第3 

 

 

 やっと妹の部屋の前に辿り着いた私はドアを叩いて妹を呼んだ。廊下で超絶的前衛舞踏を演ずる私の姿に妹は驚いた声を上げ、それを聞いた父も起きて来て二人で大騒ぎになった。唯一落ち着いていた私はガチガチと鳴る歯の間から必死で言葉を絞り出した。

「病院の診察券を持って来てくれ。」

私が治療を受けているT大学病院は家から電車で40分もかかる所に有る。しかしこの病院の緊急救命センターが家から割合近い所に有り、何か有った時はそこへ連絡するよう診察の際に指示を受けていたのだ。そこの電話番号が診察券に記されているのである。  妹が私の鞄から診察券を探し出し、大急ぎで緊急救命センターへ電話をして救急車を要請した。しかしセンター側の答えは 「意識がはっきりしているなら救急車を待つより御宅の車でこちらへ来られた方が早いですよ。」 と言う物だった。冷たい様だが至極もっともな話をされて冷静さを取り戻した我々は、妹の運転で緊急救命センターへ向かう事になった。  昼間は結構渋滞する街道も深夜は流石に空いている。調子良く走る車の中で私は自分の体の状況を必死で分析していた。そしてささやかな事実に気付いた。

「のどが渇いてるな・・・」

そう考え出すと、のどを潤せば少しは体調が良くなるのでは無いかと思えてくる。私は妹にコンビニの前で車を止めて貰い、スポーツドリンクを買って来る様頼んだ。  妹が買って来たポカリスエットをがぶ飲みした私の体は、まるで憑き物が落ちた様に痙攣を終息させて行った。痙攣の原因が脱水症状とも思えないが、「何だか知らんがとにかく良し」である。  痙攣が収まって来た私を見た妹が

「もっと飲んだら?」

と言った。私は

「いや・・・どうもポカリは甘くてね。アクエリアスなら飲めるんだけど。」

と答えた。それを聞いた妹は

「だったら最初から言ってよ。お店でどっちを買うか悩んだんだから。」

と怒った。あの状況でそんな事で迷っていたと言うのは私には意外な事だったが、優しい人間と言うのはどんな時でもそうした気配りが出てしまうものかも知れないと思った。そうこうしている内に私達は緊急救命センターに着いた。私の体の震えは殆ど収まっていた。

 診察の結果は特に問題無いと言う事であった。発熱時の悪寒から来る震えで、それがたまたま激しく出ただけらしい。特に珍しい症状では無いと言う事だった。取り敢えず安心した我々は家へ帰った。

 震えは収まったが、発熱とそれに伴う頭痛、体のだるさは続いた。インターフェロンと言うのは元々人間の体内で作られる物質で、ウィルスが体内に侵入した際に分泌されその増殖を妨げる効果が有るが、同時に熱が出たり気分が悪くなるのだと言う事であった。

 結局熱はなかなか下がらず、私は2日間会社を休む事になった。

 

 

 熱が下がった私は普段通りに早朝出社すべく家を出た。多少頭痛や体のだるさは有ったが、これらインターフェロンの副作用は、人によって異なるが半年程度は続くと言われていた。半年も続くのでは休んでばかりもいられない。「病気と違って安静にしていないと悪化すると言う物では無いから」と思い、我慢して日常生活に戻る事にしたのだ。

 家から駅までは1キロ程。普段は走っているのだが、この日は暫く走った所で堪えられない程にだるくなり歩き出してしまった。

 満員電車で吊革につかまり人込みに揉まれながら、私は体のだるさと頭痛が徐々に酷くなって行くのを感じていた。それは次第に乗り物酔いの様な症状になって行き、堪え切れなくなった私は途中下車してホームのベンチに座り込んだ。

 荒い息が収まるのを待ち、次の電車に飛び乗った。この辺りの駅から乗ると既に電車は満員で、ドア付近の乗客達の間に無理やり体を押し込む事になり、吊革にもつかまれない。先程よりつらい状況にまた気分が悪くなって来た。

 ターミナル駅に着き、一気に乗客が減った。私は人目を気にする余裕も無く床にしゃがみ込んだ。そして何とか目的の駅に着いた。ホームへ出た私は再びベンチに座り込んだ。

 全く気分が良くなる気配は無かった。会社に電話して休ませて貰おうかと思ったが、一日休んだからと言って体調が良くなる訳では無い。半年は続くのだ。我慢してやるしかないではないか。私は再び立ち上がり乗り換えのホームへ向かった。

 会社に着いた私はまず上司に病状の報告を行なった。そして暫くの間現場の仕事から外してもらう事にした。私の仕事はお客さんから預かった品物を加工する仕事なので、事故を起こす事は許されない。今の体調ではとても仕事に責任を持てなかった。

