2002.7/11-20

牛若 - 02/07/20 23:51:14
故・司馬遼太郎氏は、日本人固有の倫理感の一つとして「名こそ惜しけれ」というという名文を強調して遺されました。
この”名こそ惜しけれ”の精神は一言で言うと”こんなことは恥ずかしいからできない”という小さな子供にも分かる極ありふれた単純なことです。
別に誰かに見られているから恥ずかしいとか、注意されるからやらないとかではなく、他人の目があろうがなかろうが、「これは恥ずかしいからやらない」「恥ずかしいから出来ない」という自分で自分を律する一種の倫理規範です。
氏はこの倫理規範を「西欧のプロテスタントの倫理に匹敵する、日本の立派な精神文化です。世界を相手にするとき日本人は”名こそ惜しけれ”と思えばいいでしょう。
日本史の中に日本人にとって大事なことはきちんと残されている。自信を持っていいのです」と言われています。 
中世の文人においては、当時の世相を憂い嘆くあまり「乱世久しくつづき、しかも乱極むるに至らぬは、未だ大悪のものが現れぬからである」と後世に書き残しましたが、こんにちの高松教区の現状をみてみれば、その「大悪の主人公そのもの」が形ある者として現れているのではないかとさえ思えます。
美徳・倫理・道徳を失した者に、教区の司牧など安心して任せられるはずが無い。
しかし、大悪が現れ、乱極むるに至れば、一つの循環が終わり、新しい時代の到来を期待できるかも知れないと思うのは早計でしょうか。
大悪の現れは、長らく冬眠していた信者意識の覚醒を促進していると言っても過言でないと思います。実際、個人的にはカトリックには明るい兆しも少なくないと思う。
ネオみたいな偏向した組織の台頭を切っ掛けとして、一人でも多くの者の目覚めを希望して止みません。



@ぷー - 02/07/20 23:35:42
(何故デマだと思うのですか?そこまではっきりとデマ扱いするのであれば大阪の司教様にお聞きになったのですか?
デマだデマだと言いながらも本当かもしれないから怖くて聞けないのではないのですか?) どうしてデマと思うかということは私は既に述べているではないですか!
そして意見が真実であることを証明するのは、普通言い出した人にあるのが、世の常識です。ネオの方はそんなことまで分からないのですかね?
さつきさんがあくまで、大阪の司教さまに確認してください。(もっとも、大阪の司教さまは、今外国に行かれてご不在ですけれど)
(あなたたちだってネオの祭儀さえ預かったこともない方がいらっしゃるのに人から聞いただけでうのみにして反対しているではないですか)
何を根拠にしてこのようなことをいわれるのか?根拠をご明示ください。


さつき - 02/07/20 22:23:47
つつじさんの書き込みを読んで、確かに1つ私の間違いに気付きました。訂正します。鹿児島ではなく長崎でした。私が書き込み間違いをしただけで、聞いた時は長崎でした。
すみません。それとネオ司祭から聞いたと思いこまれているようですが、私の場合は高松教区のネオ司祭から聞いたのではないですよ。
それから、バチカンがそんなことにまで口を出すはずがないとか決めかかっていますが、バチカンは高松問題の事も全て知っています。
そんなデマを流して大阪の司教様に迷惑がかかると思わないのですか?みたいな事も書かれていたと思いますが、何故デマだと思うのですか?
そこまではっきりとデマ扱いするのであれば大阪の司教様にお聞きになったのですか?デマだデマだと言いながらも本当かもしれないから怖くて聞けないのではないのですか?
あなたたちだってネオの祭儀さえ預かったこともない方がいらっしゃるのに人から聞いただけでうのみにして反対しているではないですか。
自分に都合の良い時は人から聞いただけでも良くて都合の悪い時は人から聞いただけではダメなのですか?
それに、これを読んでいる支援者の中にはデマでないことを知っているので口を閉じている方がいらっしゃるのではないでしょうか?


@ぷー - 02/07/20 21:48:47
ついでに、ネオの司祭も信徒も、もう少し、発言に慎重であっていただきたい。
意見をいうなら、自分はこう思うといった意見を表明すべきであり、「だれそれがこういったああいった」といったような、他者の見解を自分の意見として発言するのは、単なる虎の威を狩る猫にすぎません。


@ぷー - 02/07/20 21:37:20
さつきさん曰く:(バチカンの判断がそういうことならバチカンに従順にして、その会を抜けたいという方もいらっしゃるのではないでしょうか?)
まず、本当にバチカンが原告側に訴訟をとりさげよなんてことを言うか?といった疑問があります。
日本国内の民事訴訟であるのに、何でバチカン市国が口を挟む権限があるのですか?
もし、そんなことをバチカンが本当に言ったのであれば、場合によっては、外交問題に発展しかねない大変なことですよ。日本では裁判を受ける権利はだれにでもあります。
バチカンがその権利を無視して訴訟をとりさげよと指示したことになり、日本の裁判制度を無視したことになり、バチカンによる日本国への内政干渉になる可能性があります。
さつきさんが書かれたことは、多分、ネオの司祭が流している苦し紛れのデマに過ぎないと思いますが、大阪のI大司教様が「訴訟を取り下げよ」と原告に伝えたなんてこと、もし本当でなかったとしたら、ネオ司祭はどう責任をとるつもりでしょうか?
大阪のI司教様がご自分の与り知らぬところで、発言したとされることが一人歩きされたら、I大司教様のご迷惑になることが、わからないのでしょうか?
こんなことを軽々しく話すところがますますネオに対する反感を増しているのです。
また、バチカンの権威を持ち出して、なんとか反対派の言動をむりやり押さえ込もうとするところも、ネオに対する反感を増す結果になっています。
「訴訟をとりさげよ」なんてことを主張するのは、法的レベルの問題と宗教的レベルの問題の区別ができていないということです。
この区別はこの掲示板でずっと討議されてきていることですので、いい加減理解していただかないことには困ります。


つつじ - 02/07/20 11:30:20
さつきさん、あなたの話は”聞きかじり”というか、デタラメな人から聞いたデタラメな内容の話ばかりです。
カトリック新聞にも「バチカンに出向いたのは3人の大司教」と掲載されているのに、どうしてそこに鹿児島の司教が出てくるのですか?
そして「日本とインドがバチカンから離れつつあるとの懸念?」―バカなことを言うのもいい加減にしてよ。
どうせ、なにも知らされていない、どこかのネオ司祭から聞きかじった話でしょう。
この場でバチカンや司教の名前を勝手に使って、自分たちの都合の良いように話を結びつけるのは、もう、これっきりにして下さいね。すぐに化けの皮がはげてくるような話はご免です。


- 02/07/20 11:07:40
大阪の司教様が原告の方に云々 というのは知りませんが、大阪のI大司教様がネオに関しての抗議文を提出されたというのはある司祭から聞きました。


桃太郎 - 02/07/20 10:59:07
さつきさん、大阪の大司教様に聞くのではなく、「高松の国際神学院長に聞いて御覧なさい」の間違いではありませんか?どちらにしても大変ですね。
F司教が裁判に勝つ見込みなら「取り下げ!取り下げ!」なんて言わなくてもいいのにね。あなたの書き込みでローマもF司教の誤りを認めていることを公にしたね。
何も悪い事していなければ裁判に訴えられても平気だよ!


