2005.6

あしたに向かって 2005/6/27 (Mon) 12:43:51 教区司祭養成の在り方に関して
日本の教会における教区司祭養成の責任を日本の司教団が1つになって果たしていくため、1つの神学校の運営責任をもつ方法を選択し、現行の「東京カトリック神学院」と「福岡サン・スルピス大神学院」の両校を、将来に向けて合同し、全教区で1つの神学校を設立・運営する体制に移行することが承認された。
合同された神学校発足までの移行準備期間のため、両校の司教委員会が、合同で臨時に、「神学校合同準備会」を設置することも合わせて決められた。


あしたに向かって 2005/6/27 (Mon) 12:41:10
6月13日から17日までの5日間、東京・潮見の日本カトリック会館で、日本カトリック司教協議会(会長・野村純一司教)、2005年度定例司教総会が開かれ、全国16教区から、17人の司教、1人の教区管理者、宣教会・修道会からのオブザーバー4人、カトリック中央協議会事務局の責任者らの参加した。その結果が、カトリック新聞に発表された。


2005/6/27 (Mon) 08:19:21 高松の神学院は、ここ数年のうちに無くなるであろう。


愛が感じられない教区 2005/6/14 (Tue) 10:16:21
この1年余りで新求道共同体の神学院から1人が叙階したことに対し、溝部司教様にとても失望しています。
司教様はこの問題(新求道共同体)に対し、2面性を持っているとしか思えません。
ご自分の立場優先で、教区民の苦しみを真から感じ取ってないように思えます。
私がこの1年感じたことは、寄附を募る教区のイメージしかありません。まったく愛が感じられないのです。 
これから先、新求共同体の信徒に脅かされないだろうかと、今の司教様になっても不安がいっぱいです。
私が若者ではないので、なおさら感じてしまうかも知れませんが。
△真のカトリックの精神を正しく未来に受け継いでもらうためにも、新求道共同体の司祭を養成している高松の神学院を閉院にしないといけないと思います。
今の司教様にそれが望めないのであれば、設立の違法性の判断を別の所に委ねるしかないのでは。


オホーツク人 2005/6/14 (Tue) 00:45:07
おばんです。このHPのきっかけになった1件の事、横浜の方の事・・・・・・これらの事をまとめて新求道共同体について考えるための参考書みたいな冊子を編集できる方、よろしくお願いします。


横浜教区の信者 2005/6/10 (Fri) 22:18:13
個人的にもネオのことで苦しみを味わったものです。
家族となった今は互いに、いいえ私だけがこだわり表面には出てきていませんが苦しんでします。
横浜の司教様に私なりに入手したネオの資料や経験を冊子にして送りましたが、数日後に主任司祭の手を通して返されてきました。
「もう少し時間を下さい」という伝言と共に。
主任司祭は「私は関わりたくないから」と、避けられました。
2年前の堅信式に私の属する教会に司教様がいらした折に名前を名乗り、私の願いに対するお返事をくださいと申したところ「とても難しい問題です。」だけが返事ででした。
家族の中でタブーがあるのは辛いことです。小豆島の皆様の苦しみ、神様の豊かな報いがあることに私はいつも祈っています。


愛媛県人 2005/6/6 (Mon) 08:16:36
三重県人さんの二つのコメントには、非常に重みがあると思います。


三重県人 2005/6/5 (Sun) 21:55:53
特に最後の二つの部分に考えさせられました。
教区に自ら反省する自浄能力がないならば、誰かがきちんとした(公的な)手続きを踏んで、形に残るような方法で浄化しなければならない。
「今までのこと」を「出てこ」させケジメを付ける作業がなされないと、結局、誤魔化されたまま時が経ち、事情が忘れられ、神学院という既成事実だけが残って大手を振って一人歩きする。
でも、そのような作業は、それはそれは負担が重いだろうし、何よりも辛く苦しい思いをしなければならない。
しかし、その「誰か」が教区内の人であったならば、結果として、その教区には幸いにも自浄作用があった、ということになる。
その「誰か」は、その結果として教区それどころか教会から不当にも排除されるかも知れない。
しかし教えに従い、教区を正義と真実へと立ち返らせようと努力したのだから、実は「家」の完成に向けて「生きた石として用いられ」(ペテロの手紙一、2.5)たのであって、教区と教会の中に確実に生き続ける。
何が言いたいのか分からないようなことを書いてしまいました。所詮は外野からの無責任なコメントです。
苦しんでいらっしゃるのは私ではないのです。ごめんなさい。
「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。」(同2.13)
この箇所はいろいろ議論がある難しい箇所でしょう。
でも教区が従わなかった宗教法人法も、ズバリこの「人間が立てた制度」です。(自分達は法律を超越している、と考えるのはカルト集団です。)


