
レファンス=フィールド=ファルシアは、天空を望む王宮の一室、薄暗いそこのベットに蹲っていた。これが、腕を切断した時から彼の日課となった行為であり、彼の臣下達を悩ませる要因であった。
「……薬を投与する?」
玉座にて、ティア=エレナ=ファルシアは、眼下に広がる地上を自らの軍営が埋め尽くそうとしている様を見下ろしながら、背後から掛かった声に応える。
「容易に痛みが消えないようですので、麻酔の一種でありますが、薬の処方を許可していただきたく」
黒いフードを被った、初老の薬師は、淡々と王女に言葉を続ける。
「……それは、麻薬と言う事でしょう?」
「習慣性は非常に弱いものです」
「いけません」
深いため息に携えられたエレナの言葉。地上を埋め尽くす、大軍隊に号令を掛ける彼女にも、部屋に閉じこもった一人の少年の心を開かせる術は無かったのだ。
「王子自身が望まれた事です」
「……!? それはどういう……」
エレナは、薬師の言葉に怪訝な表情を返すと、踵を返して尋ねる。
「……薬をやれば、少しは変われると、そう思われたのかもしれませんな」
その薬師の言葉を半分まで聞くと、エレナは首を横に振って玉座を後にする。
「…………あのバカ王子」
舌打ちして、虚空に投げられたエレナの言葉だった。強い嘲りの念が込められたそれは、誰の耳にも入る事は無く――。
――――大陸に再び戦乱を起こそうとしている王女は、王子の部屋の戸を叩く事は無かった。
潮の香りを感じている自分が居た。それを運ぶ風は、故郷のものである事が分かる。心地よく髪をもてあそぶそれ――。
フィリアード公国の王女は、浜辺に横たえた体に寝返りを打たせる。今日の朝は、父を起こしに行くのをやめる事にした。いつもなら、目覚め良く起きれるのが朝なのだが、今日は違う。もやもやとした記憶が脳裏を曇らせていて、体もどこかだるさを含んでいた。
「……」
レティシアは、小さく息を吐くと、曖昧で把握しきれない時間の経過に不安を覚えた。今日は寝過ごして良い日だったかと考える――。
しかし、自らの記憶に連続性が無い事に気づき、まだ眠りの園に居る彼女の意識は無理やり覚醒させられる。
「……わたくしは」
胸に篭る不安が、彼女に目を擦らせ、今自分がどこにいるのか、まずそれを確認させる。
「……月」
彼女の視界は蒼で覆われていた。果てしなく広がる海と空、水平線においては、その境界すらも判別する事が難しい、純粋な蒼。無意識の領域で感じた通り、ここは故郷のフィリアードであると彼女は理解できた。
しかし、天空にはあるはずの無い異物が浮き上がり、ブルーの純粋さを失わせていた。
「っ!? かみゅぅ?」
口の中に、幾分か砂を交えていたレティシアだが、むせ返る前にまず言葉が出た。最後に自らが奏でた言葉――。
それが、カミュへの警告だったと思い出せたからだ。が、彼女の側に少年の姿は無かった。
周囲は海岸で、海辺の風景は彼女の知っているモノであった。アースラム城からそう遠くは無いフィリアードの海岸線である。砂丘ばかりで、視界はおおむね良好なのであるが、所々に大きな岩が聳えていて、それが公女の視界を遮っていた。
彼女は立ちあがり、岩の影を確認するように、足早に歩き回る。
「あ……」
皮製の靴を脱ぎ捨てて、裸足で海岸を駆けた王女は、赤い血痕が付着している岩を見つけて、立ちすくんでしまう――。カミュの血、であろうと予想できた。が、自分が無傷である事の理由を思い浮かべる事が出来なかった。
「……カミュ」
岩に凭れ掛かっている少年を見つけたレティシアは、その表情を凍りつかせる。
「……気づいたか」
肩口を真っ赤に染めている少年は、荒い息をため息に交えて吐くと、視線を地面に落としたままに応える。
「……どうしてっ!? 何が……何があったのですか?」
「覚えていないのか?」
「わたくし……赤い月を見ていたら、とても気分が悪くなりました……それから……」
