2004.1

裏? - 04/01/31 10:45:43
ろくろく働きもしないでネオ司祭の給与に取られるのはご免こうむりたいものです。 根拠の無い(あったとしても)誹謗中傷で訴訟を起こされる危険性もある発言ですな。ご用心。



何に使うのかしら? - 04/01/29 14:27:44
一般に言う「寄付」とカトリック教会の「献金」とは、ちょっと意味が違うと思うんです。
まあ、「献金」でも、高松教区のように「一人平均・これだけしろ」などと上から押しつけられることになると、やはり問題が起こって当然でしょう。
第1、なんに使うのか、さっぱり分かりませんから。ろくろく働きもしないでネオ司祭の給与に取られるのはご免こうむりたいものです。


寄付は - 04/01/29 13:18:36
そもそも寄付とかは強制されてするものではなくてしたい人が自発的にすればよく、したくない人は無視」をすればよいのです。
強制でなければ何も憤ることは無いと思いますが。 なお寄付を恫喝をもって強制された場合は、」最寄の警察に被害届を出されるといいと思います。


寄付は - 04/01/29 13:10:50
高松教区からのお金の無心をされても単に断ればいいだけだと思うのですが。


神が張りめぐらされた網 - 04/01/28 19:24:22
「日本の"世論"は既成事実の積み上げに弱い特徴をもっている」という事は確かであるが、それよりもネオはいろいろなことにおいて既成の事実"をつくる悪知恵に長けているということだ。
日本ではもともと司教がネオそのものを認めない教区だと知ると、主任司祭をたぶらかして小教区に入り込んで既成事実をつくったのを始め、空言を重ねて神学院をつくり、お金を使い込み、信徒いじめなどの悪行ざんまい。
〜時が流れて〜うまく逃れられるだろうと思っているかも知れないが、「天網恢恢、疎にして漏らさず」と言うではないか。神はこういう悪行ざんまいを決して赦される筈がない。


- 04/01/28 08:30:13
私はカトリック信者になって数年しか経っていません。なので、新年早々高松教区からのお金の無心をされたのには驚きと憤りを感じます。
一信徒では何の発言力はありませんが是非撤回してもらいたい。カトリック教会といっても世間から見れば一宗教団体にすぎません。
以前誰かの書いたプロテスタント教会と変わらないといった人がいましたが、カトリック教会でお金の無心をされたと聞けば、未信者から見れば大きな躓きになるのではないでしょうか?
今の高松教区の一連の不正を正さないでいる高松教区の司教、それを容認してるとしかとれない日本の司教団に対し、良い牧者と思えないのは私だけでしょうか? 
今回の高松教会からのお金の無心の問題は、先に一連の不正などの問題を信徒にきちんと説明し、ちゃんとした理由があれば納得出来ますが、今の高松教区に対して不信感でいっぱいです。
こんなことでキリストのよい知らせを述べ伝えることが出来るでしょうか。


通行人C - 04/01/26 09:34:03 電子メールアドレス:theotokos@mail.goo.ne.jp
茹で蛙さん>それに対抗するにはどんな小さなネオ化でも「了承はしていない」といった態度を堅持すべきであると思う>
ネオ化だけではなく、あらゆる理不尽に対して同様の態度をとるべきです。ほら、みんなで態度で示そうよ(九ちゃん風に)。


52歳の女性信徒 - 04/01/26 08:20:36
↓茹で蛙≠ウんの書き込みは説得力がありますね。なるほど,その通り・・・そう思いながら読みましたよ。


茹で蛙 - 04/01/25 18:35:45
1月25日付のカトリック新聞「展望」で、酒井氏は日本人は既成事実の積み重ねに弱いと指摘しているが、高松教区の問題にも言えることだ。
神学校が建設され、次々と修道会が教区に小教区を返還し、ネオの司祭が派遣されることに「仕方ない、司教には抵抗できない」といって諦める空気がありはしないだろうか?
しかしそれらは、単なる「既成事実」の積み重ねであり、何も教区民は了承したわけではない。
今谷口司祭は、なにやら新方式とかで、信徒から、教区に納めるお金を増やそうとしている。
「これは決定したことだ」と、既成事実化して、ごりおしするつもりであろう。が、その「新方式」を採用する意思決定においても、判断となる資料に瑕疵がなかったとはいえないと考える。
というのは、裁判の過程で明らかになった教区の事務処理のいい加減さを考慮すれば、教区の、公式の発表でも信用はできないからだ。
教区が台所事情が苦しく、もっと信徒にお金を出してもらいたいのなら、まず、裁判の過程で出てきた会計処理上の問題をどうしたのか?
また、神学校の存在が教区会計にどのような影響を与えるのか等信徒に対する説明責任を果たすべきだ。「茹で蛙」という言葉がある。
蛙は、急に熱いお湯に入れると驚いて飛び出すが、まず水に入れておき少しづつ、温度を上げていくと、いつのまにか茹で上がってしまう。
我々は「茹で蛙」にならないよう気を付けなければならない。ネオは既成事実を積み上げて、いつのまにか小教区や教区をネオ化してしまうやり方をする。
「茹で蛙」方式である。それに対抗するにはどんな小さなネオ化でも「了承はしていない」といった態度を堅持すべきであると思う


