2002.1/21-31

パウロ某 - 02/01/31 22:59:48 電子メールアドレス:fwjg5576@mb.infoweb.ne.jp
キコの考え方を読んで驚きました。はっきり言って、これは異端じゃないですか!!
御聖体に対する考え方はツウィングリの象徴説のようですし、ミサやキリストのあがないに対する考え方はエホバの証人と大して違いがありません。
正直言ってなぜ教皇様が新求道共同体を認めているかりかいできません!



匿名希望 - 02/01/31 12:29:17
傍聴人様 ありがとうございました。早速友人に知らせました。
親子ともども熱心な信者なので、どうしたものか悩んでいる様子ですが、せめてどの教会がそうかわかれば、避けることができます。
(本当はしたくないことです)これまでの経緯もよく知っている人なので、ぐらつくこともないでしょう。お世話になりました。


一寸法師 - 02/01/31 09:42:40
この問題は「過去を振り返って、あしたを考える」こと。この真実をしっかり見つめ、偽証によってもつれてしまっている”糸”を一緒にほぐしていきましょう。     
『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。
―善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す』(ルカ6、43−45)


通行人 - 02/01/31 09:10:34 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
02/01/31 00:42:56の無名氏のご発言は、余りにも漠然としていて、我々部外者には何を言われているのか分かりません。
もう少し分かりやすく、具体的にお話いただけないでしょうか。


アサさん - 02/01/31 07:22:05 電子メールアドレス:ashoichi@opfri.oita-ri.go.jp
最近あらためて使徒行伝を読んでいます。ネオカテクメナートの理想とする初代教会。私は、初代から今に至るまでの歴史の中で、教会は多くのことを学んで北と思っています。
それゆえ、初代教会のすべてを理想化することには疑問があります。その意味で、使徒行伝5章のアナニアとサッピラ夫婦の話は象徴的です。
私は、この夫婦を神に反したと切り捨てることはできません。この話の背景はネオカテクメナートの背景と確かに似ています。しかし、それが理想でしょうか?


- 02/01/31 00:42:56
この掲示板にお集まりの方々にお聞きしたい。みなさまは四国4県の信者の声なき声を聞き届ける意思はあるのでしょうか? 
四国という地に即した方法で呼びかけはされていますでしょうか? その努力を怠っているのではありませんか? 努力もせず、安易に他に頼ってやいませんか? 
そんなのに地元から協力者が出るはずがない。 そんな「自己陶酔」な群れに誰が声を発しましょうか。 
もしこの運動が肝心の教区民不在な運動であるのであれば、その行いはネオと同質なものでありましょう。
「適材適所」を無視した方法で無理強いを通せば、「事後」は今より更に酷い「確執と遺恨」が残るのは確実でしょう。 
もう一度冷静に地に足を着け、原点に戻られては如何でしょうか? 


雪景色 - 02/01/30 22:00:19 電子メールアドレス:boiummxf@gray.plala.or.jp
岩国教会の匿名希望さま。はじめまして。新求道共同体の件につき、さぞやご心配のことでしょう。
私は、新求道共同体について、さまざまな資料を収集、研究してまいりましたものです。
その資料をさしあげたいので、わたしあてにご連絡くださいませんか?お待ちしています。岩国教会のみなさん、がんばってください!


@ぷー - 02/01/30 21:04:48 電子メールアドレス:zk007jp@yahoo.co.jp
ネオ所属の司祭は、「この道(ネオ)を歩む(参加し続ける)ことのみがキリストに至る唯一の道である」と信じ込んでいます。
ですから、彼らが、小教区を司牧するならば、当然、信徒をネオに参加するように勧めます。
そして、ネオになじめない信徒や、家庭や仕事などの事情により、ネオに参加する時間の取れない信徒は、「キリストを受け入れない者」として、ネオ所属の司祭に差別的に扱われることになるのです。そうして、小教区は分裂していきます。
ところで、実際問題として、ネオの活動の初期段階では水曜日の夕べに「み言葉の祭儀」、土曜日の夕べに「感謝の祭儀」それぞれの「祭儀」のための準備会と週に4日は犠牲にする必要があります。
忙しい現代人がそんなに時間がとられてしまっては、家庭生活、社会生活に支障をきたすのではないでしょうか?
そんなに、時間が取れる人なんてごく一部の恵まれた人に過ぎません。
毎日忙しく働いてクタクタになっている信徒、家庭を辛抱強く守っている信徒がネオ司祭に差別的に扱われ、司牧の対象から、外されてしまうのです。間違っていると思いませんか?!


