
心地良い場所、故郷の息吹の中にあって、父のぬくもりと共にあるそこで、レティシアは知らぬ間に眠りについていた。海岸を望む窓からの夜風が、彼女のクリーム色の髪の毛を擽る。
絶え間無い不安が続いていた日々に別れを告げられるのだと、公女は安らかな寝息を立てている。
だが、暗い部屋の中で自分は眠っているのだと理解できる彼女の意識がそこにはあった。アンチ・レティシア。彼女はそう名乗った。
レティシアと同じように、父の側で安らぎを感じている彼女も、レティシアと言える存在ではある。
だが、潜在的な意識が眠りの間に表面に出ると言う事は、今までにはなかった事だ。彼女は、ベットの中で世界に闇の矢が放たれたことを感じていた。
父の身を気遣う想いとは裏腹に、レティシアたらんとする少女は、これから起こる事を予測して、安らかな寝顔に邪悪な色に染まった微笑をさせるのである。
シアに邪悪な色に染まった微笑をさせるのである。
ビシャァァァァン
その爆音と鮮烈な光の波は、とてつもない地震に携えられて人の元へと届いた。
城内の慌しさを感じる前に、フィード=フィールド=フィリアードは目を覚ましていた。隣で眠っていた筈の娘の姿はない――。
彼は、ダウンを脱いで自分のシャツを着ると、月明かりを頼りに部屋の戸を開ける。
「……誰かいないのか?」
彼は、松明と月の灯りによって、十分に視界の広がっている廊下に声を放つ。
数秒して、返答が無い事を知ると、部屋の壁に飾ってあった装飾品まがいの剣を手にして、彼は玉座へと向かう。
「……風が……強くなってきている……」
松明が嬲られて、大きく形を変えている様を見てフィードは、そう呟く。
人の姿が直接見えなくても、先ほど自分を眠りから覚醒させた、恐ろしいまでの爆音が国内すでに轟いているであろうと、フィードは予測して、足早に廊下の突きあたりにある階段を降りる。
「フィード様っ!」
ふいに背に掛かったのは、若い騎士の声だった。と、同時に、彼の視界は真っ赤に染まる。
ドンッ
まるで何かに叩きつけられるような衝撃――。
一瞬耳が完全に死んだと思えたが、次の瞬間には、それが二度目の爆音なのだと分かる。
「っ……」
「ご、ご無事ですか……」
フィードと肩を並べるほどの背の高い騎士は、耳を2,3回パンパンと叩くと、公子の元に駆けよって形式的な言葉を言う。
「カリスか……今のはなんだ?」
カリスと呼んだ武装した若い騎士を正面で捉えると、フィードは窓の外に視線を移し尋ねる。正確な返答を期待したわけではないが、目覚めたばかりで、多少混乱しているかもしれないフイードに状況の確認はできなかった。
「フィード様と同じ考えだと思います。国民達も、この状況で考える事って決まっていると思いますよ」
武者震いなのか、本当に恐怖を感じているのか分からないが、小刻みに体を震わせて騎士は応える。
「カタリーナは、どうしている?」
「私も玉座に向かうところでした。参りましょう」
騎士は、フィードに道を譲るようにして、壁に背をあてる。
この状況下で、自分の中の何かが動き始めている事を感じ始めていたフィードは、苦笑する事で騎士の礼に応じながら、足を玉座へと向けた。――不可解な想いを胸に携えて。
来賓用の豪華な調度品が並べられた部屋で、肩に包帯を巻いたカミュは、目を覚ましていた。
「起こしてしまったかしら?」
強い威圧感を感じたのは、爆音が夜空に轟く前であった。ベットから身を起こして、側で微笑んでいた少女を見つける同時に、世界は真っ赤な光に包まれたように思う。
廊下を走る無数の靴の音は、その部屋の中に居ても聞く事ができた。城内が騒がしくなっているというのに、少年の前で微笑む彼女の仕草はごく自然であるかのように思える。こうして、カミュを目線の下において、積極的に微笑むのはレティシアではない。
「……またお前か」
皮肉交じりのカミュの言葉。
「あなたがどういう存在なのか、それは分からないけど、キスで人が殺せると思っているのなら、その考えは改めるべきね」
「……俺が躊躇したというのか」
カミュは、表情を変えないまま、ベットのスプリングを利用して、少女の立っている方とは逆に身を捻る。床に膝をつくと、すぐに壁に立てかけてあった剣の鞘を手にして赤い眼の少女に視線を向ける。
「肩口痛そうだけど、急所は外れているわね。それに関しては感謝しなさい。レティシアが躊躇してくれた結果なのよ」
「レティシアに代わってもらおうか」
「無理ね」
肩を竦めたレティシア。――馬鹿にしたような仕草。
「ならば、その体を失う事になる」
くすくすと、小さな微笑みを続ける赤いレティシアに、カミュを剣を引き抜いて対峙する。
