対州丸

対州丸



私の原風景(4)「対州丸」 壱岐を出て生活する人たちの原点はこの船出です。 就職に勉学に島を出て行く人、また事情で島を離れなけ ればならなくなった人。 当時(昭和30年代以前)はみんな船が出発点でした。 夢もあり希望もありで、また反対に失意もあったとも思 います。理由はどうあれ島を離れることのつらさ、哀感 といいますか、そのみんなの原点はこの船出です。 今生の別れと言うわけではないのですが、行く人も、残 る人もつらいものがありました。 胸を掻きむしられる思いとでもいいますか。 兄が船出をするとき、前の晩はおおさわぎ。 お金をシャツにぬいこんだり、荷物をまとめたり。 タビで生活した経験のある婆ちゃんが諸注意を こんこんと聞かせたりです。 次の日、郷ノ浦まで見送りに行きました。 始めて対州丸を見ました。 当時、連絡船の総称は対州丸でした。 ほどなく壱州丸も就航しました。 対州丸の覆い被さるように大きく、真っ黒で突き刺すよ うに尖った船の舳先が目に焼き付いて暫く離れませんで した。今でも頭ん中にあります。 牛が一頭ずつ吊られて船に積み込まれていました。 出ていくのは人ばかりではありません。 また船はいろんなものも運んできます。 車も油もセメントもお菓子も新聞もみいんなこの船が運 んできます。船がついた港の喧噪ぶりは凄かった。 その喧騒の中を兄は船出して行きました。 婆ちゃんは 「中に入ったらもう出て来んでもよかけんね。  すぐ座るとこりばさがさな。」と言った。 兄はその通り甲板には出て来ませんでした。 母は見送りには来ませんでした。 母はなぜかいつも港までは来ませんでした。 それは十数年後に船出した私の時も同じでした・・・。 上のwebの「戻る」より表紙に戻って下さい。