未明から世界を包んでいた朝霧の中からでも、天に奇怪な輝きを灯す星は確認できるようになっていた。

 カミュは、南の空に広がる蒼を見上げて視線を鋭くする。赤茶げた星に警戒心を示すと共に、侵食を許した空の蒼にもその想いの矛先を向けていた。

 ガサッ

 静かな朝の靄の裂く音。天空と同様に、果てなく広がる海から彼の元へ流れてくるそれ。

「起きたか?」

 空を駆けるカミュの視線は、布製の小さなテントから顔を出した公女へと向けられる。

「けほけほ……はい」

 レティシアは、目を擦って、視界が悪いことを知るとカミュの姿を探すのを諦めて、声のみで彼を探す。

「堰は止まらないか?」

「……ごめんなさい」

 半袖に皮製の蒼い半ズボンといった格好のカミュに対し、公女はドレスの上から暖かい毛布を羽織った姿で、立ちあがり背伸びをする。

「赤道直下とは言え、夜間は随分冷える」

「カミュは、とても丈夫なんですね……」

「俺はシベリアで育った。むしろ昼間の暑さの方が堪える」

「あの……カミュは、とても物知りです。ですから、また聞いちゃいます。数日前からリリスの様子が変です。わたくし、生まれてはじめてあのような月を見ます」

 長く言葉を綴るのが辛いのか、几帳面に言葉を区切って無駄のないように公女は尋ねる。その声はやや掠れており、彼女の体調が不調であるという様を物語っていた。

「……俺にも分かりはしない。教会に帰ってみれば何か掴めるかもしれないが、お前を城まで送るのが先だろ?」

「あの、……ごめんなさい」

 レティシアは、カミュの応えにしゅんとして押し黙る。

「俺の勝手でしている事だ。気にしなくていい」

「けほけほ……ぅ」

 見を震わせるて堰でカミュの言葉に応えるレティシア。ふいに、彼女の体を温もりが包む。カミュが使っていた漆黒のマントがレティシアを毛布ごと包んだのだ。

「どちらにせよ、明日の夕方にはアースラムに着く。国に帰れば、掛かり付けの医者もいるのだろ?」

「はい……ですけど、カミュはとても医学に精通していらっしゃいます。本当に、お医者様みたいですわ」

 暖をくれたことへの感謝の言葉だった。実際、風邪を引いて薬草を摘んできてくれたのはカミュであったし、足を挫いた時に治療をしてくれたのもこの暗殺を家業としていたはずの少年だったのだ。

「人を殺すには、生かす方法も知らなければならない」

 そんな公女の思考を見透かしたように、カミュは彼女の耳元で静かな言葉を綴る。

「あなたをあの光の中で見透かしたつもりでしたのに」

「……」

「見透かされているのは、わたくしなのでしょうか」

 フィリアード公国の首都から西に30キロほど離れた海岸であった。次第に日差しは強まり、赤茶げた月の支配は弱まってくる。



 ――――心地よい潮風が吹いていた。







 フィリアード公国は、真冬の時期をもってしても酷寒という言葉とは縁のない土地柄である。赤道に面し、無風地帯に属するそこでは、年中温暖な気候が約束されている。

 その地方一帯を取りまとめる公国の主城アースラム。石造りの強靭な外壁に守られたファルシア大陸第二の城である。

 無骨な外見とは裏腹に驚くほど優美な内装を持つその城。 。

「……オカルトと言えば、エルム老を思い出すのだけど」

 数日前に姫を花嫁行列共々失った、との報告を受けたアースラム城は、その消息を確かめる間も無く、むしろそれ以上の戦慄をもたらせた夜空の月に翻弄されていた。  天で憂う赤茶げた月は、白銀の輝きを失っており、その不気味な色は益々をもって増長をしているようでもあったのだ。

 あの日、生き延びた人々にとっては忘れない月である。そして、その想いがあるからこそ、公国内すべてを巻き込む混乱へとつながっていた。――再び悪魔達が、この地を訪問するのだと。