さつき - 02/07/20 10:46:44
通行人Cさん、あなたが言おうとなさった事は大体において納得できました。
今回は高松の裁判についてバチカンが取り下げるようにと判断している事を全く知らず、原告側だけの言葉をうのみにして賛同していらっしゃる方がいるかもしれないので聞いた事を報告してみました。
支援する会の方も6月始めに170人弱いらっしゃるということでしたが、バチカンの判断がそういうことならバチカンに従順にして、その会を抜けたいという方もいらっしゃるのではないでしょうか?
自分の都合の良いことは、揚げ足をとってまでも報告するのに、少しでも都合の悪いことは口にしない傾向があるように思われましたので。


通行人C - 02/07/20 09:19:58 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
みなさ〜ん、ここは、学術会でも法廷でもありません。個々の発言に関して余り向きにならない方が良いと思います。発言内容は、概ね、理論と事実factsに大別できると思います。
理論については、法則に沿って徹底的に論じましょう。事実については、結局伝聞の域を越えることはできないと思います。それをいちいち実証せよと迫るのは酷ですよ。
伝聞は伝聞でよいので、それを判断するのは読者に任せればよいのです。或る会談の内容をその参加者に確認すると言うのも現実離れです。
大体出来事の内容を何でもぺらぺらしゃべる人は信用できません。
しかしながら、公職にある人は、できるだけ情報を公開する義務があるわけで、それを促すのがマスコミの任務だと思います。
この点で日本のカトリック系マスコミは、少し怠慢に過ぎるのではないかと考えておりますが、いかがなものですか。


さつき - 02/07/20 08:40:15
つつじさん、おはようございます。私は聞いた内容に対して信憑性を疑っていません。
もし、お疑いの方がいらっしゃるようなら大阪の司教様に直接にお聞きになってはいかがですかと思っただけです。
あなた自身も、まだ調べたわけでもないのに「利いたような口をきくなと神様が話しておられます」みたいに、まるで神様のようなくちぶりには驚いています。
もし、バチカンからそのように言われたことが、はっきりと事実だとわかった時は、どう言われるおつもりなのでしょうか?そして、たぶん噂だけではないと思いますよ。


つつじ - 02/07/20 07:39:14
さつきさん、あなたには「利いた風な口をきくんじゃありませんよ」と神様が話しておられますよ。
「私もわざわざ裏をとるような事はしていませんので・・・」とのことですが、裏を取ってみられたらいかがですか?
いやしくも裁判のことで「取り下げるように」なんて指示する資格(権利)はだれにもないと思いますよ。
本当にそのように言ったかどうか調べてみるべきです。これからは責任のもてる書き込みをして下さいね。


@ぷー - 02/07/19 21:36:31
あすなろさんから、何か反論があるかなと期待していたのですが、何も反応はいただけないようです。基本的に掲示板の記事にコメントをつけるのもつけないのも、個人の自由です。
しかしながら、勝手な推測ですが、あすなろさんは有効な反論をすることができないのだと思います。
ネオの人達の思考の特徴として、出来事を何でも神意(あるいは悪魔の意思)に結びつけるところがあります。
本来神が直接関与しているとは言えず、人間の行為が引き起こした出来事でも、「これは聖霊の導きである」といったような言い方をしますね。
だから、少しでもネオに疑問を呈したり、ネオに反対すると、「あれは悪魔に操られているのだ」といった取り方をし(ほとんどのネオの人は同じ反応を示しますね)、そこで思考を停止させてしまうのです。
自分の頭で考えず、都合の悪いことをすべて悪魔のせいにするならば、何の人間的成長も望めない。
ネオの人達はどうしてこのようにネオは批判されるのか、真摯に耳を傾けることこそ、人間として誠意のある態度ではないでしょうか?
そして。ネオの人たちは、神学院が10余年以上続いていることを、「これは時の印だ。」みたいな言い方をしますが、要するに神学院の支援者がいたから、今まで続いてきたわけでしょう?
いったいどんな人たちが、神学院のために寄付金を出してきたのか?
教区立であるならば、現代社会の情報公開の流れに基づき、教区民にきちんと説明する義務が有ると思います。
(もしかして、カトリック界のかなりの有力者から莫大な寄付を得たため、もうひくにひけない状態なのでしょうか?)
「神の意志」により、神学院が建ったのではありません。ローマの聖座の命令によって建てさせられたのでもありません。
あくまでF司教さんの独断的な意思に基づき神学院が建てられたのです。つまり、神学院設立は純然たる人間的行為です。だから、人間がどこまでも責任をとらなければなりません。


桃太郎 - 02/07/19 19:39:15
さつきさん:「聞いた話ですが」と言っておられますが、わたしもこれと同じ話をネオの神父から聞きました。


しょうゆ豆 - 02/07/19 14:03:47
下の「しょうゆ豆」の10時19分の書き込みの中で、「中外日報」の記事中に書かれていたのは、・・・・・・原告は「その希望は事前に提示すべきだ」として、同意しなかった。までです。


さつき - 02/07/19 11:14:03
下記のコメントですが、聞いた話ですと前に大阪、東京、鹿児島の三司教様たちが、バチカンに日本でのネオの撤退、高松の神学校を閉じる事などいくつか申し出たそうです。
(鹿児島の司教様は、バチカンの出方を見たかっただけらしいですので、訴えたのは2司教様ということですが)バチカンは、それを全て拒否しました。
そして同時に、高松で行われている裁判についても、大阪の司教様に「取り下げるようM氏に連絡しなさい」と言われたそうです。
大阪の司教様は、自分の感情はともかくM氏に連絡したとお聞きしていますが。
私もわざわざ裏をとるような事はしていませんので、信憑性を問われる方は、お調べになってはいかがでしょうか?
現在バチカンでは、日本とインドがバチカンと離れつつあるとの懸念をしています。
教皇様と一致していないカトリックであれば危ない道を進んでいるといっても過言ではないでしょう。と思います。