しょうゆ豆 2005/6/2 (Thu) 16:05:51
先週のカトリック新聞に春の司祭叙階者が紹介されていました。高松の神学院からの叙階式も間もなくです。
先月出された司教教書を読んで、5月15日にこの掲示板に書き込まれたらすかさすさんが言われていたと同じような感じを私も受けました。
でも教区の容態安定と体力回復をめざすための具体的対策が明らかにされているとは全然思えない分、司教様の苦悩の深さを感じながらも期待はずれでがっかりでした。
長期にわたる教区混乱の決定的な原因は、重大な過ちを犯したまま、前司教の独断で教区信徒には怪訝で馴染めない新求道共同体の神学院「国際宣教神学院」をなかば強引に設立されたことにあると思うのです。
主の計らいで高松神学院の設立にメスが入ることになったのだとしたなら?…と私はずうーと思っています。
大聖年を目前に癌のため倒れられ2000年4月4日に亡くなられた山下神父様は、松山教会の信徒・森岡さんにある日突然電話をなさり「あなたは神学院のことでおかしい、おかしいと、よく言っているそうだけど、どんなところがおかしいと思うのですか?」と聞かれたそうです。
話を聞かれた後、神父様は「あなたのおっしゃるとおりだ」と言われ、数日後に問題の文書のコピーが森岡さんのところに送られてきたことを、森岡さんはそのころ苦渋の表情で話しておられました。
「どうして私のような一信徒にこのような重大なことを明かされたのか」と。
お若い頃ご自分の体に鞭を打ちながら祈っておられたというほど謹厳実直な神父様が上司である司教の過ちを死を前にして一信徒に明かされた。
まさに大聖年にあたって聖霊の促しがお二人の上にあったのではと思いました。
東京麹町・イグナチオ教会の信徒数の半分にも満たないような小さな教区が神学院を抱えるなんてことはどだい無謀!?
神学院としての財政面はローマの新求道共同体の本部からやメンバーからの援助、神学生の里親献金などで運営できているのかもしれませんが、過去に教区から不正なお金がたくさんつぎ込まれていることが分かりました。
今も資金を出してくれるようにと要求しているとのことです。
この神学院から叙階された司祭は、新求道共同体に所属して活動しながら高松教区の司祭だということなのです。
振り返ってみれば、一般の信者は新求道共同体などどんなものか知らないで過ごしていたところに新求道共同体は土足でづかづかと入ってきて、あれよあれよという間に活動メンバーが必要とする司祭を養成する神学院が出来てしまった。
宗教法人の資格を持つカトリック高松司教区の名義を貸すだけというのがそもそもの間違いでした。新求道共同体の司祭を養成するその神学院を出た神学生がいつの間にか叙階されて教区司祭になるなんて、どう考えてもおかしい。
「おかしいんじゃないですか?ちょっと待ってください」と、前司教にこんなことを言った為に森岡さんは屈辱的制裁をうけることになってしまい、それは人権侵害の訴訟へと進んでいきました。
名誉毀損訴訟ではありましたが3人の裁判官は人権侵害に及ぶだけの理由があったかどうかの裏づけを問うて行かれたので、それまでにおかしい?おかしい?と言っていたことが、ほんとに数々あったことが判明したのです。
「司教の裁判」誌の中に、最終の進行協議の中で裁判官が言われた言葉が記されていましたが、「話し合いの条件作りのために10年前の諸資料を出し、さまざまな問題点を明かにして来た。
これらのことが別なところに委ねられ、名誉毀損に絞ると今までのことが出てこなくなる可能性があるが、それで問題ないか」と確認を求めた。と記されています。
「今までのこと」と言うのは、宗教法人法に数々違反している事実のことだと思います。
結局、神学院設立の違法性の判断は別のところに委ねることになり、名誉毀損に絞る道を選んだということですね。
このことからして、高松教区の根幹にある問題は裁判によって明かにされていったにもかかわらず、重要な問題は解決しないまま先送りされた形に思えます。
教区管理者である司教様は代わられても過去を振り返り過去の過ちを正してからというようなお考えはないのかしら?
と、今月12日の叙階式を前にして、しょうゆ豆は怪訝な思いに駆られています。
真理に照らされた教区とは、真理に導かれて生きるとはどういうことなのでしょうか。


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