 玉座でため息をつく公主は、数名の騎士を会話に交えて、図書館の主の名を思い出して言葉にしていた。

「実際、フィリアードの死債っていうのは、本当に悪魔達によって引き起こされたものなのでしょうか? 俺達には信じきれないものがあります」

「卿を含み、この場にはあの日に子供だった者も多数いるようです。言わずとも、ピエロのような姿をした人外の姿というものは忘れられるものではありません」

 白い鎧を纏った若い騎士は、引き詰められた絨毯の上で足を揃えると、神妙に次の言葉を選ぶ。

「姫様を捜索に行った部隊まで早急に引き戻した、というのは公主陛下の聡明なご判断ということでしょうが……」

「正直、17年前とは状況があまりにも違います。我々は正面にファルシアという敵国を持っているのです。あの日と同様、壊滅的な打撃を受けることがあれば、間接的にフィリアードは滅びます」

 カタリーナは、玉座に耳を置いているもの全てに語り掛けるように言葉を並べる。逐一口元を引き締めて、厳しい口調で。

「王城の壁は強固になり、当時のように警護は留守番の新兵ばかりという状況でもないのですから……」

 窘めるように高官の一人が言うが、すぐにカタリーナはその言葉を絶つ。

「事後の処理段階で、悪魔には鉄製の武器がまるで効かなかったという報告があります。そうであるのなら、現状、対ファルシアを想定した武器での対抗は不可能になります」

 カタリーナは、コホンと堰をして静まり返った玉座を見渡す。

「むざむざと死債の二の舞を迎えるのであれば、あえて私は、先人の遺産を使おうと思います」

「……遺産?」

「大陸北西部の巨兵の墓には天使達がいました。そして、この大陸にはもう一つの遺跡が存在します。我が公国の最東部、ローレコットの丘、15年前から探索を続けていくつかの成果があがっています。もし、再びあの者達がこの地を訪れる事があるのならば……それを使います」

 雲のない、鮮明な夜空に公主の決意が流れた。







「レティシア……?」

 夕方になると、早朝から海を駆けていた風の音が強くなってきていた。

 黒髪の少年は、フィリアード公国の首都になるフィリアードの街を望む高台の上で風に見を泳がせている少女の名を呼ぶ。

 月が夜空に映る時間。昼間でもその赤黒い輝きを放っていた月は、よりその光を強め地上を、それを見上げる人を照らしていた。

 クリーム色の髪を紅く染めて、無言で月を見上げていた少女。レティシアは、カミュの言葉を受け流して瞳を紅くする。

「おい……」

 先日から空を汚す、紅き月と同じような、ざわざわ感があった。風の音だけに支配された静寂の空間の中で、異様な威圧感を感じ取ったカミュは目を細めてレティシアの傍に足を進める。

「……カミュ?」

 レティシアは、カミュに気づくと同時にその服の袖を強く握り締めていた。

「どうした? 魅入られていたように見えた」

 リリスは、人の魂を魅了するような輝きではない。そうであるのだが、少女の呆然とした表情がカミュにそういう見解を持たせた。

「”わたくし”が……でしょうか?」

「……?」

 レティシアの虚ろな言葉にカミュは疑問符を付けるしかなかった。数日間、同行していた少女なのだ。その口元に普段の利発さがない様を見つけることができて、袖を強く握っているその手を掴み返す。