しょうゆ豆 - 02/07/19 10:19:11
「中外日報」の記事には次のような記述もありました。 被告側は、「第三者の(他教区の)司教か、教皇庁大使を交えての(地裁外での)話し合いを、」と要望。
原告は「そのような希望は事前に提示すべきだ」として、同意しなかった。 
ここで理解に苦しむ事は、無条件で取り下げるくらいなら、森岡さんたちは、身を捨ててまで訴訟を起こしてはいないという常識がわかっていない、ということです。
自らは出張という理由で欠席し、小教区の一司祭である谷口師を代理人に立て、被告人の立場でありながら、一方的に取下げを求めるなど、まさに我が身の立場(保全)だけを考え、信徒の心を理解しようとする姿勢が全く感じられない、ということに、名誉毀損の根元を感じます。
森岡氏に尋ねましたところ、上記に記載されている教皇庁大使を交えての話し合いの構想は、司教からの無条件取り下げの要求(7月2日)以前に持ち上げっていた事実であり、和解の意志ありとの連絡を事前に行うことなく、取り下げに応じない原告に対しての最後の切り札として、当日話し合いの席で,提示してきたとのことです。
これは和解の精神までも踏みにじる行為ではないでしょうか。 まさに駆け引きばかりで、聖職者としての自らの行為を振り返る姿勢が全く見られません。
第三者から見ると、単なる引き延ばし戦術としか感じられません。


通行人C - 02/07/18 21:19:23 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
岡目八目ですが、もうここまできたら、司法の判断を待つのが公平であり、ベストではないかと考えます。
その上で、教会の権威主義的体質をみなで糾明したらどうでしょう。このままではとても福音宣教などできるはずはありませんね。


しょうゆ豆 - 02/07/18 20:22:50
7月18日の「中外日報」が、昨日松山地裁で行われた名誉毀損訴訟について報じています。
【和解協議また持ち越す】【まず、無条件で提訴の撤回を・・深堀司教要求】【宗教者らしい収拾を図るとき】の見出しで記述されています。 
この日、原告側は二人の原告とその代理人、被告側からはその代理人と深堀司教の代りに三本松教会主任司祭である谷口神父が出席していたそうである(司教は出張とのこと)。
「中外日報」の記事の一部を引用させていただくと、被告側代理人は「原告側は無条件に提訴を取り下げてほしい。
その上で教会の内部で真の和解のための話し合いを行うことにしたい」との深堀司教の意見が提示された。
裁判長は「(これまでの審理経過を踏まえての意見表明ではなくて)まず訴訟の取り下げありき、では和解でもなんでもない」と不満を示した模様である。 
原告側は「被告がわに名誉毀損をしたとの意識があるかどうかの表明もなしに提訴取り下げだけを求め、あとの解決は教会の内部で、ということでは、被告側の誠意が伝わってこない」と述べた。 
裁判長は「8月21日午前11時に、もう一度和解するかどうかを話し合いたい」と述べ、被告側は、その席に深堀司教も出席することを示唆した模様である。
と記述され、また、”宗教裁判に”ならぬ配慮をとの小見出しで「信徒は聖職者(司教や司祭)に絶対服従」が建前のカトリックでは、欧米での性的虐待問題などの刑事事件を除くと、聖職者が信徒に頭を下げた前例がほとんどない。
法曹関係者によると、今回の裁判でも、深堀司教は、自分の教区運営に誤りがあったとは一度も認めていないという。
話し合いの場が教会内部に移ると、極端な表現をすれば聖職者が信徒をさばく”宗教裁判”になるおそれなしとしない。
和解の場が一ヶ月延びたことで、カトリック側は深堀司教の引退後に備える時間稼ぎができたと見るむきもある。
と書かれ、また、小豆島教会ではいまだにミサに参加しても御聖体をいただく事が出来ない信者がいるということも記述されていた。


研究者 - 02/07/16 12:31:25
通行人Cさんへ。そう思いません。ネオが勝手に吹聴したからといって、それがなんなのですか?ネオが「我々は異端です」といって勧誘してきますか?
それよりどうして、通行人さんは、ネオのことについて、ご自分で調べてみるとかなさらないのですか?ネオの人々を利しているのはあなたの方です。
何かというと教皇庁を持ち出しますが、暫定期限付きで、教皇直々の文書ではありません。教皇庁で私の発言を封じようとするのはよしなさい。そのやり方は、ネオと同じですよ。


通行人C - 02/07/16 11:32:02 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
研究者さん、もし、ネオが、「われわれは異端ではない。異端を唱えるグループの規約を教皇庁が認可するはずが無い。」と言ったら、どう答えられますか。
また、「研究者たちが言っているような教説を唱えた覚えは無い、彼らのでっち上げだ」と言ったらどう答えられますか。
ネオは、研究者さんのカキコを「法難だ」「義のために迫害されている」と吹聴するに違いないと思います。そう思いませんか。


しょうゆ豆 - 02/07/16 11:23:57
「ローマでの動き」さんの書き込みは、私には、どうゆう意味なのかさっぱり分からないのですが?・・・・・・。
韓国,モンゴルの司祭叙階は、どこの会のものなのでしょう?新求道共同体?・・・・・・。
ミラノのマルティ―ニ枢機卿はとても徳の高い方で、真のキリストの代理者だということを聞いたことがありましたが、さすが、徳の高い立派な方はご自分の身の処しかたをこころえていらっしゃるのですね。


研究者 - 02/07/16 10:27:43
通行人Cさん。私の書き込みのどこがネオを利しているというのでしょうか?


通行人C - 02/07/16 09:46:01 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
研究者さん、私の真意を理解していただけないのは大変残念です。あなた方の努力を決して軽視しているのではありません、むしろ、大いに敬服しているのです。
しかし、冷静に良くお考えください、研究者さんの書いておられることは、ただネオ側の人々を利しているだけなのです。どうしてそこがお分かりにならないのでしょうか。


ローマでの動き - 02/07/16 00:49:09
2002年7月11日、トリノのバレストレロ枢機卿とともにネオに反対してこられた、ミラノ大司教カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿は定年により引退。
翌日、かつて「平成青年使節」というネオの一団に「あたたかいことば」をかけたという福音宣教省長官クレシェンチオ・セーペ枢機卿は韓国とモンゴルの訪問より帰国。
両国とも現地では「司祭叙階式」をおこなったという。


研究者 - 02/07/15 22:33:20
通行人Cさん。「高松教区の問題を考えるに当たって、教義の問題は、一応考えなくとも良くなったと言う事です」それはあなたの理解の程度のことです。
事態は、あなたが考えているよりはるかに深刻です。私どもは、昨年来、ネオについての異議を提起し続け、私自身、鹿児島、高松、松山と調査旅行もいたしました。
「教皇庁が問題としていない」ことこそが、はるかに問題なのです。
エンリコ・ゾッフォリ神父をはじめとする英雄的な方々が、15冊にのぼるネオ批判の著作を刊行されたのはなぜでしょうか?
ネオの教義、典礼、カテケージスなどの誤謬、異端は、高松でもローマでもみな同じです。要するに、ネオは、カトリック教会そのものと合わない徒党なのです。
「ネオとの直接の議論が必要で」すが、それなら、私はもうやりました。かつて、「風ぐるま」さんが紹介していましたが、「あいしん95号」に掲載されております。
結論から申し上げれば、「ネオとは全く話し合いにならない」ということです。
「第三者が引用している教説なるものを論破しても殆ど効果は上がらない」何を根拠にこんなことをいうのか、私どもの、昨年来の努力(イタリアから本を取り寄せる、翻訳していただく、掲載していただく、そして何より、ネオについての文章を書くのがどれほどつらかったことか!)をあなたの冷血カキコで踏みにじられてはたまりません。


