りません。又、明治以降、国道の富岡橋から谷津坂までを「堰の坂」と併せて呼んでいましたが、此の呼び名は忘れられようとしています。
 尚、「堰の坂」の語源は、この辺りに堰を設けて、潅漑の用に供した事によります。
 六地蔵様の脇を、建ち並ぶビルに向って行けば、シーサイドコーポの領域であります。

  六地蔵様の祭りや花吹雪く

シーサイドコーポ(富岡東公園)

 昔、日向山と称されたこの辺りの山塊は、通称[むけーやま]と呼ばれていました。
戦後、昭和三十年代から始まった開発の波に乗って、削り取られ現在の富岡団地が埋め立てられました。富岡の海岸埋め立ての走りです。
 当初、名称の如く海を真下に見る、理想的な住宅団地でしたが、目の下の海も埋め立てられました。現在は、新興住宅団地を睥睨するのが唯一の慰めでしょうか。
 団地を横切った、右隅に富岡東公園があります。此処からは、八幡山から長浜に及んだパノラマが楽しめます。
 シーサイドコーポの一番海寄りの道から、富岡高校を目の下に眺めながら北へ向くと、道は直角に曲がります。
 其処には昔、前田川の流れがありました。

前田川の「どんどん」跡

 今は、富岡橋の下で水路隧道を経て、放水路に注ぐ前田川はこの辺りで、海に流れ込んでいました。     
 明治時代の富岡みやげの絵はがきでは、前田の清流として「ヨマキ」に通じる、丸太橋を配して 紹 介されています。この橋の下流の一帯を[どんどん]と称しました。
 [どんどん]の語源は、「川が滝の様に落ち込む所」又は、「波や風によって浸食されて洞などの出来た所」、ユニークなのは「渡る時ドンドンと音のする橋」と有りますが、此処は正に此の三要素を持った所でした。
 海水が入り込む河口には、だぼ沙魚や鰻を始めとする大小の魚達を見ることが出来ました。時季には鮎も遡上して、那須ケ谷辺りでも釣れる事がありました。勿論、子供達の良い遊び場でも有ったのです。
 前田川の対岸の駐 車 場には、井上 馨の別荘が有りました。

  ドンドンの流れの跡や花空木

井上  馨別荘跡

 明治十七年、伊藤博文が仮寓する屋敷に隣接して此の土地を、野本重郎左衞門から借り受けて、井上 馨が別荘を構えました。
 その後、横浜に住む役者の持ち家となってから、富岡楼として料亭 旅館 が経営されて昭和十年代まで繁盛していました。釣り遊びをする子供達も、流れ来る不思議な三味線の音に聞き惚れた事でした。
 別荘から、川岸を下りて夕涼みの為の四阿が作られた跡が、最近まで見られましたが、道路整備により埋められてしまいました。
 又、相撲を好んだ井上 馨は、土地の青年を集めて眼下の砂浜で「勝負をさせて見物しては勝者には褒美を呉れたものだ」とは、古老の昔語りでしたが、其の人達も居なくなりました。
 また、或る時、別荘を訪れた数人の壮士風の男が、丁度、使い仕事に来ていた齊田某に「井上は、在宅か」と、問い掛けましたので、「先生はたった今、東京へお立ちになりました」と申しました。男達は、「嗚呼、一足違いか、追えば間に合う」と云いながら、取って返して去りました。その時井上は、朝風呂を楽しんでいたと聞いています。もし、此の時襲われていたら、その後の井上の活躍は見られません。
 この事を聞いた井上は、機転のきく彼に書生として、仕える気はないかと再三勧めましたが彼は、其の道を取らなかったそうです。彼は四郎吉の 弟 です。
 「伸び行く富岡写真史」には、幕末勤王の志士として活躍。維新草創期の財政外交に当たる。明治四年大蔵大輔、同十八年外務大臣、次いで農商務・内務・大蔵の大臣を歴任。明治政府の元勲。伊藤を助け明治憲法を起草。大正四年没。とあります。
 この場所の駐車場入口に、富岡下長寿会により設けられた案内標があります。
 下の浜公園を抜けて、こじんまりした団地に入る。