森岡 源三 - 04/01/23 18:20:33
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は第6番目のカテケージス「私は誰ですか」の中で、時間の観念について「時間というものは無意味なもので私たちを滅ぼすもの、つまり、普通の表現を使えば時間をつぶしています」
「・・・娯楽、遊び、楽しみは時間から逃げるためのものであります。死に導く時間、呪われている時間から逃げる方法です」などと話しています。  
このような偏った“生活思想”について、日本カトリック司教協議会・常任司教委員会(当時の委員長は故島本要大司教・長崎教区)は、1993年9月に出した「新求道共同体に関する文書」の中で「原理主義的な聖書解釈の上に立つ「信仰」は、聖書や教会の掟に対する厳格な遵守を求め、性やレジャー等の楽しみに対する過度な警戒心・罪意識を培い、一般社会の営みに対しては閉鎖的な姿勢を育てている」と、それらの問題点を指摘しています。  
NCの活動に参加すると、すべてNC中心の生活様式の中で依存性を強め、自主性や個々の“心の豊かさ”をも否定。ある面にとても厳格で、その実体は内向性で閉鎖的。この道以外にわき見をさせないように追い詰めていくようなやり方、その反動の現れなのでしょうか?
キコ氏をして「・・・(NCの内部では)姦通、けんか、男女の間にはそのようなことはざらです」などと言わしめることになるのです。

あしたに向かって - 04/01/20 20:43:07
お知らせ。
今の高松教区の現状は、未だ闇に包まれています。
信徒たちの足は教会から遠のき、果ては聖書とロザリオまで教会に返されてくる始末。
このたび、ホームページに昨年のアンケートの結果を掲載いたしました。
みなさま、トップページをご覧下さい。統計と、教区信徒たちの生の声を掲載しております。


匿名:非信徒 - 04/01/18 14:24:06
もし、正直に自分を見つめるなら、誰しもが「弱きもの」なのだと思います。パソコンを上手に使えるから強者、というのも恐れ入ったご見解ですが・・・。
これは技術がある、権力があるなどという即物的な意味ではないと思います。
人は自分が願う正義、人道、理想を前に、至らぬ自分を発見し、ため息をつくものです。
たとえその道を歩んでいても、心の中に悪意、攻撃性、怠惰などを有しているものであり、犯罪者と変わらぬ部分を人間として共有しているものでしょう。
そうした自分自身を謙虚に恐れることは、逆説的ですが、人間らしく生きる努力の第一歩になると思います。
親鸞聖人が「善人なおもて往生す、況や悪人をや」と述べたのも、この呼吸だと思います。親鸞聖人自身、「自分は人殺しの心を持っている」と言われたそうです。
キリスト教に限らず、こうした真摯な宗教者の自覚こそ、心からの祈りに通じ、また、“カルトの尊大な教祖、尊師”といった忌まわしい存在の対極にある心ではないでしょうか。
自分の心の弱さを認められない人間は、不必要なほど攻撃的にならざるを得ません。つまらないこと、例えば自分の怠惰まで、他人のせいにせざるを得ないからです。


- 04/01/18 10:17:01
弱きものという表現は本当の謙遜から出ているのであり、へりくだり傲慢ではない


名無しさん - 04/01/18 10:13:10
あの〜自分たちをことさら「弱いもの」とかいうのやめて貰えませんか?
パソコンもインターネットも HTML作成もHP構築も、普通の人よりきれいに出来るのですからすでに強者の側に立っているとおもうのですが。


森岡 源三 - 04/01/16 18:39:47
NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏は、現代のカトリックが「非神聖化・非キリスト化・信仰の危機」を招いた超悪玉として心理学や精神分析学をあげつらい、「心理学を勉強する生臭神父」とか「心理学に影響されて信仰の疑いが入った」などと心理学を“不倶戴天の敵”のように批判しています。
ところが、昨年12月25日付発行の「高松教区立国際宣教神学院だより」(VOL.16)を見ると、同神学院の副院長に就任したA神父は「新しい副院長の手紙」の中で次のようなことを書いています。  
「・・・私は(かつて)学生の政治活動に参加して、過激な左翼運動を行い、カトリック革新派と共に教会からも離れました。
そしてまた哲学の大学に入り、(中略)ユング学説の心理学者を通して教会へ戻り、それで新求道共同体に入りました」・・・。
このようにキコ氏の話とまるきり食い違うのは「何でだろう〜」。


