-アッティラの名の由来-


M:
 アッチラというフン族の大王の名前がハンガリーではけっこうポピュラーだという件を何度か書いたことがありましたが、これの理由がわかりました。中世においてはマジャールの人たちは自分たちはフン族の末裔だと信じていたそうで、有名な年代記等の記述はそのようになっているとのことで、チャバという伝説上の王がアッチラの末裔だということになっているのだそうです。 ベーラ3世やら4世のころ、その後のマーチャーシュ王のころでもハンガリーの人たちは我らはフン族の末なりと名乗っていた訳です。であればアッチラという名がポピュラーなのも納得がいきます。しかし、西欧ではフン族やらアッチラ大王というのは地獄の使者のようなイメージで捉えられておりまして、聞いた方はさぞ驚いたことでしょう。一方ではローマ法王より「汝の首長は真の使徒なり。」というメッセージとともに王冠を授かったという伝説を持ち、ローマカトリックの東の防衛線をもって任じ、一方ではフン族の末裔であることを誇りにする、ハンガリー王国という国は非常に興味深いですね。

S:
 我が国のつい20年程前の研究ではホントにフン族の末裔だと考えられていたようですね。15、6世紀の伝説によるとマジャールのハンガリー平原定住と支配の過程でフン族の末裔シケロス人なる人々が支配下に組み込まれたらしいですが。

T:
 伝説によるとフン族とマジャール族はもともとひとつの民族だったとされています。ニムロード王の息子のフノルとマジャールが狩りにでかけ牡鹿に出会い、その後をついていってたどり着いた土地で結婚して住み着きます(ドンの河口)。しかし時が経ちその土地も狭くなり、新たな土地を求めて旅立つかを議論した結果、フノルの子孫のフン族は神の剣の飛んでいった西に向かい、マジャールの子孫はそこに残ってフンからの知らせを待つことになりました。その時のフン族の長の息子がアッチラとブダです。フン族はドナウとティサの間の地に落ち着きそこで神の剣を見つけます。そしてその神の加護の元に「世界征服」をしたことになっています。古い年代記ではこれを基にアールパード(後に残ったマジャールの子孫)達の「フンニア」征服を正当化しているわけです。フンニアはアッチラが神の剣を見つけた土地でフン族とマジャール族にとっては神に約束された土地です(フン族の征服した土地ともみれるが、一般にはドナウの西のパンノニアに対してドナウの東)。フンとマジャールの親戚関係は18世紀頃貴族達がフンの末裔だといいだしたりして「科学的根拠」が追求されたらしいですが、今ではこれは一般的には否定的に受け止められています。その頃からハンガリーではアッチラという歴史上の人物の人気がでたそうです。アッチラという名前がポピュラーになったのは1920年代以降、キリスト教の相当名がない名前をつけるのが流行ってからだそうです(その他アールパードとかチャバ(アッチラの息子)とか)。

M:
 その伝説は私も一部は知ってましたが、フン族との関連までは知りませんでした。 チャバはアッチラの息子ですか。第二次大戦当時のハンガリー軍の装甲車にその名を冠したものがあり、伝説の王であるところまでは調べたことがあったのですが、それ以上は手持ち資料ではわかりませんでしたので助かります。 名前も流行があるのですね、知人の小説家志望の人に中世にアッチラなんて名前を登場させないように伝えておきます。

S:
 フン族の本といえばぺラい新書と数冊程度しか資料が無い上、マジャールとの関連させた伝説などの記述が少ないので困ってましたが、これで伝説の内容の全体像がつかめました。  少なくても18世紀までのハンガリー人の精神にこの伝説は受け入れられ事実のように信じられていたのですね。フン族の末裔を名乗れば結構な権威付けになったのでしょうかね。