通行人C - 02/07/15 10:00:18 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
通行人が、「教義上の事は一応けりが付いた」と書いた意味は、会則が認可されたことで、ネオの教説がすべて正統であると認められたと言う事ではありません。
高松教区の問題を考えるに当たって、教義の問題は、一応考えなくとも良くなったと言う事です。教皇庁が問題としていないのですから。
ネオの教義については、別の場で、もっと神学的に議論していく方が良いと思います。
その場合はやはりネオとの直接の議論が必要で、第三者が引用している教説なるものを論破しても殆ど効果は上がらないと考えます。


@ぷー - 02/07/14 23:02:43
あすなろ氏の書き込み文に対し若干のコメントです。
あすなろ氏曰く(でも、アフリカや中南米の教区で「レデンプトーリス・マーテル」を誘致している多くの教区と比べれば、信徒の数は高松の10倍−100倍でも、経済規模ではバランスシートトータル3億2千2百万、資産合計17億円と言う高松教区の数字は胸を張れる立派なものですよ。)
:大体物価の違いすぎる外国と単純比較できるわけないでしょう?
今教区は赤字で、大阪教区から分かれる際にもらった資金を毎年取り崩し、教区会計に編入していることをしらないのですか?
:あすなろ氏曰く(一粒会のお金はもともと教区司祭養成のためのお金でしょう。):違います。邦人司祭育成のための資金です。
:あすなろ氏曰く(なぜ事実無根の悪質なデマで執拗に繰り返して善良な信徒たちを惑わそうとするのですか。)
:基本的に自らの良心に従い、事実を指摘、意見を表明しているだけです。表現の自由、良心の自由は、日本国憲法に明記された国民の権利ですよ。
:あすなろ氏曰く(高松教区では「教区司祭」の生活費(給料)は一切教区信者の負担にはなってきていなかったという事実を教区の信徒の皆さんは知らなかったなんて、全く驚きですね。
あいた口が塞がらないとはこのことです。彼らは幼稚園の園長やその他の仕事をして、自分で働いて生きてきたのです。
教区の信徒が養って食わせてきたような大口をたたかないで下さい。)
:ではお尋ねしますが、2000年度の高松教区の決算書には、経常支出のなかに、人件費(小教区会計計23,688,815円、教区本部会計7,098,809円、神学院会計(!)1、579、088円)が費目として計上されていますが、これは何なのですか?
経常収入には献金収入が上がっています。
つまり、(当たり前のことでわざわざ説明する間でもないことだとは思いますが)信徒の献金が教区の収入にあがり、そこから教区司祭の生活費が支弁されているのではないですか?
重大な事実誤認をしているのはあなたさまの方だと思います。
以上、馬鹿馬鹿しいとは思いながら間違った認識がひろまってはいけませんので書き込みしました。


- 02/07/14 22:53:44
通行人Cさん。
「教義上のことは一応けりが付いたとしなければならないと思います」教義上のことは、全然けりがついていません。
キコの主張「キリストは何らのあがないもしなかった」「イエズスは世の罪のいけにえとしてご自分を捧げなかった。
十字架上では何らの犠牲もしなかった」「祭壇では何らの犠牲も捧げられない。イエズスからも決して執り行われなかった」こんな異端教義を受け入れられますか?
「会則」の「認可」を受けようがダメなものはダメです。それに、教義上の問題に対して、「会則が認可された。弁明を」とせまるのは、問題のスリカエです。


しょうゆ豆 - 02/07/14 22:32:02
通行人Cさんへ、補足していただきましてありがとうございました。
「高松司教区司祭」というのですね。 あすなろさんへ、しょうゆ豆が触れていないことまでいろいろたくさんに、ご丁寧にお教えいただけましてありがとうございました。
お蔭様でよくわかりました。
これだけのことを縷縷としておっしゃる事が出来るのは,高松司教区司祭である方でないと、と、思って読み進めていきましたら、やはり「私たち長年高松教区で働いてきた老人司祭たち」とおっしゃっていますので、間違ってなかったです。
反論したいことはございますが、私は長文は書けませんので控えさせていただきます。
ただ、しょうゆ豆は、高松教区が神学院を設立したときより生じたのであろうと思われる信者の教会への不信感・疑問・不安感が、ここ数年の経過のなかで、特に裁判などによって検証されてきましたことで、あすなろさんが、どのようになんとおっしゃろうとも、高松教区の将来を真剣に危惧せずにはいられないのです。
信仰の足りない信者なものですから。


通行人C - 02/07/14 21:36:45 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
一般論ですが、すべての聖職者(司祭、修道者)は、最終的にはすべて信徒の浄財によって直接或いは間接に生かされているのです。
もしそうでないと言う事があれば、どこかでイエスの福音を裏切っているのです。聖職者の生活費が帳簿の上でどこから出ているかということは、回答にはなりません。


プル - 02/07/14 21:11:53
<<@ぷー - 02/07/14 17:38:32 >> さんのおっしゃるとおり、これからの運営資金確保の見通し(「困ったときには必ずどこかから寄付があるから大丈夫」というのはなしですよ)と過去の資金繰りの実情は是非とも明らかにしていただかなければなりませんね。
今のところに神学校が移転する前にちらと、(当時は)非常にずさんな会計で、そもそも会計に専従しているようなスタッフもいなかったとかいう話をきいていますので、そのあたりの資料は出せないのかしら。


@ぷー - 02/07/14 17:38:32
(理論的には宗教法人高松教区が破産する事もあり得るのではないでしょうか。)
http://shinsei-www.mext.go.jp/bunka_shuukyou/index_old2.htm 文化庁は宗教法人が破産した場合の手続きを定めていますね。
通行人Cさんのご心配はまったく正当なものです。さて、あすなろさん、では今までの高松教区の神学院の運営資金はどうやって工面されてきたのか。
そして、これからも、神学院の運営資金は十分確保できるという根拠をご明示ください。
「そんなことを心配するのは信仰が足りないからだ」なんて馬鹿なことは言わないように。カトリック教会自体の信用にかかわりますので。


通行人C - 02/07/14 12:58:31 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
あすなろさん、誤解しないでください。
1.高松教区が小さいから非難中傷しているのではありません。
2.どこからお金を持ってくるか別として、教区司祭の生涯の生活(霊的・物的)を保障するのは、司教の責任です。
わざわざ括弧に司教個人ではないと書いたのは、これから何代も続くであろうすべての司教と言う意味です。
さて、他人の財布の中身を云々するのははしたない事ですので、これ以上言いません。問題ないなら大いに結構です。
ただし、教区の信者さんには納得いく説明をなさるのが当然でしょう。信仰の足りない信徒がありもしない問題をでっち上げていると言う事ですか。