やじうま(k) - 02/01/30 19:09:34
ドミニコ修道会とかけて何と解く。「喧嘩の嫌いな、気の優しい赤鬼と解く」。その心は?−「逃げるが勝ち」。
教区に返して花いちもんめ。ドミニコ会はいつもニコニコ。それが一番いいですね。


傍聴人 - 02/01/30 14:39:06
[追加]1ヵ所洩れていました。
愛媛の「松山」は、以前(1987−1996)の間、新求道共同体の活動に熱心な主任司祭(修道会)がいて、いまもその”残党”12人前後のメンバーが教会外で活動しています。
この教会はこのグループを使徒職のアクション団体に加えながら、活動を禁止している奇妙な教会です。
同グループは主任司祭の許可無く家庭で集会をもったり、土曜日には遠く「西条」まで出かけています。だから信徒同士の反目があると聞いています。
修道会直轄の司牧教会ですから、今後、主任司祭の公認となる見通しはなさそうです。


傍聴人 - 02/01/30 12:58:08
高松教区の現状をお知らせします。新求道共同体所属の司祭が派遣されている教会は、香川でカテドラルの「桜町、三本松、小豆島」の3教会。
他に高松市内の「番町」は数年前に派遣されていたところで、いろいろ問題を抱えています。高知の派遣教会は「江ノ口」だけで「中村」が要注意です。
愛媛の派遣教会は「新居浜、西条」の2教会ですが、近く「今治、北条」に派遣の予定。徳島には派遣されていませんが、県都の「徳島」は要注意というところです。
「要注意」というのは、宣教会の主任司祭がこの活動に強い関心もってているということです。


匿名希望 - 02/01/30 11:58:28
久しぶりにゲストブックを見たら、また一段と混乱している様子が手にとるようにわかり、言葉もありません。
私の属する岩国教会も、新年度から新求道共同体がらみで変になりつつあるように思われ、共同体以外の信者はこっそり不安を打ち明けあっている状況です。
最近は広島教区内のよその地区からも沢山人が来て、いっそう賑々しく土曜のミサをしています。
12月には外国から大勢お客さん(マレーシア?から)がいらして、幼稚園を使って集会をしていました。さて桜町、小豆島…と共同体の司祭のいる教会名が出ていますね。
実は広島の友人が高松教区内に結婚して転居することになりました。「普通の教会」にかよえるかどうかとても心配しています。
当分は香川県内に住むようです。具体的にどの教会が新求道共同体の教会か、教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。


やじうま - 02/01/30 11:12:58
「逃げるが勝ち」ですか。「信仰従順」と言うきれいな言葉を使って無茶苦茶にするF司教のもとで働くのは、さぞ辛いことでしょうね。それにしても情けないことですね。


海神セレス - 02/01/30 00:06:50 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
松山教会のヨハネ 岡本 哲夫 主任神父様の、上智大学神学部・聖アントニオ神学校の教授への転勤は、松山教会のミサ中に、発表されました。
ドミニコ会の定期異動とばかり思っていましたが、教区司祭(ネオ・カテクメナート)への交替が決まったドミニコ会担当小教区があるとは、正直、心配です!
(私が、過去に提唱している方法での大規模配置換えならば、高松司教区民の便宜を第一に考えてあるのですが・・・。)


傍聴人 - 02/01/29 19:04:46
速報!近日中に高松教区で、新求道共同体所属の司祭を含めて大幅な異動がありそうです。
その筋の確かな情報によると、愛媛でドミニコ会が司牧して来た二つの教会が新たに新求道共同体所属の司祭に変わるのに伴い、桜町、小豆島、西条、今治、北条、道後、松山などの主任司祭及び教会付司祭が交替するものとみられています。高松教区は、さらにまた激しく揺れ動くことになりそうです。


通行人 - 02/01/28 10:14:36 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
教会法第515条1項は、主任司祭の独裁権を規定しているものではないと思います。主任司祭の任務は「司牧」であって、小教区民の最大公約善でなければならないと思います。
小教区民の大多数の意思に逆らう主任司祭は、その委ねられた奉仕の任務を裏切っていると言うべきです。


一寸法師 - 02/01/27 15:15:14
先日コメントしたことの逆で、新求道共同体所属の司祭が派遣された教会はどうかというと、一部でこの活動がはじまると、心ある信徒は次第に教会から遠ざかる(他の教会へ行く信徒も含め)ことになります。
例えばS教会(名簿上の信徒数41人)は、主日に訪れる信徒は4、5人足らずで、あとはどこから来るのか新求道共同体のメンバーがそれをはるかに上回ることもあるのです。
A教会(同210人)でも、最近教会に来る人数が急に減っているとの報告がありました。この教会の同活動(集会・6,7人)は、どうやら教会の外でやっている様子です。
主任司祭を伴ってのこうした秘密的な集会が、また信徒の間に修復出来ないような分裂の原因を生み出していくのです。
この活動に反対して教会を離れた信徒の司牧を見放してしまうから、この活動は矛盾しているのです。