T:
 実際はアッチラには5人の息子がいて(チャバはいない)跡目争いが起こったらしいですが、伝説ではアラダールとチャバの二人の息子がいてやはり悲惨な争いをしたことになっています。フン族を二分しての争いはチャバの勝利に終わったものの(アラダールはチャバによって殺された)生き残ったのは数千人という有り様。チャバはマジャール族を呼びに戻ることを決意します。もともとマジャール達には迎えにいくことを約束していた訳だし、彼らの力を加えてアッチラの地を取り戻そうと考えたのです。そこで東の果てのセーケイの地に3千人を残し祖先の地に向かって出発しますが、その前に儀式を行い、セーケイに残るものたちに危険が迫ればすぐ駆けつけることを誓います。出発しかけたもののセーケイが敵に襲われ3度戻ります。4度めに出発してその後戻ってはきませんでした。百年もして再びセーケイが敵に襲われたときチャバ達は当然もうこの世にはいなかったのですが、天から舞い戻ってきてセーケイの危機を救ったといわれています。セーケイに残ったもの達がセーケイ人の祖先になったといわれているわけですが、彼らにとってチャバは誓いを守りセーケイを救う勇者なのです。さて東に向かったチャバ一行は無事マジャール達にたどり着き肥沃で美しいフンニアのことを語り旅立つことを勧めます。若いマジャール達は乗り気だったが長たちは時が満ちるのを待つようにいいすぐには出発しませんでした。そして4百年後にマジャール達は「約束の地」に向かったのです。 チャバという名前ですが、ヴェレシュマルティ・ミハーイとアラニ・ヤーノシュが作中でつかったことから人気がでたそうです。

M:
ハンガリーのロックオペラで「イシュトヴァーン・ヨー・キラーイ」と同じ作者の作品でアッチラ大王を題材にしたものがあるのですが、このあたりの話を題材にしているのかもしれません。ベリさんにお聞きしたお話ではアッチラのお墓はハンガリーのどこかにあり莫大な財宝が埋まっているとの伝説があり、徳川の財宝よろしく宝探しをしておられる方がいるそうです。セーケイ人というとトランシルバニア在住のマジャールと同属とかクマンの一派だとか言われている人たちですね。彼らにもフン族の末裔伝承があるのでしょうか。ところでマジャールに戻ったチャバの子孫があの怪獣のような鳥トゥルルの伝説を持つアルモシュになるのでしょうか。

T:
 アッチラのロックオペラは神の剣の絵が描かれているので多分そうなのではないでしょうか。セーケイのことはあまり知らないのですが、彼ら自身がフンの末裔(チャバの残党)を主張しているようです。実際はセーケイの起源については説がありすぎてなんともいえないようですが、895年の段階では彼らはすでにカルパチア盆地に住んでいたともいわれています。セーケイはマジャールの斥候などの通常新入りの仰せつかる危険な役目をもっていたので、マジャール族の一部ではなかったと考えられているようです。(関係ないけど)セーケイには興味深いルーン文字があります。レベーディアに戻ったチャバ達はほんの少数だったのでマジャールに融合したということでしょうか(もともとひとつの民族だし)。伝説はその辺り少しギャップがあるので確かなことはわかりません。前回前々回と書いた伝説もいくつかバージョンがあるので(特にチャバの方)適当にまとめてみました。トゥルルの伝説でいわれているのはエメシェの夢にトゥルルがやってきて彼女の子宮から川が流れたということです。アッチラは騎馬民族にはよくある名前で、王の偉大さを暗示する「川」の意だそうです。エメシェから流れた川はアッチラをほのめかしている訳で、生まれたアールモシュがアッチラの地を取り戻しにいくという、これまたカルパチア侵攻の正当化の一部ですね。ちなみに王宮のトゥルルが掴んでいる剣、あれがアッチラの神の剣です。アッチラという名前はもともとはゴートの言葉で「父」を意味するアッタからきているらしく(すなわちアッチラは「親父ぃ」ぐらいの意味)そのためAttilaとつづったのが、発音がAtillaなため、ふたバージョンできたらしいです。そういえばトルコにもアッチラって名前ありますね。

M:
 ブラム・ストーカーの小説ではドラキュラは「セクイ人の末裔なり」と称してます。多分、セーケイ人のことなのでしょう。トランシルバニアの彼らのことについては邦文ではコッシュ・カーロイの著書に記載がある程度です。

T:
 ストーカーは「Szekely」とハンガリー語つづりで書いたらしいので、翻訳の過程で「セクイ」になってしまったのでしょうね(でも日本語でセーケイはなんというのでしょう。セクイだったりしますか?)。ある研究者によると、ストーカーはマジャールとセーケイとフンの関係に興味を持っていたそうです。本物のドラキュラがセーケイの末裔ではないことをストーカーが知っていたかどうかわかりませんが、考えられるのはアッチラと関連づけることによって作中のドラキュラの邪悪さを強調したかったとか、ドラキュラの子孫がセーケイの地に領土を持っていたことからとかだそうです。