富岡団地

 此処、富岡団地は、むけーやま(向山)を切り崩した残土で出来た埋立地で暫らくは、海苔乾し場として使用されていました。ちんまりとした瀟洒 な 住宅街です。   

  小雪降る舟溜り海の独り言

河岸の浜跡

 この辺りが海であった頃、富岡と江戸を結ぶ海上交通の要衝でありました。当時はかなり大きな船が用いられていて、押し送り船(おしょくりせん)と呼ばれていたものです。
沿岸の近くの比較的浅い所や、掘割りの運河を通る時などは、備えられた棹を肩に当てて押して進むので、押し送り船と称して、普通には「おしょくり」と略して呼ばれました。又、「五大力船」と称するのが本来の名称と聞きます。此の船は湾内を活躍の場としていたそうで、沖を走る時は大きな帆を揚げて風に任せて、走行したのです。
先年、東京の船の博物館の職員が来た時、有り合わせた写真を見て、「こんな良い状態の写真はないので是非頂きたい」と持ち帰ったことがあります。
 かつては、富岡にも 海上 運送を営む家が数軒有りました。
 明治になって横浜が近在の 商 業の中心になると、一般取引による商品の配送にも使われるようになりました。
 権現鼻の陰は、格好の波除、風除になり何時も安心して停泊できる所でした。
 どんどんを挾んだ一帯を、下の浜とも称していましたので、此処に出来た公園は「下の浜公園」と名付けられています。
 どんどんの川口を挾んだ、河岸の浜と長浜までの海岸を下の浜と呼びました。此の浜は遠浅で春から始まる潮干狩や、夏の海水浴は土地の人ばかりでなく、大変賑わいました。獲物には浅蜊、蛤を始めとしてバカ貝やマテ貝が採れ、小魚を追って遊んだのも楽しい思い出です。
 元、海岸であった古道の傍らに、案内標があります。下の浜公園の上に、屋敷があるが野本作左衛門家であり、伊藤博文が仮寓した屋敷です。

  河岸の浜跡の轍やたぶの花

伊藤博文仮寓の宅(明治憲法揺籃の処)

 明治十四、五年頃から富岡には、政界の要人を始めとした人々が、訪れるようになり、不平等条約の改訂問題や、自由民権運動に関する案件、又は、憲法作成作業の諸問題など山積した要件の検討会議などが、都心を避けて行われたと伝えられています。
 その為に、伊藤博文が借用したのが、野本作左衛門の家でした。最近まで存在したこの家は、草屋根の大きな家で、海岸へ通じる道からの入り口には、立派な門を構えていて、この辺りは、近隣の屋敷と共に鬱蒼としていて、異様とも思える処でした。
 彼等重臣達は静かな富岡で密談密議を凝らしていました。休養を取るためには金沢八景で有名であって、昔から栄えていた金沢の東家へ出向いたものでした。その留守を狙った盗賊が、幾許かの金銭と共に盗みだしたのが、憲法草案の入った鞄でしたが、裏の畑に投げ捨てられているのが見つかり、事無きを得たのは幸いでした。
 その後、人々の出入りできない夏島に移り、草案の完成を見ました。為に、夏島憲法と呼ばれています。
「伸び行く富岡写真史」には、山口県の出身。松下村塾に学。明治憲法の起草者。明治維新後初代内閣総理大臣に就任以後四度首相を歴任。また貴族院議長、宮内大臣を勤む。日韓合併に努力した。明治四十二年ハルピン駅頭で韓人の狙撃にあい没した。夏島に移る前、富岡九十九番地の民家[野本作左衛門家]を借り憲法起草に当たった。また、博文は春畝と号し、詩文書画にも巧みであった。(以下略す)
 富岡団地を、海に向かって通りぬけ、左折して権現鼻を迂回して、八幡山へ突き当たった左側のフェンスの辺りが、薪河岸跡になります。

