2005.9

真水 2005/9/30 (Fri) 21:26:43
ずいぶん昔ですが、身近に溝部師が先生という立場でいました。
問題を解決するために研究し、改善のために努力し、道を切り開いていく姿をまじかで見たことがあります。
時間はかかるかもしれませんが、溝部師なら、よい道を先導してくれると思うのですが。


桑 栄一 2005/9/14 (Wed) 20:53:00
ちょうど選挙を通じて国民みんなが国政に参加するのと同じように、教会では信者一人一人が自らなにが神の御心であるかを判断し、お互いの意見を述べ合うことによって教会を造り上げることに参加する責任があります。
一部の人々の不健全な意見で教会が道を誤ることがないようにするのは教導職の責任ですが、だからといって信者が教会を造り上げることに無関心であっていいわけではありません。
ただそのためには、まず信者一人一人が聖伝と聖書から謙虚に学ぶ姿勢が大切なのです。
決してレベルの問題ではなくて、神の啓示へのへりくだった信仰の姿勢が、すべての発言の前提だと言いたいのです。
コリントの信徒への手紙1に、使徒パウロのこんな言葉があります。
「あなた方は知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。・・・あなた方には些細な事件すら裁く力がないのですか。・・・まして、日常の生活に関わる事は言うまでもありません。」(6:2-3)
「・・・いつも私の神に感謝しています。あなた方はキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。・・・主も最後まであなた方をしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にして下さいます。」(1:4-8)


ミニ情報 2005/9/13 (Tue) 11:36:53
教会を壊す者とはだれか を決めるのは私たちですか?


桑 栄一 2005/9/10 (Sat) 17:38:18
9/11 の福音書の中の ”仲間を赦さない家来”の譬え話は、あくまでも個人に対する誰かの罪のことです。
それに対して、“(使徒たちから)受けた教えに従わない”(IIテサ 3:6)、“福音の真理にのっとって真っ直ぐ歩いていない”(ガラ 2:14)、つまりキリストの体を“壊す”罪については、使徒たちは厳しい態度をとりました(IIコリ 13:2,10、Iテモ 1:19-20)。 「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。
あなたがた(教会)はその神殿なのです。」(Iコリ 3:17) “教会を造り上げる”ために、“教会を壊す者”を裁いたり除き去る(Iコリ 5:13)ことは、大切なことなのですが、現実には事なかれ主義やきれい事が・・・
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(ロマ 14:8) その主のために、私たちは兄弟を赦しもするし、また裁いたり排除したりすることが必要にもなることもあるのです。
事なかれ主義やきれい事を好む人々には、それが不当な行為であるかのように見えることでしょう。
毛沢東が言った“造反有理”を口実にして、かつてニケア・コンスタンチノープルの教会会議で異端とされた主張にも正当性を認めようと言う人々も、実際に教会の中にはいるのです。
・・・しかし“兄弟を赦す”とは、現実の罪に目を閉じてしまって、「ヨセフの破滅に心を痛めることがない」(アモ 6:6)、つまりキリストの体である教会が破滅するのを心に留めないでいるということであってはならないのです。


摂子 2005/9/21 (Wed) 10:39:17
オホーツク人さまへ
くやしいよ・・・・と言うのは、何がそんなに「くやしい・・・・」のでせうか?


旅の者 2005/9/20 (Tue) 08:15:13
オホーツク人様
上の書き込みの3節目のこと。それは彼らが「道」として教えられ、教えているものだから、筋が通らないことでしょう。
無理な話というものでございます。


オホーツク人 2005/9/17 (Sat) 00:32:03
「お前はどんな立場からものをいうのか?」「あなたの書き込みは本題から話をそらせてる。」
このような書き込みの上に、私のパソコンが故障している間に書き込まれた名無し書き込みについて疑われる・・・・・・やってられない。わからない事を聞く事も許されないのか!
高松教区前教区長の「謝罪」と「和解(和睦)への協力」はあるべきものだと考えている。
新求道共同体に属する人・属した人とは新求道共同体の教えを切り離して話を交わしたい。くやしいよ・・・・・・


