2001.10/21-31

ぷー - 01/10/27 20:31:14 電子メールアドレス:zk007jp@yahoo.co.jp
>S主任司祭はたとえ司教様のなさる事に間違いがあったと>しても従ってくださいと説教されたと聴きました。
司教がたとえば「戦争に賛成しなさい」とか、「あのものは悪いものであるから、いじめなさい。これを信仰として受け入れなさい」といったら信徒はそのようにしなければならないのでしょうか?
その司祭は一体いつの時代感覚でものを言っているのでしょうか?
たとえ教皇が発言したことであっても、間違いであるならば、信徒は反対しなくてはなりません。それが、キリストの望まれることです



あしたに向かって - 01/10/27 16:40:17
嘆願はがきを投函したというご連絡をいただきました。ありがとうございます。
はがきは多数印刷しました。ご希望の方には送付いたします。送付先、枚数をお知らせください。


えふ - 01/10/27 08:58:38
管理人さん、こっち(関東)にもみなさんの思いは届いていますよ。具体的になにもできなくてごめんなさい。ただ、祈ります。よき導きがありますように。


中村 - 01/10/27 07:10:58 電子メールアドレス:lita@mxd.mesh.ne.jp
ネオの問題が一つの節目を迎えたように思います。 
このHPには、四国で起こっている様々な問題に直面する人達が関心を寄せていることは言うまでもありません。
また、私の目に止まるぐらいですから、信徒ではない一般の人も少なからず見ておられることでしょう。
ましてや国全体を統括する立場にある人達の耳に入っていないことはないはずです。
にもかかわらず、信徒を守るべき立場にある人達の顔がなぜ見えてこないのだろう、何も声が聞こえてこないのは一体なぜだろう、実は何もわかっていないのではないだろうか、とかねてから疑問に思うのです。 
今回の嘆願書の呼びかけを見ました。そこからは並大抵ではない強い決意が感じられます。おそらく、一信徒としての心底からの祈りから立ち現れたものではないでしょうか。
そして、その呼びかけに、信徒の側がどう応えるか、また、受ける側はどう受け止めるか、私はそれを、一人の国民として然と見据えたいと思います。 
今回の呼びかけが10月であったことも奇遇かもしれません。後になって偶然知ったのですが、10月15日はテレジアの祝日。
当時「緩和カルメル会」と揶揄されるまでに退廃した教会を、十字架のヨハネとともに建て直したことで知られる方であることは、今さら言うに及ばないでしょう。
さらに、10月1日は、後世にカルメル会の修道女となったテレーズの祝日であるとのことです。
これが信徒の方たちにとって偶然か必然かは別にしても、結果として奇しくも時宜を得ていることは確かです。 今回の呼びかけがもたらす反響に期待します。


しょうゆ豆 - 01/10/27 01:53:45
一昨年ある教区司祭が神学院問題はボタンの掛け違いですよ、といわれたことが印象深く残っています。
1992年3月に出された司教教書の冒頭に〔私は一昨年1990年12月8日付で教区立神学院を設立しました。この設立に関して信者の皆さんに十分の説明をしておりませんので、その経緯と目的について申し述べたいと思います。〕と言って発表しています。掛け違えたのはこの辺りでしょうか?。
掛け違っていたのなら掛けなおしていただきたい。直さなければいつまでたってもつれたままです。  
司教はなぜ神学院建設を十分に、教区内外の審議機関や一般信徒に諮り 皆の納得の上で設立としなかったのでしょうか。なぜ、急いだのでしょうか。疑問がのこります。 
このころから信者の中に不信の声が出始め、その燻りは年々大きくなっていっている。2000年の神学院建設にも教区内から激しい反対の声があがっていた。
にもかかわらず、強引に建築された。 
司教のなさることには誰も反対せず従順に従いなさいと言う事でしょう。
実際、S主任司祭はたとえ司教様のなさる事に間違いがあったとしても従ってくださいと説教されたと聴きました。 
小豆島問題もその一つですが、教区の将来の展望を真剣に考え、憂い、厳しく反対の意見表明をする信者に対し、みせしめのごとくの仕打ちを実行されたこともある。
優しさ、誠実さ、忍耐強さを自ら信者に示すべき司牧者として、教区最高位にある方がなさる事ではなかった。この事で怒りと反感を抱いた人たちはたくさんいた。
この様な状況の中でも、司教は断固として神学院の建設を進められた。なぜ、そんなに急いで建設せねばならなかったのか、疑惑をいだいている。
司教の権限はオールマイティなんだからなどと聞かされると反感は益々増幅し、不信感は募り続け、いっこうに払拭する事ができない。
高松教区に信者で居ることに辟易してしまっている。   
しかし、今 わたしは〔高松教区の信徒が希望の扉を開く事ができますように〕と日向さんのこころにひらめいたという、嘆願はがきが、教区の平和への回復の足がかり、解決へのいとぐちとなりますようにと、切実に思い始めています。
誠実な対話と対応がもたれなくては、希望の扉を開く事は出来ないのではないでしょうか。 
カトリックを大切に思っている信者の一人として、憎しみには愛を、いさかいにはゆるしを、分裂には一致を、迷いには信仰を、誤りには真理を、絶望には希望を、と祈るばかりです。


ぷー - 01/10/23 22:54:41  電子メールアドレス:zk007jp@yahoo.co.jp
ネオ活動の問題点は「主張していること」と「実際に行っていること」の分裂にあります。ここは押さえておく必要があると思います。


あしたに向かって - 01/10/23 00:47:31
掲示板をご覧のみなさま、モーセが「明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂きに立つ」と言われたように、決断いたしました。
「あしたに向かって」の呼びかけのページをごらんください。
「神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」と書かれているのを信じて、みなさまに、お願いいたします。どうか、一人でも多くこの呼びかけにお応えくださいますよう、切に切にお願い申し上げます。


ぷー - 01/10/22 22:37:07 電子メールアドレス:zk007jp@yahoo.co.jp
迫害とは便利な言葉で、一寸批判されても、すぐ迫害と受け取るとすれば、これほど、楽で、ものごとを考えずに済ませる方法はありません。
またそこには何の人間的成長もありません。裁判に訴える権利も、批判する自由も、日本国憲法に明記された国民の権利です。
だれも、その権利を行使することを押しとどめることはできないのです。それを迫害と受け止めるとはネオ司祭は一体いつの時代感覚でものをいっているのでしょうか。
ネオ集団は外部からの批判により、自己の集団の在り方を見つめる能力に欠けるようですね。
どうして「何故、批判されるのだろう?」「何故、訴えられるのだろう?」と理性的に考えないのでしょうか?(それがカルト集団の特徴でしょうが)。
神は人間には特別に、理性、知性、と云う賜物を与えられたというのに、それをネオ集団はないがしろにしているのではないでしょうか。
また、本当に迫害を受けて、立派に殉教していく人達は、自ら迫害されているなんてことはいいません。乙女峠の殉教者に少しは見習ってもらいたい。
いいかげん、ネオの司祭も信徒も目を覚まさなければなりません。何故ネオ活動は批判されるのか?
ネオ運動に参加している人の人格を非難しているのではありません。ネオのやり方が問題だといっているのです。


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