生駒トンネル

旧生駒トンネル
生駒山を貫通して大阪側に抜ける鉄道トンネルは1997年現在で3本あり、すべて近畿日本鉄道路線である。1914年完成の旧生駒トンネル(廃線)と1964年完成の近鉄奈良線新生駒トンネル、さらに近鉄東大阪線(大阪市営地下鉄との相互乗り入れ)の東生駒トンネルがある。東大阪線の東生駒トンネルは廃線になった旧生駒トンネルを拡幅して再利用されたものである。このトンネルの生駒側入口の石組みは東大阪側と同様に、当時の姿を残している。
近鉄「石切」駅(東大阪市)の北300mの位置に旧「孔舎衛坂」駅跡が残る。
駅舎はないが、プラットホームにはタイルの白線が今も鮮やかに残っている。
ホームから生駒側を見ると、見事な建築美を見せるトンネルの東口が目に飛び込んでくる。石組みもレンガも当時のままである。

旧生駒トンネルエ事と朝鮮人労働者
このトンネルには有名な幽霊話がある。郷土史家・尹敬沫氏は『生駒トンネルでたくさんの同胞が殺された。その悔しさ、執念の幽霊が夜更けてトンネル内に出る。絶対にトンネルエ事に行ってはならぬ。それは工事で最も危険な最前線に追いやられ、結果は殺されていくのと同じ』(1992年1月26日、旧生駒トンネル事故80年シンポジウムでの尹敬洙氏の発言)と言う。この言葉はトンネル工事の過酷な労働を語り伝える同胞たちの思いを代弁したものであろう。
旧生駒トンネルエ事が開始されたのは1911年6月のことである。当初は県境に立ちはだかる生駒山(642m)を避けた山越え案やケーブル案もあったが経費や時間はかかるものの、未来のために最終的にトンネル掘削の決断がなされた。現在このトンネルのある近鉄奈良線が、大阪・奈良間の大動脈として、その役割を果たすことになったのは万人の認めるところである。
ところで、過去に類を見ないほどの難工事といわれた旧生駒トンネルエ事に朝鮮人労働者が働いていた事実は、作家の住井すゑさんが自ら生駒市で取材し長編小説『橋のない川』の第1巻で扱ったことでも知られている。
「韓国併合」からわずか10ヶ月後に開始された旧生駒トンネルエ事の現場に朝鮮人労働者が海峡を越えて働きにこざるを得なかった背景のひとつに「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事があげられる。
旧生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべきほかの土木請負会社と共に、日露戦争(1904-1905)を契機として朝鮮での鉄道工事に参入している。京釜鉄道(ソウル〜釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル〜義州間の停車場や機関庫の工事などを請け負い、以後の日本国内の請負工事に実績をあげていくのである。
大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、旧生駒トンネル工事に朝鮮人労働者が就労することになったといえる。
また、大林組は「韓国併合」後の日本国内の請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し、利益を上げていくのである。

新聞記事に見る朝鮮人労働者
朝鮮人労働者の動向が報じられた最初の記事は、1912年9月1日付の「奈良朝報」である(『もうひとつの現代史』1987.10川瀬俊治著)。わずか数行の記事から旧生駒トンネルに朝鮮人労働者が就労していた事実がわかるが、今では考えられないような些細な逃亡事件が記事として扱われていることは、朝鮮人労働者がすでに監視の対象となっていたことを示している。
「北倭村谷田の大軌(大阪電気軌道一編者注)生駒山トンネル工事で数日前より工夫として伊藤留吉の飯場に稼ぎ居たる朝鮮人中野武雄こと、全羅南道木浦
生まれ尹泰辯(28)が6日午前3時から12時頃までの間に同工事場を逃走して行衛不明になりたり。同人は法被股引等内地人同様の土方風体を為し居れりと」

1913年1月26日午後、トンネル内部で大落盤事故が発生。労働者150人前後が閉じこめられ、20人(西教寺過去帳による)が犠牲になった。生埋めになった労働者救出のために救援隊が組織されたが、第2次救援隊の中に朝鮮人李申伊がいたことを1913年1月29日付の「大阪新報」が報じている。
1913年8月19日付のr大阪朝日新聞」には、トンネル工事の労働者と村民とが池の魚をめぐって大喧嘩をした記事がある。死者1名、負傷者の中には22歳の朝鮮人もいた。続報で「生駒隧道の坑夫と村民との大争闘の際殺傷したる
嫌疑者取調べのため、19日も同地に於いて125名(内朝鮮人10名)を引致…」。この記事から「坑夫125人中10人の朝鮮人」がいたことに注目したい(労働者の8%)。
また、完成後の1917年12月9日付『中國新聞』には次のような興味深い記事がある。
「往年大軌の生駒隧道の掘削工事に千人ばかりの鮮人が居たが、團結して辞めたかと思ふと又ゾロゾロ帰って来る。殆ど勤怠常なしで為に工事に大錯誤を生じたことがある…」
記事中にある「千人ばかりの鮮人」がいたことが事実ならば、地域史を書きかえねばならない。
(「鮮人」=朝鮮人に対する蔑称)
過去帳
生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれたことから当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が残されている。