あすなろ - 02/07/14 08:15:46
[通行人C-02/07/14]と[しょうゆ豆-02/07/13]について。
ほかに文句や言いがかりが見つからなくなって、ローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院の姉妹校を誘致した世界の46司教区(48かな?)の内、高松教区がずば抜けて小さいことが非難中傷の材料にされているようですが、確かに、マドリード、ワルシャワ、デンバーなどの教区に比べれば、吹けば飛ぶような弱小教区と言われても文句は言えないですね。
でも、アフリカや中南米の教区で「レデンプトーリス・マーテル」を誘致している多くの教区と比べれば、信徒の数は高松の10倍−100倍でも、経済規模ではバランスシートトータル3億2千2百万、資産合計17億円と言う高松教区の数字は胸を張れる立派なものですよ。
20人‐30人の神学生、30人−40人の新司祭の生活費のことでうろたえて「神学院つぶせ」「共同体出て行け」の大合唱をするのは、信仰が足りない、神様の御摂理に対する信頼が足りない、と言われても仕方ないのではないでしょうか。
一粒会のお金はもともと教区司祭養成のためのお金でしょう。
司教様が過去10年ほどの間にそこから合計3000万円余りを何回かに分けて教区司祭の生活費に支弁されたのがなぜ悪いのかさっぱり分かりません。
それが神学院の土地取得や建設資金に当てられなかったことは、教区の会計監査を経た帳簿から明らかになっているのに、なぜ事実無根の悪質なデマで執拗に繰り返して善良な信徒たちを惑わそうとするのですか。
教区の会計監査を信用できないと言うのなら、出る所に出て白黒はっきりつけてからものを言うべきでしょう。
嘘のデマを流し続けるのは犯罪に等しいと思いますがいかがなものでしょうか。
「通行人C」さんは「これらの司祭の霊的、物質的保障は、高松教区(司教個人ではありません)が生涯負担しなければなりません」とありますが、それは、大変な事実誤認です。
ここ数年のうちに発生した新しい事態として見られる一部の例外を除いて、高松教区では「教区司祭」の生活費(給料)は一切教区信者の負担にはなってきていなかったという事実を教区の信徒の皆さんは知らなかったなんて、全く驚きですね。
あいた口が塞がらないとはこのことです。彼らは幼稚園の園長やその他の仕事をして、自分で働いて生きてきたのです。
教区の信徒が養って食わせてきたような大口をたたかないで下さい。
幼稚園の無い小さな小教区の同僚司祭を養うために、園長司祭たちは10万円だけ手元に残して、残りをプールして、それを分かち合ってきたのです。
勿論、長崎教区など、司祭の出身地の親戚縁者や友人司祭たちの寛大な援助もありました。私たち長年高松教区で働いてきた老人司祭たちは、胸を張って言います。
信者たちの維持費献金で食べさせてもらってきたのではない、と。自分たちで働き助け合って生きてきた。しかし、愛する教区民のために自分のすべてを与えてきた、と。
自分の小教区の会計報告をもう一度見てください。主任司祭の給料がそこから出ていますか。
教区本部の会計報告をよく調べてください、司祭たちの生活費が信徒の維持費による一般会計から出ていますか。出ているとすれば、それは「邦人司祭会計」から出ているのです。
そして邦人司祭会計とは、司祭が自分たちで働いたお金や、司祭個人が直接得た支援の金をプールしたものです。
修道会が「修道会固有の会計」を持ち、小教区の会計と分けられているように、教区司祭たちも自分たちで自分たちの生活を支えるために「邦人司祭固有の会計」をもって、信徒の拠出による「教区会計」と別にしているのです。
「レデンプトーリス・マーテル」から輩出した若い司祭たちも現在はこの「邦人司祭会計」生活費を得ています。一部の例外を除いて彼らの生活は信徒の負担になっていません。
将来?将来のことは皆で知恵を出し合いましょう。神様の摂理にゆだねるだけの信仰も必要でしょう。今日の心配は今日で足りる、のではないですか。
もう十年以上にわたって、あの金食い虫の神学校を神様は不思議なみ摂理で護り続けてこられたのです。教区信徒の維持献金による教区会計から何も拠出しないで。
これは、神様がこの神学校を日本に望まれた「確かな印!」だと断言できます。高松教区が日本でもっとも小さい教区であることを恥じてはいけない。恐れてはいけない。
「これが人間の業ではなく、まさに神のみ業であることを示すために」神様はわざわざ一番小さい高松教区をお選びになったのです。
『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(マタイ2章6節)


通行人C - 02/07/14 06:29:57 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
しょうゆ豆さんの言われている事をもう少しはっきり言えば、「ネオ神学院」出身であっても司祭に叙階されるときは、高松司教区司祭として叙階されているはずです。
今の教会法では、それ以外に考えられません。
ですからこれらの司祭の霊的、物的保障は、高松司教区(司教個人ではありません)が生涯負担しなければなりません(もちろん益もありましょうが)。
通行人の心配は、まさに、高松教区がその負担に耐え切れるのかと言うことです。理論的には宗教法人高松教区が破産する事もあり得るのではないでしょうか。


しょうゆ豆 - 02/07/13 23:21:11
新求道共同体はバチカンから承認されたとはいえ、宗教法人の格を持てるものではありませんでした。
高松の「国際宣教神学院」は依然として宗教法人である「カトリック高松司教区」の後ろ盾、保証がなければ成りたっていかないと言うことになります。
そして、この神学院から輩出され高松司教から叙階された司祭の身分は「高松教区司祭」のはずです。
宗教法人である他の修道会、たとえばドミニコ会、イエズス会等の修道会司祭「ドミニコ会司祭」「イエズス会司祭」と同じで、いわゆる「教区司祭」と言っている邦人司祭とは違うと私は理解しています。
この「高松教区司祭」は他教区に派遣されてその教区の教区司祭として働いていたとしても、身分は「高松教区司祭」。「ドミニコ会司祭」がどこの教区で働いていても身分は「ドミニコ会司祭」であるというのと同じじゃないですか?。
はやくいえば高松教区お抱えの神学院といえるものではないでしょうか。
だとすると、高松教区民はこの神学院から輩出されるすべての「高松教区司祭」の生涯の生活保証と責任を司教とともに背負って行かねばならないということになりませんの??。
この日本の中で一番信徒の少ない,一番小さな貧乏教区がです。  
神学院を創ることが出来るのは教区と修道会だけと、深堀司教は5・15公判のとき言っていました。私は思います。創る資格を持ってもいないものがなぜ、創るのか!と。
しかも、不正をおこなったり、勝手に信徒の浄財を流用をしてまで。
イタリアやスペインのように、国中の人がカトリックと言うような国柄なら、莫大な費用がかかる神学院にも企業や団体からの資金援助や大口の献金もあるでしょうが、ここは日本、弘法の島とまで言われている四国で。