血の匂いを感じた王女は、意に反して両足をがくがくと震わせる――。それは、外部から与えられた恐怖によって齎されたものではなかった。彼女自信の何かが、自らに恐怖感を与えていたのだ。
「……アンチ・レティシア」
「え?」
「……あいつはそう名乗った」
「アンチ・レティシア……わたくしを……否定する?」
レティシアは、両手で口元を隠すと、カミュの言葉を聞いて顔の色を青く染める。
「傷……大丈夫なのですか?」
レティシアは、はっとして、カミュの側に座り服を赤く染めている要因、傷に目をあてる。
「触るな」
「わたくしが……あなたを傷つけてしまったのですね……」
レティシアは、差し伸べた手をカミュに掴み上げられると、悲しそうに俯く――。彼女の直感に順じた言葉だった。
「覚えていないのなら、お前のせいじゃない。お前を殺さなかった俺の責任だ」
レティシアの視線から目をそむけるカミュの表情には、悪い色の汗が浮かんでいる。それを見たレティシアは、被っていたフードを破りそれを吹きとってみせる。
「……アースラムにおいでください」
少年は動けない程の深い傷を追っているのだと、その時にレティシアは知った。
「なに?」
「わたくしのお家です。ご招待……いえ、どうか傷が癒えるまで、ご滞在ください」
潮風からカミュを守るように、マントを広げたレティシアは、丁寧に頭を下げて陳謝の意ともとれる言葉を奏でる。
――――月の光が空を赤く染めていた
第16話「戦の前の夜」
海から人の街へと吹きこむ風は、月が天空を赤く染めるといった事態にあっても、永劫に続く歌を奏でつづけていた。
大陸最南端、赤道に面するフィリアード公国。海と空のブルーに守られた、年若い国は、天で笑う異様な輝きを放つ月を見上げ、その心を震わせている。その天空は闇に支配される時刻となって、世界そのものを月の違和感が支配するようになっていた。
「良い身分ですね、レティシア。嫁入りに行った娘が、男を連れて帰ってくるなんて」
この日の夕刻、アースラム城の城門前を巡回していた兵卒によって、公女は保護されていた。今、玉座で薄笑いを浮かべて、その公女に嫌味のこもった口調を浴びせているのは、カタリーナ=フィリアードである。
「申し訳ありません、公主様」
城門から真っすぐに進んだ、城のほぼ中央に位置する広い玉座において、裁判に掛けられた被告人のように直立して、声までも硬直させているかのようであるレティシア=フィリアードは、そう言って頭を下げる。
「謝る前に事情を言うべきではなくて? レティシア」
玉座に深く腰をかけて、頬杖をつきながらレティシアを見下しているこの国の公主は、娘の生還を聞いて駆け付けたフィードの姿を視界の中に確認すると、多少声を和らげて問う。
「……事情」
故郷に生きて戻っても、そこに冷たい空気がある事に、レティシアは軽い絶望感を覚える。怖い思いをして、従者や友達の死と直面して、彼女はここにいるのだ。優しい言葉を公女は必要としていた。が、それは暗殺者の少年の口からも公主の口から聞くことはできなかった。
「あなたがファルシアの貴族に嫁げば、戦争をする必要はなくなると、教えたはずですね。それを快く思わない者達が、あなたを襲った、というのは想像できます」
「公主様……どうして、わたくし達が襲われたという事をご存知なのですか?」
レティシアは、自分の後ろに父のぬくもりを感じて、胸を撫で下ろす。故郷で会いたい人に会えたから、悲しみに覆われて上手く動かす事ができなかった唇も、きちんと言葉を発してくれた。
「どういう質問をしているの?」
カタリーナは、まるで自分がそう仕向けたかのように聞こえるレティシアの質問に、怪訝な顔をする。今回の縁談に、後ろめたい気持ちが潜在していたから、カタリーナはそういう風にレティシアを言葉を感じたのかもしれない。