M:
 平井呈一先生訳のドラキュラは「セクイ人」と書かれています。私は通常は恒文社のハンガリー史にならって書くようにしてますが、これだとセ−ケイ人ですね。アッチラとブラドの組み合わせが吸血鬼ドラキュラですか・・・。西欧でのアッチラのイメージというのは悪鬼同然ですので無理からぬところでしょう。英国のモンティパイソンというコメディでアッチラをおちょくった内容の物がありましたが、生首をおもちゃにして遊ぶ蛮族という凄いイメージのものでした。しかし、他の歴史サイトでハンガリーというとドラキュラだのエリザベート・バートリーだのの話題ばかりなのは困ります。同じエリザベートでも聖人もハンガリー出身なんですが・・・。

M:
 エルジェベートですが、エンドレ(アンドラーシュ2世)のお嬢さんの聖人エリザベート人気でヨーロッパに広まったと言われています。エリザベスとかイザベルとかという名前が彼女の影響だとするとこれはすごいものがあります。日本でハンガリーのエリザベートというとシシイを連想するか「血の伯爵夫人」ことエリザベート・バートリーということになりそうです。しかし、エリザベートという名前の人は多いですね。ちょっと思い出してもクン・ラースローことラースロー4世の母上、ラオシュ1世の奥方、ヤン・イスクラが仕えた「遺し腹」のラディスラウスの母上、フニャディ・ヤーノシュの奥方・・・・。私も同じような錯覚をしそうです。ところでセーケイ人のルーン文字とはどのようなものなのでしょう。遊牧段階のマジャール人も同様の文字を使ったということでしょうか。

S:
 セーケイ人というのが日本でも多く見かけられる記述ですね。平井呈一先生訳では「セクリー人」となっているようです。「セクイ人」はルーマニア側でのセーケイ人の呼び方です。セーケイ人の出自は近年までフンの末裔だ、トルコ系だろうと色々いわれてましたが、今はマジャールのパンノニア定住後、12,3世紀に辺境警備にトランシルヴァニアにやってきたマジャールの末裔だろう、ということで落ち付いているようです。そういえばハンガリー農民戦争(ドージャの乱)の首謀者ゲオルゲ・ドージャはセーケイ・ドージャとも言われてましたね。また、実はフニャディ・ヤノシュのお母さんもエルジェベートだったりします。

M:
S氏、ご指摘多謝。セーケイ人で私が不思議に思うのはセーケシュフェヘルヴァールという地名。一定の首都が存在しなかった昔のハンガリー王国の王宮所在地の一つなのですが、訳せば「セーケイ人の白い城」とはこれいかに。

T:
 セーケイ文字のサイトがどこかにあったのですがちょっと今見つかりません。表示できるのだけでも書き出してみるとこんな感じです。

Z、1、∧、X,D、/、M

 それ以外に虫のようなの、Bの裏返ったの、旗のようなの、鳥の足のようなの、とさまざまです。チェコのニコラスブルグ文字というのによく似ています。キリスト教を受け入れる前のマジャール人がどんな文字を使っていたかは定かではないようですが、セーケイ文字を使っていたと考える研究者もいます。改宗はラテン文化圏への適合をも意味しましたので、当然ラテン文字を使いはじめました。しかしラテン文字そのままではマジャール語の音を表記しきれなかったので子音を重ねたものが多くある訳ですが、試行錯誤の後今のスタンダードな形に落ち着いていったそうです。しかしセーケイは伝統的に自治の傾向にあったので、昔からの文字をかなり後まで使い続け、それで今に伝わったということです。セーケシュフェヘールヴァールですが、セーケイとは関係ありません。セーケシュは「座するところ」を意味するセークの形容詞形です。つまり「王の座する白い城」なのです。

T:
 失礼しました、サイトが見つかりました。

http://fang.fa.gau.hu/~heves/index.html

 英語の説明も少しあります。ちなみに右から左に書きます。このページでは改宗以前にこれらの文字を使っていて、改宗後は「異教徒の文字」として全て破壊されたと断言してますね。

M:
セーケシュフェヘルヴァールの解説ありがとうございます。「王の座する白い城」ですか。納得です。なんでセーケイ人なのかと長らく不思議に思ってましたが・・・。 フェーヘルヴァール続きですがジュラフェーヘルヴァール(現在はルーマニア)とかナンドールーフェーヴァール(ベオグラード)という地名がありますが前者だと「ジュラの居城」後者は「副王の居城」ということでしょうか?
ご存知とは思いますが、後者はヤノシュ・フニャディがトルコ軍を撃破した古戦場の名前で有名ですね。教会が正午に鳴らす鐘は彼とジョヴァンニ・ダ・カピストラノの勝利を記念するものです。