一寸法師 - 02/01/26 12:52:08
通行人さんの1月24日の「・・この運動を受け入れるかどうかについて・・・」のコメントは、教会法515条の1にある「・・・その固有の司牧者としての主任司祭に委託されている」という定義に基づくものと理解しています。
ただ、このことの延長線でとてつもない悲劇が生じているのです。
例えばI教会で、主任司祭が「新求同期間の道」をよしとして受け入れ、長年にわたり積極的に活動していた。
その司祭が転出し、新しく赴任した主任司祭が様々な理由でこの活動を禁止した。
活動していた10人前後の信徒達は、近隣でこの活動を進めている教会の司祭のもとへ足繁く通い始めた。
新求同共同体の司祭が小教区の範囲を超えて招き入れるから、ことは重大です。
当然、I教会の主任司祭は全体の司牧に支障があるとして忠告するのですが、彼らは絶対に聞き入れません。
そこで教会の中に反目、対立、混乱が生じてきました。信徒会活動に深く浸透して、とても筆舌に尽くせないほど心身の対立が続いています。
この問題は何も高松教区に限らず、福岡、大分、広島、大阪など各教区に及んでいます。
新求同共同体が産み落とした司牧の悲劇を見過ごすことは出来ません。それでいて司牧者はどうすることも出来ないと手を拱いているのが現状です。
信徒にとって、とても悲しく、辛い事なのです。


通行人 - 02/01/26 09:04:40 電子メールアドレス:zabier@tctvnet.ne.jp
@ぷーさんのご意見に賛成です。エキュメニズムは、誰とでも無差別に交流すると言うことではありませんから、相手のことをよく検証するのは大切なことです。
しかし、検証と同時に、小教区の自主性を確立するのも肝要かと思います。人的権威に依存しすぎる信仰は、不健全だと思います。


@ぷー - 02/01/25 22:21:10 電子メールアドレス:zk007jp@yahoo.co.jp
何も知らされず、ネオカテクメナートに入らされて、深く傷ついた人がいるのは事実なのです。また、「私はネオに救われたのです!」と高揚して語る人もいるのも事実です。
私はあの強圧的で、心に強い罪悪感を植え付けてしまうネオのカテケーシスは、特に真面目で繊細な心を持つ人に対し、精神的なダメージを与えてしまうと危惧します。
エキュメニズムとかネオカテを評価する云々と云うことではなく、キリスト者と しての良心に従い、その活動の持つカルト的側面を明らかにしていくことは、意義あることではないでしょうか?
それは、信徒一人一人がこの運動を受け入れるかどうかの判断に資すると思います。
今までは教導職の権威のもと、ネオカテの有用性ばかり強調され、その暗黒面が何も問題にされずにいたのですから。起こっていることは観念の世界のことではなく現実なのです。
拒否する方法といっても、ネオは、映画のあのエイリアンみたいに、いつの間にか小教区の中に入り込んで、増殖していくわけですから、なかなか難しいのです。
ネオに抵抗するにはネオの方法論を見極める必要があると思います。


- 02/01/25 18:23:14
個人の信仰の深さは他人がはかるべきものではないし、個人によって様々な思いを抱いて信仰生活を送っているはずです。
共同体の人達の信仰もそれ自体がいい、悪いとは言えない。
だから高松教区の信者達の自主性によって決めればいいと言うのも分かりますが、この事をすべての高松教区の信者に知らしめた場合、混乱する人たちもいるでしょう。
また、信者は皆が健康な訳ではありません。若い人達ばかりではありません。心の強い人たちばかりではありません。
知らせても自分の信仰が揺るがないなら問題はないですが知らせることによって揺らいでしまう人もいるかもしれない。
その時、しっかりと支えになれる司牧者が近くにいればいいですがそうでない場合が問題。共同体の何がいいところなのか、問題となっているところは一体どこなのか、もう一度はっきりとさせたほうがわかりやすい。
共同体のひとたちもキリスト者なのだから信仰の点では問題はあまりないのではないかと思っている。(細かい部分はさておき・・)