命の水 - 04/01/14 20:41:44
すると 聖霊と花嫁とが 『さあ 来てください』 と言うこれを聞く者も 『さあ 来てください』 と言いなさい渇いている者は来なさい命の水が欲しい者は 自由に飲みなさい
>>>管理人様 不適切な場合はどうぞ削除お願いいたします。。


教会離れが増えている - 04/01/14 19:08:16
よく知る人はカルトだと言うネオの運動にとっぷりつかってしまった深堀司教は、恥も外聞もなく、することなすこと"ごり押し≠ホかりだ。
これじゃ布教どころの話ではなく、信徒はあいそをつかして、教会を離れている。
高知のある教会の主任司祭は、久しぶりに出た昨年末の教区報の着任の挨拶のなかで「多くの人は来なくなっただけでなく、聖書、ロザリオを教会に送られ、教会にはもう関係をしたくないと言っています」と伝えている。
他の教会も同じで、信者はどんどん減っている。ローマはいつまで放っとくつもりなんじゃろか。


- 04/01/14 13:01:43
森岡源三へ   どうぞ キコさんとカルメンさんに裁判。。。


森岡 源三 - 04/01/09 18:21:50
 NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
前回に続き、キコ氏とカルメンさんは最後の「第一段階までの共同体への訪問」のオリエンテーションの中で、「妾の愛に逃げたり」「姦通の状態に住んでいる」(キコ氏の話)などNCの共同体の中で罪を犯し、共同体のみんなの前で体験を告白した人に対して「だれもあなたを裁きません」と言いながら、そのー方で「兄弟や姉妹と話し合って」とか「遅かれ早かれ知られる」「みんなあなたのことを知っている」「…だからご聖体を預くために手を出さないように」などと共同体の中でしっかり裁いています。
「人間の良心の尊厳」(現代世界憲章・16)などについては一切説明がなく、その意味でもカテケージスの内容が上滑りで、軽薄な印象は免れず、このカテケージスのレベルの程度を物語るものだと、私はそれなりに評価しているところです。
いやしくも“カテケージス”と名がつく『教会の教え』の中で、NCの活動に参加しているうちに、家庭を破壊するような男女の関係、性に関する問題提起があまりに多いのはなぜでしょうか?
数日の泊まり込みを含めてNC共同体の独特な雰囲気をもった交わりと集い(体験した者でも言葉で言い表せないような、つまり、かつてのオウム真理教の活動の実態などから推考して、それがカルト性を帯びたものだといわれるものなのかも知れません)が非常に多く、それを内密にして外部に漏れにくい状態であることなどにも原因があるのでしょうか?…。
さらにNCの活動を内面から掘り下げて専門的な視点からの解明が待たれるところです。
こうした体質を抱え問題点が多いカテケージスを基にした「新求道期間の道の規約」をどうしてバチカン(教皇庁信徒評議会)が認可したのか、とても不思議に思うことなのです。
それも、高松教区・深堀司教の人権侵害裁判の途中(2002年6月)であったこと。
被告であった深堀司教は裁判の中で前後の見境いもなく(裁判長は信仰の問題にはタッチしないと明言しているのに)、その認可を一つの有利な証拠として取り上げ正当性を主張したこと…などなど、どう考えあぐねても“謎”は深まるばかりです。
今日本ではやり言葉の「なんでだろう?なんでだろう〜それはなんでだろう」ということになるのです。