三重県人 2005/9/9 (Fri) 20:55:48
「ネオの人々も幸せを求めていると私は思います」とルルドさんはおっしゃいました。その通りだと私も思います。
誰もがそう思っているでしょう。ネオの人々が幸せを求める権利を、誰も否定しないでしょう。
 それが問題なのではなくて、(ルルドさんはそんなことをなさらないと思いますが、)ネオの人々が、他の人々の信仰と幸せを尊重せず壊すから、そして、信仰をこれまで長く護りつづけてきた人々のところに土足でずかずか踏み込んで混乱と苦しみをもたらすから、それはやめてくれ、と皆さんが悲鳴をあげていらっしゃるのです。
 ルルドさんの言葉をそのまま使って最後に言わせてください。ネオの人々は、他の信徒達の「全てをあるがままに受け入れて」ください。これまで他の信徒方を受け入れなかった自分達が間違っていたと、「回心と言う言葉のように明日、(ネオの人々の) 心が開く」ことを、皆が祈り待っています。


三重県人 2005/9/9 (Fri) 20:45:13
神学院の建設費の支出に不誠実なことが行われました。多くの信徒が家計のやり繰りの中から捧げた巨額の金が、不誠実、不正確な方法でネオの神学院建設に費やされましたが、どう考えますかね?? 前司教が、ネオを支持し援助するために、信徒の名誉毀損、つまり人を人とも思わない言動をとりました、これをどう思っているのでしょうかね、この 2005/9/9 (Fri) 09:02:04の名無しの人は、一言何か ?
まあネームすら無記入だから、誠実な答えは期待してません。
「わたしも疲れましたが、なつこさんがんばりましょう。」
カルトの人達は疲れません。
このセリフは、「なつこさん」に疲れてもらって、黙ったもらうことを期待しているカルトの人の、悪意を隠した善意っぽい言葉でしょう。まともな人達がうんざりして黙った時、悪人どもが跳梁跋扈を始めます。「なつこさんがんばりましょう」との言葉は、彼らなりの精一杯の皮肉と揶揄なのでしょう。こんな私で申し訳ないのですが、「なつこさん」、連中に負けずに頑張ってください。
「自分の教会は自分で守るという考え方好きです。」
困ったことに、ネオは自分達の教会を守るだけではなくて、他の人達が作り上げた教会を壊すのが趣味です。人の信仰を壊して自分達の支配下に収める、これがネオの基本路線。
ネオの人達へお願い。「自分の教会は自分で守」ってください、それは正当なこと。でも、自分達と信仰のあり方が違う人達の教会も、(大事に尊重して)守ってあげましょう。
今回はかなりアブナイ人のように思います。ネオはかなり追い詰められているように感じているのでしょうか? だからこんなに露骨にアブナイことを言うのでしょうね。今回は、この2005/9/9 (Fri) 09:02:04 のとーってもアブナイ発言に触発されて、久しぶりに推敲もせず、逆の立場からアブナイですのが、好き勝手に言わせてもらいました。どうぞ皆さん批判してください。
私の個人的な立場は、「なつこ」さんが穏当な信仰者、2005/9/9 (Fri) 09:02:04の名無しさんがカルト、です。 2005/9/9 (Fri) 14:22:56のご発言に、「なつこ」さんのお苦しみと穏当なお人柄を感じます。
(投稿の順序、間違えました。)
ひょっとして、この2005/9/9 (Fri) 09:02:04の名無しさんはオホ、、、さんですか?