「再度戦えば、確実に死ぬのはあなたの方。違う?」
レティシアは、首を傾げると、すでに肩口の痛みで顔を顰めているカミュに優しく問う。――偽装された表面だけの声色である。
「……お姫様に何ができる? 目を染めたところで、所詮お前は素人だ」
右手で剣を水平に構えてカミュは目を細める――。次の瞬間で、レティシアの首を刎ねる用意をしたつもりであった。
「あなたは深層に潜んではいなかった。だから、体の使い方を知らないのね。すべての感覚、神経の反応は、通常2,3割程度しか使われていない事を知らない」
だが、それに興味すら示そうとしないレティシアは、目を閉じて人差し指を横に振りながら、得意げに言葉を続ける。
「強すぎる力は体を傷つけるものなのだけど、それを自我でコントロールしようとしないのは、人間の怠慢だとは思えなくて?」
「黙れ!」
声を荒げるカミュ――。レティシアが初めて聞いた口調だった。
恐怖、焦り、捨ててきた感情が蘇ったわけではないのだろうが、本能的にこの場をきりぬけなれば、とカミュは感じた。
ガンッ
ベットの天蓋を蒼く輝く剣で切り落とす――。
目晦ましを仕掛けた自分に、半ば驚きながらもカミュは、床を蹴ってレティシアに剣を突きたてる。
「カミュゥ……」
ベットを乱暴に踏んでレティシアの喉元に剣を突きたてたカミュの瞳に、不安げな表情を浮かべるレティシアが映る―ー。
この表情、声は、泣きながらカミュの肩に包帯を巻いたレティシアのモノであると思えた。
「チッ」
カミュは、舌打ちしてとっさに剣を引く。が、突進する力を殺す術はなく、そのままレティシアに体当たりをするような格好になる。
床に押したおしてしまう……というカミュの認識とは裏腹に、その少女は少年の体を数歩足を後退させる事で受け止める。
「あなたに人が殺せるわけがないのよね?」
満足そうな微笑を浮かべる赤い眼のレティシアは、少年の首元に果物ナイフをあてると、そう耳打ちする。微笑みの裏には、レティシアを演じる事でカミュが迷ってくれた事と、本人は気づいていないのであろうが、酷く辛そうな表情をしたという事があった。
「黙れ……」
すでに命を握られているカミュは、消えそうな声で言う。
「くす……暗殺者なんて笑わせてくれるわ。あなたは……」
アンチ・レティシアは、自らの言葉を繋げると、カミュを強く抱擁すると共に、ナイフを握った手に熱を込める。
「黙れっ」
「黙るのはあなた」
カミュは、その声に反応して右手に持った剣を逆手に持ちかえる――。これならば、相打ちに持ち込む事ができると考えたのだ。
が、アンチ・レティシアは、カミュがその剣で人を指す事が出来ないと分かっていたから、あえて抱擁し、無防備にとどめを刺そうとするのだ。
「さようなら、カミュ」
――レティシアの優しい声だった。
第17話「二人の生まれた部屋」
玉座に飾られた松明に火が灯されてから、小一時間が経とうとしていた。ロクに眠る事が出来なかった公主は、目を細めながら駆け寄ってくる騎士の声に耳を貸して、ため息に近い声を漏らしている。
「なぁるほどね……エルム老が生前そんな事を言っていたわ」
首を横にカクンと倒して、玉座で小さな背伸びをして目を閉じると、カタリーナは小さな声を奏でる。それは、騎士の報告へ返答であったのだが、それを知らせた当の若い騎士は、それに応えるべき言葉を持たなかった。
「赤い月が、卵を地上に落とす……か」
カタリーナは、急に立ちあがると、目を見開いて鋭い光を灯す。
「カタリーナ?」
それを真っ向から受け止める格好になったのは、たった今、玉座に入ったフィード=フィールド=フィリアードである。彼は不安げに妹に声をかける。
「お兄様、心配は要りませんわ。10年以上に渡り、この日の為に手を尽くしてきたのですもの」
立ちあがり真っ直ぐに足を進める公主は、持ちいる最高の微笑みを言葉に携えて兄に送る。
すれ違い様であったので、フィードはその笑みを半分程見てすぐに公主の背中を追う形になる。
「……どうするつもりだ?」
「見ていてくださいまし」
振り向かずにカタリーナは応える。幾人かの侍女がその後を追おうとするが、公主は視線を配らずにそれを手で静止すると、夜の闇に支配された玉座の外へと消えていった。
強いブルーがそこにあった。目の前は、果てしなく続く蒼い海に覆われている。空との境界を判別することも不可能な完全な蒼。
その僅かな波の鼓動の中に、一人の女性が立っていた。白いドレスを纏っている、長いブロンドの髪の女性。
自分が、何をしていてどうして、こんな世界を見ているのかも分からなかったが、その金色の髪の女性は、こちらを見ると静かに微笑を浮かべる。
――酷く、懐かしい微笑みに思えた。