森岡 源三 - 04/01/09 12:51:21
 NCの「入信のカテケージス」(抜粋)から…。
キコ氏とカルメンさんは最後の「第一段階までの共同体への訪問」のオリエンテーションの中で、罪と告解、ご聖体拝領のことなどについて次のように話しています。
「ご聖体は主の体です。その御体を頂く人は自分の呪いを取ることになります。
勿論私たちは懐中電灯を持って一人々々あなたには妾がいるか、あなたは姦通を犯しますか、あなたは産児制限のピルを飲んでいますか、と調べることは出来ません。(中略)。
しかし、共同体で一年経ってから、ある兄弟が具体的な罪の状態にいると分かったら、こんなことは遅かれ早かれ知られますので、あなた達カテキスタはその兄弟か姉妹と話し合って、兄弟よ、あなたはご聖体を頂くことが出来ませんと、はっきり言わなければならない。
『あなたは感謝の祭儀に与ってもいいですが、今の状態ではご聖体を頂くために手を出さないでください』『ご聖体を頂いてはいけません』  これを分かって頂きたい。
みんなあなたのしていることを知っています。
だれもあなたを裁きません。けれど私たちは共同体の中にいます。(中略)
共同体の中である人が他人の奥さんを愛欲をもって望んだりして…。
(共同体の責任者で子供が2人いる)彼が、若いかわいいお嬢さんを見つけました。
彼の生活は大へんになった。彼はみんなの前に立って、自分のその体験を語りました」(後略)・・・。
NCの活動の中でこのように頻繁に起こる男女関係の問題に対する警告なのでしょうか?
キコ氏とカルメンさんの口述を和訳した点を考慮するとして、それにしても、告解やご聖体の話を交える中で「姦通やけんかが絶えない」とか「恋に落ちた」「セックスの誘惑」などと言ってはばかることなく、なんでこれがカトリックの“カテケージス”なのでしょうか?
キコ氏とカルメンさんの話の内容の余りの愚かしさ、下品さに驚くばかりなのです。


森岡 源三 - 04/01/06 18:21:00
あけましておめでとうございす。今年もよろしく。。。


匿名:非信徒 - 04/01/04 14:54:39
私はキリスト教徒ではありませんが、ある神父様の知遇を得て、生きること、死ぬこと等、ある時は語り、ある時は語らずとも、色々と学ばせてもらったことがあり、今でも得がたい恩師のお一人として尊敬しております。
歴史上、カトリック教会が行った様々な誤り(あくまで非キリスト教徒から見てですが・・・)についての質問にも誠実に答えてくださいました。
人間が運営する組織であるから、その膨大な規模と、長い長い歴史の中には、確かに目を背けたくなるような行いもある。
しかし、そうやって、人類という種族が歴史から少しずつ学んできたように、カトリック教会も少しずつ学んできた。
その根本にはキリストの精神があり、教会の歴史は、キリスト、真の人間たることを求める凡人の歩みであり、光を求めて歩み続けた人類の歴史そのものなのだ、というようなお話で、その誠実さと、現実を見据えながら理想を失わない姿勢に私はとても感動しました。
前置きが長くなりましたが、私は、カトリックは長い歴史によって磨き続けられ、現実社会との交流の中で、いかに信仰を守るかという活動に鍛えられた宗教であると思っておりました。
新興宗教、あるいは比較的歴史の浅いイスラム教やプロテスタントの一部とは違って、狂信的な独善からは卒業し、さりとて日本の一部仏教とも違い、現実的な欲望に流されることもない、信頼に足る宗教の一つであると思っておりました。
今回、調べ物の関係で、初めてこちらのホームページと、取り上げられている問題を知りました。
私はカトリックではありませんが、私にとってカトリックは、親しい友人ではないが一目置いている人といったイメージです。
一線はあるものの、その向こうにある「宗教そのもの」への私の期待と信頼を象徴するような存在なのです。
そのカトリック内部で、しかも日本で、ある意味こうしたカルト的な事件が起こり、実際カルトにありがちな非合理的な金銭問題や、支配-被支配関係が発生しているということは、なんとも残念な気がします。
ここで問題になっている会派は、以前、上記の神父様に見せていただいた、「カルトの見分け方」とかいうビデオで取り上げられていた、危険なカルトの特徴を備えているように思われました。
何よりも、いまだに中世的な強圧が存在するようなことでは、カトリックをカトリックたらしめている「長い長い歴史」の甲斐がなくなってしまいます。
教会の中に入らずとも、教会の佇まいに心安らぐような気持ちを私から奪わないで欲しいと思いました。
黒衣の人々への信頼が奪われ、教会の建物を見るたびに、無茶な寄進で建てられたどこかの新興宗教の毒々しい建物を見るような不快な気分になる、そのようなことはやめて欲しいと思いました。
部外者が突然このようなコメントを入れてしまい失礼しました。
皆様のために、事態が解決され、一人一人の信者の皆様が、自由に、心安らかに信仰の時を楽しむことができることをお祈りしております。


あしたに向かって - 04/01/01 21:17:55
あけましておめでとうございます。
正直申しまして、今年がどのような年になるか、皆目見当がつきません。まるで砂漠をさまよっているかのようです。
でも、小さきテレジアが、「小さくて弱い人間ほど、まっすぐ前を向いて砂漠を直進しなさい。」
と教えているように、これからも迷うことなく、ひたすら主の愛を信じて、高松教区の信徒が共に愛し合える日がくるまで、がんばっていきたいと思います。
どうかよろしくお願い申し上げます。