三重県人 2005/9/9 (Fri) 20:41:25
名無しさん :「互いに相手を受け入れないなら、一致はありえないと思うのです。」
すごくきれいな言葉ですね、表面的には。
とっても怖い。この人が言っているのは、加害者も被害者も共に互いを受け入れなさい、互いに歩み寄りなさい、てこと。
こんなことをこの人は言っているのですね、カルトってこうなのですね。
これまで一致と平安があったところに、不和と憎しみをもたらしたのがネオだ、ということをまず認識しましょう。
不正に支出された金を享受しているのはどちらですか? ネオですね。
人権侵害を惹き起こしたのはどちらの立場に立っている人ですか? ネオの立場に立っている人ですね。
これも名無しさん :「すくなくともこちら側はキリスト者として、彼ら新求道共同体の人たち、神父さん方を受け入れないと。」
「こちら側」ってどちら側ですか?? あなたはどちら側? どちらの側か少しも分かりませんね。ひょっとするとネオの側でしょうかね??
名前すら書き入れてないあなた、どちら側ですか?? きれいそうな言葉で人を騙そうとする、特に自分の立場を明らかにせず中立っぽく振舞って、きれいそうな言葉で騙そうとする、典型的なカルトですね。すごく危ない、危ない。
「彼らを排除するというのならまた話は違うと思いますが、私は一致したいです。」
名前を明らかにしない「私」さん、どちらの側の人? もともと「彼ら」(ネオ)の一味でしょうね。もともと「一致」している、そうなんでしょうね。


なつこ 2005/9/9 (Fri) 14:22:56
新求道共同体についてよく理解している神父様方(私の知りうるかぎり)信仰の上で一致することは難しいと仰います。
私は高松教区民ではありません。長い間のうちに、さまざまな行事は一緒に仲良くやっていけるようになりました。
それには指導力のある司祭と年月が必要です。
ただ今は以前の「指導力のある、揺らがない神父様」から別の方に代わったため、混乱が生じています。
ただこのことは、実際に新求道共同体を経験していない神父様にはなかなか理解してもらえません。
でも、志を同じくする人たちと、励ましあいながら、しがみつくようにがんばってます。
月並みな言葉ですが、信仰を守り抜いて、教会も守り抜きたいです。知らない者同志でも、同じ苦しみを持ってがんばる人がいることは励みになります。


2005/9/9 (Fri) 09:02:04
互いに相手を受け入れないなら、一致はありえないと思うのです。
すくなくともこちら側はキリスト者として、彼ら新求道共同体の人たち、神父さん方を受け入れないと。
彼らを排除するというのならまた話は違うと思いますが、私は一致したいです。わたしも疲れましたが、なつこさんがんばりましょう。
自分の教会は自分で守るという考え方好きです。


ひろみ2005/9/8 (Thu) 13:17:36
↓「今はもう、皆くたくたです」か。そんなにも大変なご様子に心が痛みます。
高松教区では今「一致」「一致」と叫んでますが、しょせんは夢物語なんでせうか。


なつこ 2005/9/7 (Wed) 20:11:09
少人数でも新求道共同体があると、教会に分裂が起こります。完全な一致を望んではいけません。というより、望めません。
信仰の上では折り合えないので、あっちとこっち。
でも、行事など協力すべきことは一緒にする。彼らはどんなに少なくても、離れません。
うちの小教区の場合、そうでない信徒の方がぐらぐらすることが多いです。主任司祭が変わるたびに揺れます。
しっかりした司祭がおられたたときは、うまくやってました。一緒に巡礼旅行にも行きました。
揺らがない司教様と、しっかり抑えきれる主任司祭。後は自分の教会を守るという信徒の覚悟次第です。
私の教区の司教様は励ましてくださるのですが、今はもう、皆くたくたです。


Y子2005/9/7 (Wed) 08:12:21
異端と敵は違うんじゃあない?


2005/9/7 (Wed) 00:09:18
神を愛するならなおさら敵を受け入れろと。汝の敵を愛せと。ちがうのかなあ


およよ 2005/9/6 (Tue) 03:09:10
私は、とても異端なんて受けれ入れる事は出来ませんね。神を愛するなら尚更のことです。


ルルド 2005/9/6 (Tue) 00:00:40
ネオの人々も幸せを求めていると私は思います。
家族にネオで育った人がいる私は、全てをあるがままに受け入れて行こうと決心。それから楽になりました。
マリアさんの「猛省」という発言は、少し強すぎる気がします。同じ人間です。回心と言う言葉のように明日、心が開くかもしれません。祈りそして主を信じて待ちましょう。