海神セレス - 02/07/13 22:06:06 電子メールアドレス:fumikazu@dokidoki.ne.jp
長らく沈黙を守り続けてきましたが、誹謗中傷合戦が再燃している様なので、手短に、コメントします。
*高松司教区でのトラブルの根本は、「一粒会費等々のカトリック教会の公金の不正流用」が疑われており、それを内部告発した信徒使徒職評議会委員クラスの信徒2名が、司教区から、不当な扱い(名誉毀損時案)をうけて法廷闘争継続中という事です。
*ネオ・カテクメナートを認めるか否かは、最終的には、司教区民個人の選択次第です。本来、司教区・小教区は、修道会・宣教会・属人区・信徒団体の調整機関です。
従って、司教区・小教区には、公平・中立性が求められています。残念ながら、高松司教区と、管内の小教区の多くで、公平・中立性を欠いていた時案が多かったと言うことです!
よって、ネオ・カテクメナートの会則が承認された現在、その、公平・中立性の確立の絶好の機会であり、また、そうするべきなのです!(また、沈黙します!)以上!


第三の男 - 02/07/13 21:32:32
アンジェロさん、基本的にネオの道を歩む信徒も同じ信仰を持つ兄弟であり、ともに愛し合わなければならないと思います。
しかしながら、高松教区に置いて、信徒間に分裂があるのは事実であります。そもそも、分裂問題がなければこのHPは存在しません。
もう一回このHPをはじめから読み直すことをおすすめします。私はネオの信徒を愛しております。しかしながら、ネオが原因で、分裂が起きたことは悲しく思っております


理解できない - 02/07/12 14:22:44
この掲示板は、いったい何の意味があるのですか?
ネオに反対する掲示板と思っていたのに、いつのまにかネオのことはほったらかしで、高松司教と信徒の戦いにすりかえられてやしませんかね?
おまけに「大学生」とやらにネオに行って来いよがしの書き込みをするなんて。さらに裁判原告応援の「祈り」ですか?


通行人C - 02/07/12 10:33:22 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
部外者さんのお望みは何なのですか。教区を分裂させる事ですか、ネオの撲滅なのですか。
ネオ撲滅がお望みであれば、そのための掲示板を別に設けて大いに論戦されたらいかがでしょう。教区の融和をお望みなら、もっと現実味のある提案をされたらどうなんでしょうか。


オリーブ - 02/07/12 07:33:34
ブルさん、私もそう思います。


プル(中庸) - 02/07/12 06:23:36
<<部外者 - 02/07/11 23:03:06--掲示板の主旨が少々、意味不明になっている-- >> 
そうでしょうか?トップページには「わたしたちは,あちら,こちらの小教区の中で,ある時は喜び,ある時は悲しみ,毎日精いっぱい生きています。
21世紀(あした)のカトリック教会のために,わたしたちの苦しみについて,一緒に考えてくださいませんか!」 と書かれています。
ここにある書き込みはどれもこの趣旨にそってると思いますけれど、中には「子供のけんかだな」とか変なのもありましたが、ほんとに少数ではありませんか?