張振王は法名「幼学」、釜山出身で「朝鮮飯場」であった「松山飯場」に所属したことが記されている。また大正2年9月2日死亡の黄澤斤の名も見えるが詳細は記されていない。
暗越え奈良街道沿いに、芭蕉の句碑が建つことで知られる勧成院(日蓮宗)がある。旧過去帳に63柱におよぶトンネルエ事の犠牲者氏名が記されている。
うち朝鮮人は3柱。氏名は稱揚寺の「招魂碑」と同じである。筆者の推測ではあるが、当時の住職が犠牲者の追悼のため、情報を集めて記した二次的なものではないか。(詳しくは拙著『旧生駒トンネルと朝鮮人労働者』1992.8)
慰霊碑
トンネル東口を左手に見ながら急坂を登りつめたところに地元の墓地がある。そこには、1913年1月26日午後に起こったトンネル大崩落の際犠牲になった人たちの墓石と慰霊碑「無縁法界霊」がある。
「トンネル内部に女性は入れなかった」(日下町の90歳の女性の話)という差別意識があったにもかかわらず、「煉瓦工手伝い」の4人の女性が犠牲になった。彼女らの墓石もこの場所に建てられている。
大喧嘩があった「空浄池」(現在は幼稚園)を左に見ながら、トンネル西口から河内平野を見おろす急坂を1キロほど下ると、稱揚寺(浄土真宗・東大阪市日下町)がある。境内には大阪軌道株式會社と大林組が建立した「招魂碑」がそびえている。裏面には24名の傷病没者名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名がある。死亡原因などの詳細は不明だが、生駒トンネル工事に関連する朝鮮人犠牲者の名をいつでも見ることができるのはこの「招魂碑」だけである。
生駒駅から門前町の風情が残る宝山寺への参道を登ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」の看板が目に入る日宝徳寺は戦後外国人に対して認められた宗教法人の第1号だという。住職の趨南錫(故人)は生駒トンネルで酷使された岡胞の話を知り、トンネルエ事にゆかりのある地に寺を建てた。また1977年11月、地元の有志と近鉄の協力により、本堂より一段高い敷地に韓国人犠牲者無縁佛慰霊碑」を建立した。
この慰霊碑の前に小さな石仏がある。住職の説明は
実に明快であった.
「トンネル工事中に内部で亡くなった労働者の霊を慰めようと仲問の人たちが造った。二体の石仏は朝鮮人と日本人や.それ以後幽霊は出なくなったんだ」。
慰霊碑の前の趨南錫氏の銅像

証言
「朝鮮人がようけ(大勢)トンネルの入口に来てな。朝鮮から来たいっきやよって(問もなくなので)、頭の毛にまげ結うてまんね。日本に来てから頭の毛を切りまんね」.
「朝鮮人は集団で。朝鮮飯場が2カ所ありました。あそこは朝鮮飯場やいうて。朝鮮人は村へは入られへん。捷別がありましたしな」。
「トロッコが弾んで、朝鮮人が亡くなりましたんや。家族がアイゴー、アイゴーと泣いてました」
以上の証言は、1991年ごろに筆者が日下町(トンネル西口)に住む古老から聞いた話である。旧生駒トンネル工事は1911年から1914年のことであり、
まもなく90年が経過しようとしている。当然、当時の証言を得ることのできる人はほとんど生存していない。


旧生駒トンネル工事は、規模の大きさや大崩落事故があったからという理曲で知られているのではない。「韓国併合」直後に、土地調査事業をはじめとする日本の植民地政策によって、ふるさとを離れて、日本に出稼ぎにこざるを得なかった人たちの想いが凝縮しているからである。また旧生駒トンネル工事が語る歴史は、単に奈良と大阪の地方史ではない。これ以後に続く「強制連行・強制労働」の起点であり序章である。
旧生駒トンネルは、黒い闇を抱きながら、静かにその姿を誇っている。