オホーツク人 2005/9/6 (Tue) 00:20:30
喜びのあまり、涙を流しています。
どういう方法であれ、修道会とか信心の会が違っても「カトリック」信徒として同じミサにあずかることができるようにならなきゃ「カトリック」になれませんよね。
どうぞ、全ての和解が早く完成されますように。


桑 栄一 2005/9/5 (Mon) 18:46:41
マリアさんのおっしゃるとおりだと思います。
でも、私たちはいろんな困難に出会うことによって、自分自身の信仰を問われて成長するのです。
教会の土台であるペトロは言いました。
「あなた方の抱いている(神の国の)希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(Iペト 3:15)
その意味で、信者の多くが聖書を学ぶことを大切にしてほしいと、私は願っています。


マリア 2005/9/5 (Mon) 09:52:08
信仰という名のもとに、何でもありのネオ共同体には、猛省を希望する。私は、ネオ共同体に、信仰とは何かと問い直したい。


三重県人 2005/9/3 (Sat) 19:06:15
花嫁の友達さん、しょうゆ豆さん、ありがとうございます。
 当時の「撤回しないなら拝領禁止」は強引に過ぎると思うから、皆が拝領できることは赤の他人で外野席から野次を飛ばしている私にもうれしいことです。
 撤回しないことが本当に拝領禁止に値する罪だったならば、司祭が替わろうが、他の教会の司祭だろうが、その罪は罪のままだから、今でもどこでも拝領禁止のままのはずでしょう。しかし、新司祭や他教会の司祭が御聖体を授けている、ということは、撤回拒否は拝領禁止に値する罪ではない(つまり当時の司祭の判断は間違い)、と彼らが(そして事情を知っているはずの現司教も)考えていることに他ならないと思います。(そうでないのに授けていたりしたら、とんでもないことでしょうね。)
それはそれで良い事だと思いますが、次のようにも考えてしまいます。撤回しない者には聖体を授けない、と言われて多くの信徒が苦しみ悲しみ涙まで流したのに、気が付いたら、撤回しない者にも聖体を授ける、ということになっているのでは、随分バカにした話だ、と。
信徒は羊に喩えられますが、動物ではない、人格を具えた一個の存在。司教司祭は、黙って群れを右や左に操るのではなく、対話し説明する必要があることは言うまでもありません。特にこの御聖体の一件は、教会の根幹そのものに関わりますから、なおさら説明が必要だと思います。だから、黙ったまま禁止を許可に(いわば右を左に)するのではなく、せめて説明と遺憾の意の表明ぐらいはすべきだと思います。(すでになされているならば余計な発言でした。また、このことは、しょうゆ豆さんが「名誉の回復」とおっしゃっていることにも関わると思います。)
 司教が替わったから、司祭が替わったから、ということで、極めて重要な判断が、何の説明もなく180度ひっくり返るようなことがあったのでは、司牧の側の連続性や整合性が無くなってしまいます。それは信用と信頼を失わせることにもつながりかねません。
 また、御聖体に関する重要な判断をいい加減なままうやむやにすることがあるならば、それは御聖体自体を軽んじていることにならないか、とも考えます。(勿論それは信徒達の責任ではなく、聖職者達の責任。)
ついでに別のこと。
 神学院は教区立か否か、という話もありました。
 8/14にしまざきさんは、「溝部司教様が神学院への援助を一切停止している」と書いていますが、援助の義務について述べている教会法can.263を考えると、このことは、現司教が、神学院は教区立でない、と判断し決定していることに他ならないと思います。(このように考えて間違っているならば、どなたか教えてください。)


しょうゆ豆 2005/9/8 (Thu) 11:19:19
スクロールが不足だったのでしょうか、三重県人様のコメント、目をすっていました。
遅ればせですみませんが私こそ、私の読み込み不十分で失礼いたしました。
それにしても、いつもいつも応援してくださいましてほんとにありがとうございます。私の思いを代弁してくださってるコメントもあり感謝いたしております。


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