「……違うというのか? レティシア」

 手を合わせて視線を交わした時に、カミュは彼女の瞳が赤く染まっている様を見た――。その色は幾分かリリスのそれと違うものの、レティシアの蒼く澄んだそれではない。

「……カミュ……離れてください」

「なに?」

「魔性の存在は、月の明かりの下でその姿を現すと言います」

 美しい微笑みに携えられた言葉だった。物怖じの無いはっきりとしたそれは、カミュの持つレティシアの印象ではない。

 カミュは、本能的に強い威圧感を覚え、公女から数歩離れ彼女の存在をもう一度その視界に捉える。



 ――――公女の纏っている白いフードは、丘を駆ける風に靡いて地上に舞い降りた紅い光の中で泳いでいた。



















第13話「もう一人のレティシア」



















 濃紅の光屑。

 少年の視界に散りばめられた光の球。

 彼の顔は秀麗であったが、その光に照らされたそれは、苦痛に歪んでいた。

「ちっ」

 蒼き剣は得体の知らない質量を受けて、その主の少年は舌打ちをする。

「……良かったわね。ブルーは、あなたに力を貸してくれている」

 こうして刃を交えて、数分が経とうとしていたが、既にこの先の決着は見えていた。

 故に、紅い目の少女は口元に笑みを漏らして、攻撃を受け流しつつ逃げまわることしか出来ない少年にそう告げる。相手の武器の心配までするほど、彼女は傲慢ではないはずだった。

「一度、お前の前に跪いたブルーが、俺と戦ってくれている。お前は……レティシアではないのか?」

「あまりにも月並みで申し訳ないのだけど。カミュが思っている通りなのではないかしら?」

 冷淡な微笑を携えている少女が、右手に持っているのは巨大な鎌だった。それは彼女の瞳と同じように紅い輝きを灯している。

「……精神分裂の気でもあるというか」

「どうなのかしらね?」

 リリスに呼応したかのようなレティシアは、はっきりと憎悪と分かる感情を込めて、光の鎌を振り下ろす。

「……くだらないな」

 カミュは、ブルーと呼ばれた蒼い剣でそれを受け止めると、レティシアの無防備な胴を蹴り飛ばしたい衝動に襲われつつも、とっさに後退する。それは、この戦いが始まった時から繰り返している事である。

「まったく。でも、それはこの小競り合いも一緒ね」

 レティシアは、わざと一撃を放った後に隙を作り、カミュを誘っていた。逐一その隙を見つけては、頭を横にふって目を閉じるカミュ。そうやって自制を繰り返すしかなかった。レティシアがレティシアでない以上、いやそれ以前に彼女に刃を向ける理由などはなかったのだ。

「あなたは知らないのかもしれないけど。存在そのものが似ているのよ。リリスに悪魔、わたしにあなた」

「……?」

 肩口に大きな傷を負っていたカミュは、レティシアが鎌を地につけて、攻撃の手を休めた時にその痛みに気づいた。次いで、知らぬ間に受けたその傷が起因となってレティシアは攻撃を止めた事に気づく。

「レティシアが酷くあなたの事を嫌っているの。だから、二度とあんな口を叩けないようにしなければ……ね?」

「あんな口?」

「あの子は、一生忘れないわ。あなたにお人形呼ばわりされた事」

 戦いの決着をみたレティシアは、くすっと笑って、苦痛の色が浮かぶカミュにそう告げる。彼の苦悶の表情は、レティシアが内心を表に出したことによるものなのか、肩の傷の痛みによるものなのかは判別できるものではなかった。が、それすらも見透かしたように紅い目の彼女は言葉を続ける。

「……ブルーの光も弱くなってきている。堪えたかしら? レティシアは、嫌い人でも好きになろうと努力する娘なのにね」

 実際、少年の手にある剣は、その輝きを弱めていた。蒼い光が、人の希望の拠所となることで、その強さを増すという事を知っているレティシアは首を傾げる。一度取りこんだ想いであって、自らも同じ蒼を作る事ができた公女なのだ。