 忙しく働く同僚達から離れ、私は機械のメンテナンスを始めた。しかし頭は熱が有る時の様にはっきりとせず、体中の関節が痛い程にだるい。辛い。5分で良いから体を横にしたいと思った。私はフラフラと休憩室に向かった。歩くと膝の関節が痛み、階段を降りると一段毎に膝から強い痺れの様な感覚が脳天まで走った。電気が消えた薄暗い休憩室に辿り着いた私はそのまま長椅子に倒れ込んだ。

 昼になり、社員食堂へ昼食を摂りに行った。食欲は全く無かったが、これもいつまで続くか解らない。無理してでも食べなければならないと思い、定食を注文した。食べ物を飲み込むのがこれ程苦しく難しいと感じたのは初めてだった。昼休みいっぱい掛けて食べたが、結局半分近く残した。翌日から定食はやめ蕎麦を食べる様にした。何とか食べ切れたが、時間は昼休みいっぱい掛かった。のびた蕎麦は不味かったが、のどの通りは楽だった。

 数日が経過した。体調は変わらなかった。ただ傾向として午後になると幾分具合が良くなる事が解った。初めて注射した時の様な酷い発熱は無いものの、注射の数時間後に副作用が現れその後徐々に治まると言う、あの時のパターンを今も毎日繰り返している様だった。となれば午前中を如何に無難に乗り切るかが問題だ。取り敢えず通勤中の体への負担を減らす為、電車内で座って行く事を考えた。早起きして下り方向へ数駅戻り、そこから上り電車に乗り換える事にした。元々定期券は下り方向数駅先まで買ってあった。値段が同じなのだ。今は残業から外して貰っているので早起きは大して負担では無い。その後数日掛けて何駅戻れば確実に座れるかを試した。電車を選べば(始発駅が違うと混雑の度合いが違う)3駅戻ればまず間違い無い事が解った。

 これはある程度効果が有った様に思う。勿論劇的な物では無いが。

 暫く経つと、髪の毛が抜けて来た。これもインターフェロンの副作用である。髪の毛を洗う度に、怖くなる程髪の毛が抜け、指に絡みついた。医師の話では更に1〜2ヶ月経つと鬱病の症状が出るかも知れないと言う。インターフェロンの説明書を見ると「自殺願望が現れる事が有る」等と書いてある。自分の心が自分の物で無くなって行くと言う事がどう言う状態なのか私には全く解らず、底知れぬ不安を感じる。

 しかしまたしてもそれを他人事の様に興味津々で想像している自分が居る事に気付き、「相変わらずだな」と、嫌な気分になったのだった。

 

 

 何と言う辛い生活だろうかと自分の運命を呪ったが、そんな生活でも暫く続けると徐々に慣れ、最初の頃程辛く感じなくなって来るから不思議だ。相変わらず気分は悪いし体は痛むが、苦痛が無い頃の記憶を体が忘れて来るに従い、その苦痛が精神的にはさほど負担と感じなくなって来るのである。

 そんな時、友人から飲みに誘われた。気晴らしになるかもと思い行く事にした私は、友人に病気の事を話すべきかと考え始めた。

 プライベートな付き合いの信頼できる友人であるから別段隠す必要は無かった。ただ、自分が死ぬかも知れないと言う話をどんな顔をして、どんなタイミングで話せば良いのか全くイメージ出来なかった。とは言え、いずれは知られる事になるのだから早めに自分の口から言うべきだと思った。人伝に白血病なんて病名が伝わると話が実際以上に深刻に受け取られ、「すぐに死ぬ」等と思われかねないと思ったからだ。

 新宿のタイ料理の店で飲みながら、私は機会を見て話そうと思っていた。しかし他愛の無い趣味や仕事の話で笑い合っていると、こんな暗い話をどう持ち出したら良いのか全く解らず、笑顔の下で思い悩んだ。その内に「大体話したからと言って何になる?親しい友人と言えど何か力になれる訳では無いのだ。こんな事を話しても相手を戸惑わせるだけで迷惑では無いのか?」等と変に考え過ぎてしまい、結局最後まで話す事が出来なかった。

 家に帰った私は、つまらない事を考え過ぎて信頼している友人に話せなかった事を悔やんでいた。そして悩んでいる内に頭の中にまたしても妙な考えが浮かんで来たのである。

「考えてみれば『自分は白血病だ』なんてドラマチックな告白が出来る機会は普通は無いぞ。その時相手がどんな反応をするか見せて貰うと言うのは白血病患者だけに与えられた極めてレアな見世物で、人生最後の楽しみに相応しいではないか。」

 悩み過ぎはろくな考えを生まない物である。自棄的になった人間にはなおさらだ。私はこの悪魔の様なアイデアに一人酔いながら、次に会う友人を最初のターゲットにしようと決めたのだった。