通行人 - 02/01/24 18:11:48 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
傍観者の視点で申し訳ないのですが、ご議論の流れを追っていて、新求道共同体についての評価とその受け入れないしは拒否の問題とが混同されているような印象を受けます。
エキュメニズムの立場から言えば、「共同体」もイエスの福音実践の一方法として許容すべきだと思います。
しかし、現実にこの運動を受け入れるかどうかは、小教区の信徒と牧者が自主的に決めるべきことだと思います。
この自主性が実効的に働いていない、その方法が与えられていない、というのがT教区の根本問題ではないかと考えています。


一寸法師 - 02/01/24 12:58:27
1月23日の「新求道共同体のカルト的要素」に関するコメントは、仰せの通りだと思います。
ただ、「どこがカルト的なのか」と言う点で、さらに掘り下げて指摘し、実証することが必要かと思います。
カテケジスの内容、集会のあり方,その「あらわし」などなど・・・私もこれから機会を見てその実態を探り、紹介したいと思っているところです。
様々な事例や体験をおもちの方は、どしどしコメントしてください。お待ちしています。


- 02/01/23 22:51:08
馴染むことと、土着化は違うということですね。


- 02/01/23 10:13:46
時間が長くなればなるほど、日本に馴染まない原理主義思考も形を変えて日本人に馴染んでいくと言うか、馴染まされていくものです。
すでに共同体に入って長い人達にはそれが「普通」であるということ。ある種、カルト的要素をもつものはその中にいるとあまり他のことが見えなくなっていく。
自分で考えているように「思っているだけ」で、ホントは自分で考えてはいない。”考えられなくさせられて”行く。でも本人は全く「気づかない」ままそれが進行していく。
カルト的要素のあるものの怖いところはここ。思考範囲がスゴク狭くなっていくし、自分で考えられないところまで洗脳されてしまうともう選べる道はただ一つ。
目の前にある道を行くしかなくなる。実はそう言う風にしむけられるのだが・・・。見えている事を議論するのも大切だが、見えないものに関しても議論すべき。
ただこうだから反対、賛成だけでは事は解決はしない。感情に走りすぎないよう、冷静に対処したい。


傍聴人 - 02/01/22 21:16:09
しょうゆ豆さんの1月19日のコメントは、聖フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた(1549年)以来このかた、わが国の福音宣教を考える貴重なヒントであることに変わりありません。
異質の文化、汎神論的思考、深層心の違い・・・いろんな面で論じられ、いまだにその”鍵”を探り続けています。考えてみますと、日本の佛教は遣唐使や遣隋使など知識者を中国に派遣して、日本の文化になじませながら導入しましたね。
それに比べ、カトリックは宣教師によって一方的に入ってきました。この違いを考えてみる必要があると思います。この点で新求道共同体の活動も同じことが言えそうです。
ヨーロッパの非キリスト教化した国々で良いとされるものが、宣教地の日本で良いとされる保証はありません。
新求道共同体は、誤ったカテケジスを絶対に変えないし、インカルチュレーションが彼らの頭の中にありません。  
原理主義傾向と言われる活動の”輸入”は望まれないし、また決して誤った形で土着させてはならないと思うのです。


しょうゆ豆 - 02/01/22 12:07:29
キリスト教文化の中で日本の人たちに一番馴染み、とけ込んでいるのが、教会音楽と思います。新
求道共同体の運動が入ってきた時、信者たちから一番にひんしゅくをかったのが音楽であったそうです。
ギターを弾きながらキコ氏が創ったと言う歌を歌う、それはそれまでのカトリックのもつイメージとはかけ離れたものであったといいます。  
若者たちにはそれが受けたと新求道共同体の人たちは言うそうですが、それは限られた人たちではないでしょうか?。
現代の若者たちにとって音楽と映像を無視することはできないことです。しかし、その内容は充分に吟味されるべきです。
日本ではキリスト者でない方の方がはるかに多いのですから。
音楽だけでなく、あらゆる面で、特に地方ではその風土の中にあって、異質を感じさせず、小さく、貧しくとも品格があり、それがキリストにつながっているものであって欲しいと私は思っています。


しょうゆ豆 - 02/01/22 11:51:41
前出の「いずみ」を読まれた方から、感想文が送られてきました。代筆させていただきます。 「平成青年使節」  セバスチャンの記事は単なる遠吠えですね。
人が認めるより、単に宣伝です。一体何処に精神的な「心」が存在しているのでしょう。外面にこだわるのが彼らの戦法です。思考の粗末さの自己を表現してます。
黙することの深みや、謙虚さを知らない。話しにならないし、こんな言葉にわずらわされる愚かはないです。


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