T:
ジュラフェヘールヴァールは「ジュラの白い城」、ご存知のようにジュラはトランシルバニアの統治者です(これも副王って訳すんですか?副王はナードルのことではなかったですっけ?) ナーンドルルフェヘールヴァールは「ブルガリア人の白い城」だそうです。「ブルガリア人」って訳は適切ではないかもしれませんが、ナーンドルはドナウ流域のブルガリア民族の名前らしいです。 ちなみにジュラフェヘールヴァールもナーンドルフェヘルヴァールも当地のスラブ系民族にはベルグラード(のような音)と呼ばれていました。ベオグラードも「白い町」の意味です。(「ヴァール」も「城」ともとの意味で訳しましたが、「町」とも訳せます)アールパード朝初期には王の居住城は石造りとされていて、通常白い石(石灰石)で建てられました。白は偉大、傑出、高貴、といったことと結び付けられていたようです。
また違う方向に話をもっていってしまいますが、ナーンドルフェヘールヴァールの戦いのあった1456年の6月(だったかな)にはハレー彗星が観測されたそうですね。悪い兆候とされ、フニャディの(ナーンドルフェヘールヴァールでの)死が予言されました。ナーンドルフェヘールヴァールは勝利に終わったものの、実際フニャディはその年に死んで予言が実現してしまった訳です。トルコ軍は撃退したけど、フニャディとカピストラノの死で、結局彗星のもたらしたものはプラスだったのかマイナスだったのか。確実にプラスに動いたのはドラキュラことブラド・テペシュにとってで、この時に彼は悲願のワラキア奪回を果たしています(ナーンドルフェヘールヴァールの戦いを有利にするためのさくら的存在をフニャディに言い付かっていて、トルコ寄りのワラキア統治者ウラジスラブに攻撃を仕掛けた)。唯一発見されている彼の作ったコインの裏はハレー彗星のモチーフだそうで、きっと彗星の恩恵に感謝の気持ちを表わしたのですね。

M:
ナーンドルルフェヘールヴァールが副王の城かと思っていました。つまりナーンドルとナードルを取り違えていたというわけです。ハンガリー語を知らないというのは致命的な問題です。
>石造の王城
ベーラ4世時代のモンゴル軍の侵攻により木造の城が破壊されたので、その後の城は石造となったと読んだ記憶がありますが、王の城についてはそれ以前から石造であったわけですね。 確かにエステルゴムの城は石造であったという記述を読んだことがありますし、現存の城の古い部分も石造ですね。
彗星の話は初耳です。ナーンドルフェヘールヴァールの戦いについては珍しく「ベオグラード1456」という邦訳の本がありますし、ブラド・ツェペシュについても数冊の本が出版されていますが初めて聞く興味深い話です。
フニャディとカピストラノが死んでいなければ、ハンガリー軍はウルリク・ツィレイ率いる増援の到着後、攻勢に出ることが可能だったように思います。それとその場合はフニャディ家の長子ラースロー・フニャディがツィレイ伯爵と諍いを起こして殺害するといった事件もおこらなかったでしょうから弟であるマーチャーシュが王になることは無い訳で考えるときりがありません。
ブラドのコインについても初耳です。ブラドは直接ではないにしても父と兄をヤノシュ・フニャディに殺されていますから彗星に感謝する彼の心中はどのようなものであったのでしょう。

S:
む・・・私も存じませんでした。ヤノシュ=フニャディとヴラドは目の前に敵がいなくなったら即座に険悪な仲になりそうですからね。フニャディ陣没はこの際ヴラドにとっては自分がヤノシュの風下に置かれ、最悪の場合、第二のヴラディスラヴにならずに済む事を意味します(ちなみにヴラディスラヴはとある町でヴラド自身、あるいはヴラド支持派の貴族に剣で刺されて死亡したそうです)。彼を脅かすものは風見鶏のワラキアの地主貴族(ボイエール)とトルコのメフメト2世だけになったわけです。ただ彼はフニャディ家のマーチャーシュ王があそこまで対トルコ戦に消極的で弟ラドゥ美男公の噂を間に受けて自分を逮捕するなど思いもよらなかったことでしょう。フニャディ家はやはり 彼の生涯全般に不幸を及ぼしてますね。
>ヴラドのコイン
祖父のミルチャ老公はコインを鋳造したとか聞きましたがヴラドもですか。・・・・そういえば、現代書館のヴラドの伝記にコインの図版があったような気がします、ちょっと探してきます〜