「アンチ・レティシア。あなたは、そう言った存在に消されるの」

 彼女が手に取っている鋭い鎌も、そうして創造する事ができたものだった。が、想いの形、と呼べる物を具現化する事は、人の手においては不可能である。

「アンチ・レティシア? レティシアを否定するというのか」

 故にカミュは、彼女の存在そのものが幻ではないかと思い、アンチという言葉を奏でる。

「レティシアは私。私は私を否定する歯止めにして、レティシアの負の結晶。リリスがなければ、決して表に出てくることは無かった感情」

「……やはり、リリスが起因となっているのか」

「……あなたは自分を知らないのね。私とあなた、とても良く似ているのに」

「……」

「あなたは、ブルーを否定している。希望というモノを否定している、だから永久に自分の存在すらも分からないのかもしれない」

 レティシアは、うっすらと笑みを浮かべると、砂地に膝をついているカミュを見下しながら言う。

「……アンチ・レティシア、ブルーとはなんだ? 」

 肩口から滴る自らの流動を感じながら、カミュはレティシアに尋ねる。

「レティシアが希望だと言ったはずだわ。魂は海より生まれ空に還るのだと。だから、蒼という色は特別なの」

 肩を竦める公女は、苦悶の表情に影を潜ませた微笑を贈る。カミュは、視線を逸らす事で抵抗すると、小さく付け加える。

「漠然としすぎている」

「いいえ、あなたの蒼は鮮明だわ。ただ、あなたがそれを直視しようとしないだけ。ほら、今のあなたのように」

 視線を逸らした少年の様を見て、レティシアはあからさまに蔑視の言葉を奏でる。

「……」

「話す事はもう無いかしら? 私はこの後、義母にも仕返しに行かなくてはならないの」

 言葉を失って、蒼い剣すらも地に落としたカミュの姿は、レティシアに深い脱力を感じさせた。彼女は、ゆっくりと右手にある鎌を振り上げる。

「私に跪いて、靴にキスをするなら、命だけは助けてあげても良いわ」

 レティシアは、決してカミュがそうしない事を確信していた。だから、柔らかな唇に包まれたその言葉も、かみ殺した笑いに携えられたものであった。ただ、彼を侮辱しただけなのである。それが、お人形と呼ばわりし、ディーテや従者達の死を配慮しなかった少年への仕返しだったのだ。

「……」

 その刹那、レティシアの紅い瞳が見開かれる。好奇の色を伴ったそれは、予想に反してカミュが、顔を自らの皮製の靴に寄せてきたことによるものであった。

「……生きる為にそういうエゴを見せるのは、嫌いじゃないわ」

 赤い瞳に趣旨の違う笑みが浮かぶ。屈服させた、という支配感は一時であってもレティシアを心底満足させるものであった。

「……馬鹿め」

 彼女の勝ち誇った顔を確かめる間もなく、カミュは差し出された靴を片手で掴み上げる。

 バサッ

 その動きはレティシアが、足を引こうとする事さえも許さなかった。足を抱え上げられて、頭から砂浜に倒れこむレティシア。

「所詮はお姫様か」

 懐からナイフを取り出すと、倒れこんでいるレティシアの首元に当てて、カミュは言う。

「殺せはしないでしょ。あなたには6回ほど、私に致命傷を与えるチャンスをあげたのだもの」

 彼女が言っているのは、先ほどの競り合いの話であり、それは少年も十分理解できる話であった。わざと誘われている、と言う点はとうに理解できていたのだ。

「レティシアを返してもらう」

 そして、意味を見出せない戦いは、彼の望むところではなかった。だから、そんな言葉が口から出ていた。月の光を背中に受け、カミュの表情はより鋭いものになっている、目の前に組み敷いているのは、ただのお姫様でない事は明らかであるからだ。訓練された自分と同等の動きができて、躊躇いも無く人を傷つけることができた少女なのである。

「私がレティシア。あなたが望む彼女ではなくてもね」

「……お前を殺せば……レティシアは戻ってくるのか」

「私の死はあの子の死だわ」

「……お前だけ否定する方法もあるはずだ」

「それは不可能、人の心は表と裏を持っているのだもの」

「……死ね」



 ――――柔らかい感触が唇を伝った



















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