アンジェロ - 02/07/12 03:49:35
今までサイレントリーダーとして、高い関心を持って「あしたに向かって」を読んできましたが、初めてコメントさせていただきます。アンジェロは私の霊名ではありません。
勿論実名でもありません。西日本在住の中年男性日本人カトリック信徒ですが、ネオと呼ばれる団体のメンバーではありません。接する機会が無いので内実はよく分かりません。
ただ、書き込みのやり取りだけを見て感じたことを述べさせていただきます。
02/07/11 01:18:13 のコメント「新求道期間の道の規約に関する試行期間つき認可」という「教皇庁信徒評議会教令」(べたっとつながっているけどよく読むとそう見えてきました)に書かれている内容と、同じ日の 22:20:17 の「がんだるふ」さんのコメントを比べてみるといろいろ面白い点が浮かんできたので、率直に述べさせてください。
(1)がんだるふさんは「聖座による公認の効力は過去に遡及(遡る)するものではありません」と書いておられますが、聖座の教令は「数多くの地方教会において、30年以上前から新求道期間の道の実践が新しい福音宣教のためにもたらした数知れない霊的実りを認め、評価してきた枢機卿、総大司教、司教たちから多数の推薦状が教皇庁信徒評議会に寄せられた」ことが、今回の認可の前提になっていると読めますが、それはまさしくネオの過去の実績に対する評価ではないのでしょうか。
そして、その実績の中には日本におけるネオの活動も、神学校のことも含まれるのではないでしょうか。
それとも、バチカンはうっかり日本のごたごたを見落として軽率な認可に踏み切ったのでしょうか。もし日本の事情を知っていたら認可しなかったでしょうか。
私は、常識的に考えて、どこの国にも多かれ少なかれ日本におけるような少数声高な反対分子はいただろうし、バチカンは日本のことも充分承知した上で認可したのだと思いますが、いかがなものでしょうか。
ネオの活動は自由参加ではないのでしょうか。もともと「強引に自分たちの典礼を一般信徒に押し付け」たりしたことは無かったのではないかと推測されます。
それはがんだるふさんの誤解か意図的な宣伝ではないのですか。
「ネオの道を歩まない(歩めない)信徒をキリストを受け入れないものとして差別」するような活動団体を聖座が承認するはずは絶対に、「絶対に」、ありえないと私の信仰のセンスは叫ぶのですが、私がおかしいのでしょうか。
これも、がんどるふさん、あなたの悪意と偏見に満ちた宣伝ではないのですか。それに多くの人が迷わされ、不安になり、心の平和が乱されてきたのではないですか。
その結果に対する貴方の責任は重大だと思いますよ。
(2)「過去において、常任司牧委員だしたネオに対する注意文書はその時点で正しかった」と言われますが、「その時点では」とわざわざ注を付けられたのは、「今ではそれは誤りと言うべきである」と言うことをあなたも認めておられると言う意味に理解してもいいのでしょうか。
私が、ある親しい司教様からお聞きした裏話によると、「あの文書はある筋が常任司教委員会に議論の材料として持ち込んだものだったが、それを取り扱った常任委員会のメンバーたちは、結論として、その文書の内容は偏っており適当でないから、破棄し、一切外に出すべきではない、との結論に達したのに」その「ある筋」に連なる人たちが、その決定に反して、あたかも公式文書のように装って、アングラで広くばら撒いたものだ」と聞いています。
私はその司教様のお人柄と、話の内容の妥当性から見て、その話のほうが本当だと思えてなりません。司教様が嘘をつくようになったら教会も終わりですよね。
その司教様は、恐らく潜在的にはネオの支持者だと思いますが、まだ積極的に動き出しては居られません。今回の聖座の承認後どうされるか注目しています。
あの文書は、その時点ですでに常任司教委員会によって否認・却下されたものだったのに、あたかも認められた文書であるかのように持ち回り、自分たちの立場の補強材料に利用してきた人たちは、その司教様の前でなんと弁明するつもりでしょうね。
(3)「過去におけるネオの活動には(異端と表現されても仕方ないような)逸脱が見られたのも事実だった」と主張されますが、本当は、もともとそんな逸脱の事実は無かったのではないでしょうか。
今でもそう言い張るのであれば、具体的事例を一つでもいいから示すべきでしょう。それができないのなら、そんな事実無根の誹謗中傷はいい加減におやめになったらいかがでしょうか。
(4)「4回ほど会則が突っ返されたようですが」と見てきたようなことを言われますが、本当に4回だけでしたでしょうか。
5年間もかかって、バチカンの多くの省があらゆる角度から検討を加えられたと「教令」にありますが、私は、その間に問題のの規約は数多くのチェックを経ているはずだと推測します。
その間の行きつ戻りつの回数は50回や60回では聞かなかったと考えるのが常識ではないでしょうか。
その冷静な実務的なチェックの過程を「突っ返され」という日本語で表現されたあたりに、がんだるふさんのネオに対するむき出しの反感を嗅ぎ取るのは私だけでしょうか。
百歩譲って4回「突っ返された」として、その過程で「ネオの(異端とは言わないまでも)逸脱性が規約から、削り取られたのではないかと推測します」とありますが、単なる推測に基づいてこんな重要な発言をするのは無責任極まりないと思いますが、公平な第三者の皆さんはなんとも思われませんか。
それにしても、この書き込みでは、かつてあからさまにネオを「異端」呼ばわりしてきた人がいたように記憶します。
聖座が承認したとたんに(異端とは言わないまでも)と括弧書きでえらく声が小さくなったものですね。
ネオはもともと異端でもなんでもなく、むしろ第二バチカン公会議のカリスマの王道を行くオーソドックスだったのではないですか。
(5)「これからネオが(公認)を受けて、どう変質するか、注視です。」と言って、公認を境にネオが変わるような口ぶりですが、それは「教令」を全く理解しない、見当違いの発言のように思われます。
なぜなら「教令」をよく読むと、最後のあたりに「この認可は、この法的規約が新求道期間の道にとって不動かつ確実な指針となり、また司牧者たちにとっては、新求道共同体を父親のように注意深く見守っていく上で、重要な拠りどころとなることを期待して与えられたものである」とあります。
つまり、ネオは認可された形にとどまるべきであり、コロコロ代わってはならないのです。認可されたとたんに変わるようでは、場合によっては認可を取り消さなければならなくなるかも知れないではないですか。
30年間の歩みとその実績こそが承認の対象となったたのであり、その線こそが正統として今後大切に守られるべきものでしょう。
新求道共同体の過去を批判し、異端と決めつけ、排除に狂奔してきた人たちのほうが誤っていたのだ、という事実をこの「教令」は決定的に判定したと言うべきではないでしょうか。
(6)聖座が発布したネオ公認の「教令」について「内容に乏しいですね。・・・もっとも、聖座の出す文書は具体的内容に乏しいのがいつものことですが」とは、ずいぶん高いところから物を言ったものですね。
聖座をこともなげにけなす貴方は、いったい何様のおつもりでしょうか。物を言うなら、もうちょっと注意して読んでからにしてもらいたいものです。
この教令の目的は初めから「ネオの会則の内容」を分からせるためのものでないことぐらい、ちっと読んで気付かないのでしょうかね。
会則(「規約」と訳されている)の内容は規約自体を読めば一目瞭然ではありませんか。
なんで、それを規約承認の「教令」の中でがんだるふさんが満足するような形で要約しなければならないのでしょうか。
常識的に考えて、おそらくその規約は数十ページにわたる長文のものだと思われます。イタリア語なら、バチカンのオフィシャルなホームページからだれでもすぐに入手できるはずですが、私は怠け者だから、1年後ぐらいにネオの人たちが訳して日本語にしてくれるまで待うと思います。


部外者 - 02/07/11 23:03:06
「ネオ派」と思しき方のカキコや、自ら中庸を自称するが如きで実は内容希薄な通行人Cらの、冷静を装うカキコで掲示板の主旨が少々、意味不明になっているようですが、部外者としては、また横レスを入れざるを得ません。
真実を曖昧にしたかたちでの融和性と無学な寛容さが何を生み出すのか、これから注視していきましょう。
冷静さを取り繕うあまり内容のない独善的傲慢に陥らないよう注意が肝心です。


がんだるふ - 02/07/11 22:20:17
聖座による公認の効力はその効果が過去に遡及(遡る)するものではありません。
つまり、公認を受けたからといっ て、今までネオの高松教区での活動(強引に自分たちの典礼を一般信徒に押しつけたこと、ネオの道を歩まない(歩めない)信徒をキリストを受け入れないものとして差別したこと等)が是とされたわけではありません。
そして、過去において、常任司牧委員だしたネオに対する注意文書はその時点で正しかったのです。
また、過去におけるネオの活動には(異端と表現されても仕方ないような)逸脱が見られたのも事実だったのです。
今回公認されるにあたり、4回ほど会則が突っ返されたようですが、その突っ返され、会則 を訂正される過程で、ネオの(異端とは言わないまでも)逸脱性が会則から、削り取られたのではないかと推測します。
これから ネオが(公認)を受けて、どう変質するか、注視です。さて、下のネオ公認の記事ですが、内容に乏しいですね。
肝心のネオの会則の 内容が全くわかりません。もっとも、聖座の出す文書は具体的内容に乏しいのがいつものことですが。


通行人C - 02/07/11 10:17:03 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
「ネオ派」と思しき方のカキコや「反ネオ派?」のヒステリックなカキコなど掲示板が少々荒れているようですね。通行人としては、また横レスを入れざるを得ません。
まず、今回の教皇庁の認可を重く受け取るべきだと思います。確かに期限限定で、教皇直々の文書ではないようですが、教皇の意向に沿ったものといえましょう。
今度の認可がネオのすべてを積極的に肯定したものではないし、まして、ネオ受け入れを強制するものでもないと思います。
ただ、教義上のことは一応けりが付いたとしなければならないと思います。
後は、信者さん一人一人の霊的利益に関してネオとどう関わっていったら良いかという司牧上の問題だと思います。
牧者や主任司祭たちがネオ一辺倒になってはいけないわけで、仮にそうなったらどうしたらよいか皆で考えて行くときが来たと思います。
なお、反ネオのあまり、超伝統派に走らないよう注意が肝心です。