  憲法の草創地とや今年竹

薪河岸跡

 昔、宮の前海岸から八幡様の境内に添って公道があり、その道は権現山の裾から河岸の浜に通じていました。
権現山と八幡山の間の、小さな入江に作られたのが、鹿島源左衛門家の専用の荷積み所でした。これを人達は同家の薪の出荷だけの用に供する事から薪河岸と呼びました。
 現在、埋め地と宅地を仕切っている所を掘り返せば、河岸の石組が現われます。
 此処にも標が作られています。目の前に見られるのが八幡山です。

  薪河岸の跡埋め尽くす葛若葉

八幡山

 八幡山は文字どおり、富岡八幡宮の境内の山です。
 昭和五十七年の横浜市港湾局の調査に依ると東西に走る痩せ尾根は標高 約三十七 米、面積は 約九千八百平方米 の小丘で、常緑樹を中心とした社叢林である。もと海に面した南と東側は二十乃至三十米の崖となっている。土質は、大部分が上総層群の上に関東ロームが被っている。北東側と丘の裾廻りは土壌の堆積が多く、東及び南側の崖地の上は堆積が薄い。
 樹相は、スダシイ・タブノキ・ミズキ・ヤマハゼ・クロマツが多く、崖地にはハチジョウススキが茂っている。 
 樹高の十五乃至 十八米 の高木は植被率七十五%あり、主な種はスダジイ・タブノキ。四乃至十米の植被率は三十%、主な種はスダジイ・タブノキ・カクレミノ・イヌビワ等、樹高二米以下の低木は植被率二十%あって、アオキ・シロダモ等が茂っている。
 下草としては、テイカカズラ・ホソバカナワラビ・ベニシダ・オオイタチシダ等としています。
この他に、ヤブツバキやアズマネザサがあり、蔓植物ではフジ・アケビ・キヅタ等が見られ、ケヤキ・オオシマザクラ・スギ・トベラ等も散見される。
 尾根を中心としてはスダジイやタブの林があり、北の斜面はミズキ・ヤマハゼの林で、南の斜面には松が茂っているが、これらの多くは関東大震災の時の崖地に実生したものが多い。然し最近の松食虫の蔓延による枯死が目立つようになりました。東と南の崖地には主として、ハチジョウススキが繁茂するが、最近は埋立地から這いあがるクズの繁殖が盛んで、崖の上の大木にまでとどいて、山の姿を変えようとしています。
現在では、温帯性の植物の自然観察の為、横浜市の天然記念物に指定されて、一般市民の立ち入りが禁じられていますが、私達が子供の頃は良い遊び場となっていました。
 この八幡山を中心にして、埋立地に八幡公園が造設されました。 

  語りつぐ八幡縁起藪蚊出づ

富岡八幡公園

 埋立地の、八幡山周辺に作られた公園で、其の中心は富岡八幡宮の神前であり、名称の由来もこの事による。
 公園の西寄りには、無くなってしまった海辺の代償としては余りにも小さい、子供用のプールが設けられている。
  其処から八幡鼻を巡り、八幡宮前を経て東浜に至る地域に及んで、サイクリングロードや遊歩道を取り入れた近代型の公園であり、芝生や草地にも自由に立ち入る事が出来るようになっていて、樹木の間や芝生には庭石菖や、ねじ花が咲き、蒲公英や白爪草の摘み草も楽しめる。
 八幡鼻とは、この辺りが海だった頃、八幡山の崖が南と東から迫って鋭角の岬となっていた。其処は、磯釣りのメッカで夏から秋にかけて、黒鯛やあいなめが結構釣れたもので八幡鼻で釣りをするのが子供達の夢でした。

  連れ立ちて波除橋の空っ風

宮の前海岸跡(漁港碑)