女性の名前は思い浮かばない、何故懐かしいかも分かるはずもない、だがその声を聞く事はできた。
祈り……。この女性の明確な意識は、見えているそこにはないのかもしれない、ただ繰り返される希望のみが脳裏に直接焼き付けられるような気がした。
ギシギシ
何かに圧迫されている。痛みは無いが、頭が疼いている。
彼女は帰る場所を安らぎを求めていた。
ギシギシ
彼女は伴侶たる人を見つけ、希望を見出す事ができた。愛するべき者を希望によって守れるのだと、想いの力を信じる事ができた。
ギシギシ
想いを否定する感情があっても、それはアンチたるモノなのであり、決して単独では存在できないのだと、希望は消えないものなのだと。
ギシギシ
希望に守られて自分は生まれてきた。強いブルーに守られていた。自分で奏でた希望ではない。生まれ来る時には、誰かの想いに守られているはずであり、それがあるから生きていけるのだ。
「……わたくしを抱いて……微笑んでくれている人……」
頭を締め付けるように疼いていた感覚が消えていた。うっすらと白い靄の中に見える二人の赤子。母親らしき人に抱かれ、微笑を受けているのが自分だと理解する事ができた。 ――希望を託されたのだと、知ることができた。
ドクン
強い鼓動が胸をうつ。
「……チ」
舌打ち――。自分の感覚の外で為し得たそれ。違和感だった。人を憎み、復讐で悲しみを消そうとしている自分が居た。
「ダメです」
否定の声。
「……ここは私達の生まれた部屋なのね、レティシア」
自分の口が自分の名を奏でた。舌打ちした時の感情とは違う、優しげな声だった。
「い……や」
夢の中にいるようであったが、次第に体の感覚が鮮明になっていくと感じた。
その過程の中で、自らの手が血に染まっている事を知る。誰の血なのか、と自問すれば、目の前で首筋に赤い傷を負っているカミュのモノだ。
「カミュ……」
適切な言葉は思い浮かばなかった。
「っ」
次の瞬間、首に痛みを感じながらも、それが致命傷にならなかったと本能的に感じたカミュは、少女の顔面に拳を突きたてる。
「あっっ……」
レティシアは、目をぎゅっと瞑り肩を縮める。
が、彼女額に小さな痛みを与えるだけで、その拳は止まった。
「!? レティシア……か?」
カミュは、蒼い瞳に反応して拳をとっさに静止させると、小さくそう言い、レティシアの背に回している手からも剣を落とす。
「あの……ごめんなさい……ごめんなさいっ」
頬を真っ赤にして、ぽろぽろと涙を流すレティシア。
「お前は……俺が憎いから、俺を殺すのだろ……? どうして謝る?」
カミュは、なげやりに笑うと、レティシアの蒼い目に言葉を告げる。
「違います……違うんです……あっ」
レティシアは、カミュの首に当てたナイフをその時になってやっと床に捨てる。そして、血に染まった自らの手を見て肩を震わせる。
「怖くて……悲しい想いをした代償に、人を殺めるなんて事あってはいけない事ですのにっ……」
泣き声だった。肩を小さく上下させてカミュの血に染まった手を見ながら、レティシアは言葉を続ける。
「荒んだ想いは荒んだ想いを生みます……一度流れ出した想いは、止まらずに膨張していくものです」
レティシアは、夢の中で聞いた言葉をそのまま声にした。
「……? 俺がお前の従者の死を軽んじた、という事にずっと怒りを感じていたのなら、それは復讐の動機になる」
「憎むべき相手は、カミュじゃありません。それに……そういう想いにかられて生きるようになるのは怖い事です……」
泣き声を何度か詰まらせながら、荒い息をしてレティシアは言う。
首の傷口を押さえるカミュは、何も言わずにレティシアの言葉を聞いている。
「わたくしが……わたくしが責任を取りますから……」
レティシアは、ハンカチを取り出すと、カミュの首の傷に当てようとそこに手を差し伸べる。
パンッ
カミュは、反射的にそれを払って、数歩後退する。
「……触るな」
その言葉が奏でられると同時に、レティシアの髪を中に靡かせていた海からの風が止まった。
「っ!?」
「えっ……!?」
連続する瞬間、カミュとレティシアは、同時に息を呑む。
部屋に中暖かい風が吹き込むと同時に、そのプレッシャーは空間を易々と支配した。カミュは、アンチ・レティシアとは違うその悪寒に反応しレティシアが床に落とした短剣をとっさに拾い上げる、次いで部屋の中に目り、圧迫を放つ正体を探す――。
「カミュッ!!」
悲鳴に近いレティシアの声。
少女は少年の背後の窓……海岸に面したそこにその姿を見た。
――――母の詩は聞こえなくなっていた
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