新宮家と西郷隆盛(新宮家父子の戦い)

 明治10年2月、鹿児島を出発した西郷隆盛は人吉を通って熊本へ、そして田原坂の戦いへと突入しました。しかしそれまでは快進撃を続けてきた西郷軍でしたが、田原坂の戦いで大敗北。敗退へと転じ、その後椎葉村、五木村を経て人吉へとたどり着きました。
 人吉に入った西郷軍は永国寺(幽霊寺として有名)に本陣をしきました。西郷隆盛は当初、本陣に宿泊する予定でしたが、永国寺は病院の様相を呈してきたため急遽、新宮家屋敷(当武家屋敷)が西郷の宿舎として使用されることとなりました。
 対する官軍は、人吉駅の裏の村山台地に本陣をおきましたが、その指揮をとったのが新宮 簡(しんぐう たけま)でした。一方、簡の息子、新宮 嘉善は西郷軍の人吉1番隊の小隊長として参戦しており、田原坂で敗れた後も人吉までの道案内として西郷隆盛を人吉に導きました。
 父、簡は10年6月2日、人吉を総攻撃。後に簡は手紙に、「我が故郷を攻撃するのは忍びなかったが、仕方がなかった。まず我が家に大砲を2発撃ち込んだ。我が家が炎上した。」 と書いています。人吉はこの西南戦争において武家屋敷街、町人街の全てが燃えてしまったといわれています。
このようにして人吉における西南戦争は終了しました。

トップページへ