オリーブ - 02/07/11 08:42:22
えっえっ?あなたはカトリック信者じゃないというのは、どの書き込みに対して??もう少し詳しく書いてくださらないと、ちょっと分かりにくいです。
もし、下の文書に対してだったら、まずいと思います。バチカンでは現在、ネオの事をそのように認識しているのでしたら、カトリックじゃないというのはちょっと・・・。
しかも洗礼の秘跡を受けた兄弟に(たぶん)カトリック信者じゃないというのは、ちょっと良くないのでは・・。気持ちはよくわかりますけど。
きっと下のコメントを入れたのはネオの方だと思いますが、挨拶も何もなしにいきなり下のような文書を入れるのはやめてくれませんか?
反対派の掲示板だと分かっているのに失礼でしょう?そういう礼儀に欠けたところが日本で受け入れにくいのです。
言い合いをしたくないからかもしれませんが、だったら書き込まなかったらいいでしょう?下の文書のことくらい、わざわざ入れなくても知っています。
ポンッと文書だけ入れられたら感じ悪いです。


- 02/07/11 02:40:06
主の平和 ごめんなさい、あなたはカトリック信者ではありません。


- 02/07/11 01:18:13
教皇庁信徒評議会教令新求道期間の道の規約に関する試行期間つき認可 新求道期間の道は、フランシスコ(キコ)アルグエリヨ氏とカルメン・ヘルナンデズ氏が、1964年マドリドのパロメラス・アルタス郊外に住む貧しい人々の願いに答えて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことから始まった。
やがてこのケリグマ(福音の告知)は、人々を兄弟的交わりと信仰の成熟に導くものとして、「神のみことば」、「典礼」、「共同体」を三つの柱とする総合的なカテケジス(キリスト教要理教育)となって結実した。
この新しいキリスト教養成の体験は、第二バチカン公会議によって始められた刷新の過程の中から生まれたが、マドリ−ドの大司教カシミロ・モルシリヨはそれに強い関心を寄せ、その導入を希望する小教区に広めるよう新求道期間の創始者たちを励ました。
こうしてこの福音宣教の体験はマドリ−ド大司教区とスペインの他の諸教区に次第に広がっていった。
1968年、新求道期間の創始者たちはローマに移り、ボルゲト・ラティノに居を定めた。
彼らは当時ローマ市の教皇総代理であったアンジェロ・デルアクア枢機卿の認可を得て『聖体の聖母とカナダ人殉教者』小教区で最初のカテケジスを行い、この日を境に新求道期間の道は全世界の諸教区と宣教地の村々にまで広まっていった。
新求道期間の道は洗礼の再発見と信仰の生涯養成の道筋を司教たちや小教区主任司祭たちに提供し、キリスト教入信に伴う恵みの豊かさを実生活の中で生きることを望む信者たちに、カテケジスと回心の道を授ける。
この過程がいかに有効であるかについて教皇は、「洗礼によって授かった驚くほど豊かなたまものと責任を十分に受け入れ、生きることを目的として、成人のキリスト教入信式のいくつかの要素を再び示すものです」(信徒の召命と使命,61項)と述べている。  
小教区の中で、さまざまな年齢と社会的身分の人たちが形成するこの小さな共同体において体験された新求道期間の道は、信者たちを次第にイエス・キリストとの一致に導き、彼らを教会における活動的な主体に変え、どこにあっても救い主の良い知らせの確かな証人となるように導くことを目的としている。
さらに、新求道期間の道は未洗者に洗礼準備を授けるキリスト教入信の一つの手段ともなっている。
この道は「新求道期間の道」と呼ばれるカテキスタの手引きの内容にしたがって実現される。
カテキスタのグループの指導書(規約第2条,第2項参照)は、教理省、聖職者省、および典礼秘蹟省によって合同認可されたものである。
教皇は、さまざまな機会にさまざまな方法を用いて、信徒の実生活における、また家族や小教区共同体における福音への絶対的服従と燃えるような宣教熱から生じた数々の実りや、司祭職や修道生活への豊かな召命を指摘しながら、「我々の社会と今日の時代において、新求道期間の道がカトリックの養成の道として価値あるものであると私は認めます」(AAS 82, 1990, 1513-1515)と強調された。
1997年1月24日、新求道期間の道の発足30周年にあたり、創始者たちと全世界から集まった責任者たちに対する謁見に際して、教皇は規約の作成を明確に求められ、「これは教会の側からの正式な法的認可に道を開く非常に重要な一歩であり、あなた方のカリスマの正真性に対してより一層の保証を与えるものとなる」と述べられた(オッセルヴァトレ・ロマ−ノ紙、1997年1月25日、第4ページ参照)。
以来、創始者たちは教皇庁信徒評議会の支援のもとに、これまでの実践を法にかなったものとし、新求道期間の道を教会組織の中に組み入れるために、規約案作成の作業を開始した。
2001年4月5日、教皇は教皇庁信徒評議会議長ジェームズ・フランシス・スタッフォ−ド枢機卿に宛てた署名入り書簡をもって、この規約作成の必要性を重ねて強調されるとともに、新求道期間の道の規約の認可の権限が信徒評議会にあることを再確認され、将来にわたってこの道を指導する任務を託された。(オッセルヴァトレ・ロマ−ノ紙2001年、4月、17−18日、第4ページ参照)。
上記の事柄を踏まえて: 数多くの地方教会において、30年以上前から新求道期間の道の実践が新しい福音宣教のためにもたらした数知れない霊的実りを認め、評価してきた枢機卿、総大司教、司教たちから多数の推薦状が教皇庁信徒評議会に寄せられたことを考慮に入れ; 教皇庁信徒評議会が、教皇庁の諸省庁の専門分野からの協力を仰ぎながら、新求道期間の創始者たちとの共同作業のもとに規約文を慎重に吟味した後; 2002年4月5日、全世界の新求道期間の道の責任者チームのメン−バ−であるフランシスコ(キコ)アルグエリヨ氏とカルメン・ヘルナンデズ氏、およびマリオ・ペッツィ神父が新求道期間の規約の認可を求めて提出した請願に答えて; 教 令 文 教皇庁信徒評議会は、教皇庁に関する教令「良い牧者」(Pastor Bonus)の第131条と、第133条第1項、第2項に基づき、今後5年間にわたり「試験的に」新求道期間の道の規約が当評議会によって適法に認可され、その写しが信徒評議会の文書庫に保管されたことを布告する。
なお、この認可は、この法的規約が新求道期間の道にとって不動かつ確実な指針となり、また司牧者たちにとっては、新求道共同体を父親のように注意深く見守っていく上で、重要な拠りどころとなることを期待して与えられるものである。
バチカンにおいて、 2002年6月29日、ローマ市の保護聖者聖ペトロと聖パウロの祭日に。 会長
                     ジェームス・フランシス・スタッフォード枢機卿 秘書スタニスラオ・リルコ [01088-01.01] [原文:イタリア語]


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