高松教区の全信徒にあてた司教の書簡

この書簡は、カトリック高松教区司教が高松教区の全信徒にあてたものです。
司祭がミサの後読む、掲示する、コピーして配布するなどの方法で、1月14日(日)から1か月の間にその内容が小教区の信徒に伝わるようにと、司教が高松教区の各教会の司祭に通達しました。
2001年1月9日
信徒の皆さまへ
 主の御降誕と初春のお慶びを申し上げます。
 恵み多い大聖年が終わり、21世紀の幕開けを迎えました。大聖年は本来、赦し和解と平和の年であるはずでした。
 然しながら、高松教区においては、一部の扇動者とその同調者達のために、多くの善良な信徒らの心の平和は乱され、亀裂と対立がことさら造り出され、キリストの体である教会の名誉と信用は傷つけられ、一般社会に対しても多大な迷惑を及ぼしました。
 その顕著な事例としては、NHKの放送妨害があります。高松教区の一部の信徒は、NHKが神学校を取材して作成したドキュメンタリー番組の放送を妨害するために、様々な示威行為を行い、「もし放送を行うならNHKを訴える」などの恫喝すら行いました。元来、公共放送としてNHKは外部の圧力に屈して放送を左右されるものではありませんが、二名の信者が宗教法人の代表者である私を相手取って「高松教区立国際宣教神学院」の仮校舎建設差し止めを求める調停の申し立てを行うに至って、公共機関の内規に従って一時放送を見合わせざるを得ない状況に追い込まれたのであります。
 幸い、調停申立が事実上却下されたことによって、番組放送の法律的障害は取り除かれました。また、神学校建物の建設も順調にはかどり、完成間近であります。この機会に、NHKの担当プロデューサーから番組をあらためて放送できる環境が教会内部に整っているかどうかについて問い合わせがありました。
 本来、カトリック教会固有の問題は教会の内部で解決すべきものであります。従って、一部の信徒が安易にそれを公共の機関に持ち込むという姿勢は、信仰的に見て明らかに誤っていると言わざるを得ません。私は、教会の中の問題を理由に放送機関に対する報道妨害になるような干渉を一切慎むよう信徒の皆さまに忠告いたします。
 この明白な忠告にもかかわらず、公的公共機関であるNHKに対して言葉や文書などによる干渉や妨害行為を行う信徒がいた場合、教会のメンバーとして信仰の交わりに留まりたいと願う信徒は、そのような反教会的・反社会的行動に同調せず、司教と一致して教会の側に残るよう勧告します。
 教皇様は、このミレニウムの聖年に教会が和解と一致と平和の秘蹟としての姿を世に示すことを願っておられます。四国のカトリック教会がそのような姿を事実によって示すかどうか、社会は注視しています。今こそ私たちは自分の信仰を証する時です。
 私は、新しい世紀に向かって、もしNHKがその番組を世に問おうとする場合には、教会としてその放送を全面的にサポートしたいと思います。教会のその姿勢に対して異論のある方はNHKでなく司教である私に申し出てください。
カトリック高松司教   ヨセフ 深堀 敏       

この文章をお読みになって、皆さんはどう感じられましたか? 司教は、しっかりと教区の信徒のことを考えていると思われますか?
NHKのこの番組は、故郷を遠く離れて自分の使命のために日本で勉強を続ける一人の青年神学生を美しく描いているそうです。
実際の内容は、「高松教区立国際宣教神学院」を美化しているものです。
ふだん行っていないような奉仕活動の場面がでてきたり、新求道共同体としての活動はまったく見えず、カトリック一般の姿として紹介しているようです。
「高松教区には、問題は何もない」という証として使われることと思われます。
大聖年世界青年の日のミサで、教皇様は、「この地球が、すべての人々にとって住みよい世界となるように努力してください」と呼びかけられました。
教皇様は、1990年に「新求道共同体に属するすべての人々に使徒的祝福を送ります」と述べておられます。
しかし、現在の高松教区の信徒たちの苦しみをお知りになっても、まだ同じ祝福を与えられるのでしょうか。
皆さまどうかご意見をお聞かせください。

この書簡の内容と事実との相違点
司教の信徒あての書簡に記載されている内容 事 実
一部の扇動者とその同調者達高松教区では、多くの教会の信徒代表者が個人名で嘆願書を司教に提出しており、多くの信徒たちは、この問題に対して司教がしかるべき対応をとられることを望んでます。
「もし放送を行うならNHKを訴える」などの恫喝すら行いました新求道共同体の活動にともなって社会的な問題が発生した場合、NHKは報道後の影響についての責任を問われる可能性があるだろうという視聴者としての意見を述べたものです。
調停申立が事実上却下された却下されたのではなく、調停は不調であるということです。
一部の信徒が安易にそれを公共の機関に持ち込むという姿勢は、信仰的に見て明らかに誤っている私たちは、カトリック信徒として正義にもとづいて行動しているのであり、信仰的に誤っているとは思っていません。