「言葉の示すままですわ。公主様」
従順にレティシアは応える。口答えは、余計に公主の機嫌を損ねるだけだと知っていたからだ。
「あなたを送った馬車と、従者達の遺体は発見しました。誰一人五体満足の状態ではなかったのだけど、あなたはそこに居なかった。レティシアを狙ったとしか考えられない刺客が、レティシアを生きて帰すなど可笑しい事ですものね?」
赤く染まった月のせいで、緊張が張りつめている公国の玉座に、人の目は少なかった。カタリーナ、その側に控える年老いた侍女が二人と、レティシア、フィードの5人だけなのである。
「カミュが……あの、わたくしと一緒に来てくださった方が、助けてくださったんです」
「笑わせないで、荒野の真中で通りすがりの王子様が襲われている姫を助けたというの?」
カタリーナは、公女の言葉を一蹴すると、厳しい言葉を続ける。国境付近の渓谷地帯で、滅多に人が近づく場所でない事から、カタリーナは、その言葉を選んだ。
「わたくしにもどうしてなのかは、分かりません……でもっ」
俯いたレティシアは、カミュの存在を怪しむカタリーナの言葉に恐怖を覚え、精一杯の勇気と想いを込めて、言葉を奏でる。怪我をしているカミュを追い出させるような事だけは、避けなければと思ったから。
「ふぅ……あなたを責めても、何の解決にもならないものね。いいわレティシア、もう休みなさい」
レティシアの気迫などに動じるカタリーナではない。その後ろで、娘を案じているフィードの姿が、公主に半ば投げやりな言葉を告げる要因となった――。
ぐずぐずっ
フィードの部屋から漏れる泣き声。押し殺したようなそれは、父の胸にしがみ付いているレティシアのものである。
「……許してくれ、お前を守れなかった」
「ぅ……えぐえぐっ」
フィードは自室のベットに腰掛けて、しがみ付いてくる娘の美しい頭を撫でると、耳元に優しく語り掛ける。
「……レティシア?」
「もうお側を離れませんから」
家に帰ってきたという感覚は、父のぬくもりを感じたときにレティシアのものとなった。いつものように甘えるつもりで、その胸に飛び込んだのだが、それからは涙が止まらず、今に至っている。
フィードは、床に両膝をついてしがみ付いてくる娘を抱き上げると、その涙を拭ってやる。目を真っ赤にして、必死に泣き声を殺しているレティシア。まず父親以外の人間の前では見せる事がない姿だった。
「フィアナが望むなら、ずっと一緒に居てやる」
――目を細めて娘を抱擁したフィードが、ふいに口にした言葉。
「……え?」
ここで自分と違う名が呼ばれる筈はないと思っていた。が、何度か父が無意識に口にするその名前――。それに胸を締め付けられるような気がしたレティシアは、涙で濡れる瞼を見開いて、父を見つめる。
「どうした?」
「また……フィアナとおっしゃいました」
それは、義母という立場のカタリーナが、最も忌み嫌う名であるはずだ。どうして自分の涙を拭ってくれた父がその名を出すのか、レティシアの胸は小さな不安に支配される。
「フィアナ……?」
フィードにとって、記憶の片鱗にさえもない言葉だった。そしてたった今、自分がその名を口にしたと言われても、それも無意識の部分で行われた行為としか彼には説明のしようがないと言える。
「……いいです」
父を苦しめるだけだとレティシアは理解した。終わりの3日間以前の記憶は彼にないという事を公女は知っている。だから、再び胸に頬を沈めて目を閉じる事にした。
『……レティシアと違うレティシアを俺は知っている?』
すでに窓の外は暗くなり、夜空には星々が昇りきっている時刻になっていた。この日、星の海には鮮明な流星がいくつもの光の筋となって駆けているのが地上からも見ることができる。
――――放たれた黒き矢は遠き故郷の地へ
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