昭和30年頃か










平成12年

ここ宮の前海岸は、東浜海岸と共に富岡の漁業を営んできた人達の拠点でありました。八幡宮の真前に開けた海岸を、昔から「みやのめー」と呼び慣わしてきました。漁港記念碑のある所は、昔、金波楼の海水を利用した生け簀の有った所で、関東大震災で破壊された跡を覚えています。そこから、松方正義の別荘下までを宮の前海岸というのです。
 下の町、谷戸、水下の漁師達の舟置場として維持されてきた浜は、江戸末期から明治にかけて、横浜に居留した外国人たちの、レクリエイションの場所ともなりました。其の中にローマ字で名高いヘボン博士が居て、富岡海岸の水質の良い事に目を付けて、海水浴を奨励しましたので益々来遊する人が増え、明治十四年頃には「海水浴場 神奈川県庁」と云う標識が建てられました。是れを以て我が国の海水浴発祥の地となった事は世間にはあまり知られていません。 
 この頃、此の賑わいに目を付けた、鶴見の実業家小野又七が、海岸に接した富岡村七番地に、料亭「海宝楼」を設立したのが、明治十三年でした。明治十七年頃まで営業を続けたが、田沼太衛門氏が譲り受けて別荘としました。
 海宝楼の廃業後、需要に応じて土地の者達の出資による、金波楼が創られました。
 大正の始め、海水浴場が地元の青年会により、初めて開かれましたが、大震災に依ってすっかり寂れてしまいました。
 昭和三年に、海水浴場が再開されました。此の時は、東京の霊岸島から東京湾汽船の、大島通いの大きな汽船が就航して、日曜日には満船の客を運びました。此の運航は二、三年で途絶えましたが、昭和五年湘南電鉄が開通して、翌年には湘南富岡駅が開設されると海水浴場も、下の浜に移されて行きましたので、宮の前海岸は、昔の静けさを取り戻しました。
 昭和四十六年、埋め立てが始まる頃には、漁舟は海岸一杯になる程でしたが、海は公害の為大変汚れていました。やがて、富岡から小柴沖にかけては、西区に匹敵する面積の、埋立地が造成され現在に到っております。     
 その昔、此の海の産物は、夏は手繰り網を中心にした漁が盛んで、平目、鰈、車海老を始めとした魚類。シャコ等は買って食べた事がない程沢山獲れました。冬には、海苔を主体に潜水漁で、平貝やみる貝が多量に獲れたものです。この事を記念して、宮の前の海岸の一角に漁業組合によって、記念碑が創られました。此処にも標が設置されています。

  かつては海たりし広場や赤の飯

富岡八幡宮










大正15年造営









平成14年造営

 富岡の鎮守富岡八幡宮は、源 頼朝が鎌倉に幕府を開いて間もなく、建久二年郷民鎮護の為、摂津の国浪速の西宮の蛭子の命を勧請しました。言い伝えによれば、旅の僧が何処からともなく現われました。と、ある一軒の家の門口に立ち食物を乞いました。丁度、六月十五日のお祭りの日でありましたので、麦で醸した酒を差し上げました。旅の僧は手にしていた茅の葉で掬って、旨そうに飲み乾しました。そして、家の人に向かって、「吾は八幡大菩薩の化身である、今日よりは吾を祭るべし。吾を信ずる者には必ず疫を避けて、幸福せを与え護であろう」と、言いました。家の人が驚いて見上げた時には既に、旅の僧は掻き消すように立ち去っていました。
 この時から、御祭神は八幡様となりました。安貞元年の事です。蛭子の命は今でも、宮の前海岸の小高い所に、西宮として祀られていますが、目の前の海は埋め立てられて現在は八幡公園となっています。
 毎年、七月十五日(現在は日曜日)に、夏の大祭が行われ、茅で作った祇園船の舟縁に、一年を現わす十二本の御幣を、更に船首には大きな御幣を立て、しとぎ団子に、麦で醸したお神酒を捧げて、海に流す「祇園舟流し」の神事が行われます。
 九月二十五日(現在は日曜日)に、秋の大祭が行われます。宵祭りには、勇壮な各町内の萬燈神輿が繰りだします。祭り当日は、佐野家一門に依る、湯立て神楽が奉納されるのを始め、町内神輿や、子供の山車が賑やかに引き回されます。
 二月と十一月の初卯の日には、卯の日倍従の祭りがあり、午後七時から、拝殿前で厳かに、湯立て神楽が奉納されます。
昔は、九月のお祭りには、横浜港の、大胡竹次郎(富岡出身)を頭とする、沖仲仕連中による奉納相撲があり、近郷近在からの見物客で賑わいました。戦後、横綱武蔵山の化粧回しの代参を最後に廃されました。
これらの富岡八幡宮で行っている神事は、鎌倉時代から連綿と続くものです。
 言い伝えによると、応長年間に津波があった時、隣村の、長浜は波に飲み込まれてしまい いましたが、富岡は八幡様の御加護により、難を免れました。この事があってから、誰言うとなく、波除八幡として、崇められるようになりました。江戸時代初期、埋め立ての難工事を、富岡八幡宮を勧請して、深川の埋め立てを完成した事から、その地の鎮守として祀られたのが、江戸深川の、亀が岡富岡八幡宮です。
 八幡宮の裏手、元の相撲場の広場の傍らに、祇園舟の奉仕舟が納められている格納庫があります。

  茅の舳先風鳴り休む祇園船 

  秋の蝉湯立神楽の釜たぎる 

  霜月の初卯の祭り湯立舞  

  落葉焚く権禰宜若き浅黄の裳

日本国憲法起草の地(こすもす幼稚園)

 昭和の始め、埋め立てられるまでこの辺りは、殆ど水田でありましたが、此の一角には睡蓮池がありました。冬には一面に厚い氷が張りつめて、子供達の氷滑りの良い遊び場となっていました。
 昭和十年代になって、地主の佐藤繁次郎は、草屋根の大きな別荘を建てました。其処を 田舎家と呼びましたが、大東亜戦争が激しくなると、御用達先の、海軍軍令部の人達の接待用に使われていたようです。戦いが済んで、アメリカの第八軍が進駐して、印刷工場に指定されるに及び、この田舎家も彼等の接待用に使われました。
 間もなく、新しい憲法の制定が論じられ、金森徳次郎がその長に就き、草案起草の時に此の田舎家に籠もって、草案を仕上げたと言われます。
 奇しくも富岡は、明治憲法と戦後の日本国憲法の両方に関わりを持ちました。
田舎家はその後、港南区の丘の上に移築されました。その敷地には現在、こすもす幼稚園が経営されています。富岡下長寿会の標か有ります。

金波楼跡

 海宝楼が閉鎖された後も、富岡を訪れる人達は跡を断ちませんでした。その窮状をみて土地の人達は、旅館を経営する事にしました。日本で初めてと言われる、株式組織の料亭旅館「金波楼」は、八幡様の下の富岡村一番地に、木造二階建ての立派な旅館が、創設されたのは明治十七年の事です。広い前庭は、宮の前海岸に接していて、渚近くには海水を引き入れた、生け簀用の池をしつらえ、料理も、東京精養軒で腕を磨いた料理人が作り、希望に依る活魚料理は評判を呼びました。               
 創設の頃は、明治政府の高官や財界人が多かったようですが、関東大震災で倒壊廃業するまでは、外国人の客が大半を占めるようになり、繁栄ぶりは、一日のビールを始めとする洋酒類の消費は、毎日、馬車一台を要したと言い、外国煙草の売り上げは、横須賀専売局管内では群を抜いていました。此処にも富岡下長寿会の標か有ります。
 金波楼へ来た異人にはこんな思い出があります。
 ある日、私は兄や桶武ちゃんなどと睡蓮池で遊んでいて、どうした弾みか異人の一人と巫山戯合いになったらしいのでした。異人が急に恐い顔をして子供たちに襲い掛かりました。皆んな逃げ出しましたが幼かった私は転んでしまいましたので、兄は小戻りして私をおんぶして逃げてくれました。何故、ああ成ったのか解りませんが、何とも恐しいあの顔は今でも思い出されます。然し是れも彼等の座興だったのでしょう。

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