重苦しい空気に包まれた部屋の中で、赤い目の少女は再びレティシアたる媒体の支配を確立させていた。
「カミュ、道化……私。似たもの同士が揃ったものね」
レティシアの口元に暗い笑みを灯させる彼女は、自らの腕の中で意識を失おうとしている少年に視線をやり、美しい唇を震わせて音を紡ぐ。それは独り言のような語呂の連続であったが、血の味を噛み締めるカミュは、目を見開いてその言葉に耳をやる。
「……レティシア」
少年は、名前の次に言葉を続けようとするが、刹那、血の混じった咳がそれを適わなくする。彼の辛そうな瞳の瞬きを見て、アンチ・レティシアは優しげな、すぐに作り物と分かる微笑みを浮かべ、彼の赤く染まった体を抱擁する。
「赤子の手を捻るようなモノ。今のあなたを殺すことなんて」
レティシアがカミュの耳元で小さく奏でた言葉。それは、異様なまでの歓喜が携えられているように少年には感じられた。
「どう……? 命を他人(ひと)に握られると言うのは?」
優しい口調で言葉は続けられる。死んだ魚のようなドライな目をしている道化は、その様を固定された笑みを浮かべたまま、見守っていた。残った少女一人を殺すことなど、造作もない事であるからなのだろう。レティシアがカミュの耳元に奏でる言葉を邪魔するという素振りは見せず、むしろこの一つの死に満足しているようでもあった。
「……」
カミュは、レティシアの赤い瞳に捕らわれる。返す言葉は見当たらなかったが、その瞳から目を離すことは出来なかった。
「レティシアが、あなたを酷く嫌っているというのに、あなたはそれを知ってレティシアを助けようとしたわね……どうして?」
母親が子供を寝かしつける時に使うような、優しい微笑みと声が運んでくる言葉。
「分からない……俺は」
カミュは、その瞳に吸い込まれるように素直な言葉を返す。その上擦った声は、そこまで続けられて血を交えた咳により再び遮断される。
「レティシアもそう……あなたを憎んだら良いのか、それとも守ってあげたら良いのか分からなくなってきている」
レティシアは、カミュが踏み潰し天蓋を落としたベットの側に散乱している絹のシーツを引き寄せて、傷口に当てる。そのまま胴回りを強く縛り上げて、一応に止血の処置をするが、そうした後、赤い目の彼女は、自嘲気味に苦笑する。
「それでも私は、レティシアが忌む感情の結晶なの。あなたの事が憎いと思うから、私が居る」
カミュを床に寝かせて、レティシアは立ちあがる。
『……白き詩の祈りが、私をこんな気持ちにさせているの……?』
レティシアは目蓋を閉じ、深いため息をついて、肩を上下に数度動かす。雑然とした部屋の調度品の中、まるで玩具であるかのように、奇妙な姿をしたそれは静かに佇んでいた。彼女はゆっくりと目を開け視線を動かして、道化の笑みと対峙する。
道化はその時にレティシア、怯えていた少女の表情が先程と一変していることに気づいた。自信に満ちた笑み、対峙している相手を見下したような目は、どこか道化そのもののイメージと類似している。
「……さあ、私も殺すのでしょう?」
レティシアは暗い笑みを携えて、言葉を紡ぐ。その刹那に、道化はゆっくりと足を前に進め始めた。
その視線、いやギョロリとした目玉が、レティシアからカミュへと標的を変える。――ニヤリと、口元を大きく開いて、再びレティシアを一瞥する道化。
「どうしたの?」
レティシアは、動じることもなく淡々と言葉を続ける。そして、両手を開いて見せることでエモノを持っていない事実を道化に知らしめる。相手を心底侮蔑するような行為であった。
道化はそれにピクリ、と反応し、カミュを完全に視界の外に追いやり、レティシアを再び視界に捉える。
先程刃を交えたカミュは、今の様に視線を動かして、レティシアを狙っているのだ、と見せることで、自分が標的とされている状況以上に緊張を張り詰め、その表情を苦悶に染めた。道化には、カミュにとってレティシアが、大切な人間であると分かったから、彼を彼女の前で無残に切り刻んで、彼女の悲痛の叫び声を糧とする事が出来た。しかし、レティシアは、カミュを狙っているのだという意志を見せても、全く動じる様子がないのだ。
道化にとって、これ以上、この人間達に時間を割くのは無意味であった。このような少女など簡単に殺せるのだ。終わりにしてしまえば良い。
道化は、用いる全速の一撃で、レティシアを首を横から跳ね上げようとする。が、道化の視線は、彼女の動きを追いきる事が出来なかった。
――――まさか懐に飛び込まれ、殴られるとは思ってもいなかったのだろう。彼女の軌跡をなぞる事をしなかった道化は、鳩尾に繰り出された拳で、海岸を望む窓の前に跳ね飛ばされる。
ドスンッ
質量の大きなモノが、床に落ちる音だった。レティシアの感覚では、鈍いそれは弾力性がない無機質なモノに思えた。
「……なるほどね……」
次いで、道化の腹を突き上げたレティシアの拳が悲鳴をあげて、主の美しい顔を歪める。拳を握り、何かにぶつける、という行為は、アンチ・レティシアの記憶にある限り彼女達の人生で初めての行為であるはずだった。
飾り気のない一撃というのは、その効用の低さをもって、レティシアにある種の納得を与えていた。
薄笑いを浮かべて、次第に赤く腫れてくる白い美しい手の甲を哀れむように見つめるレティシア。その間に、床に尻餅をつかされた道化は、音をたてずゆっくりと立ちあがり、彼女の意識の外から凶器となっている腕を振りかざす。
ザシュッ
空を切る音。道化の動きを完全に見損なっていたレティシア。道化の確信をもった一撃が、彼女の頭を縦に凪ぐべく、強暴な音を発して宙を駆ける。
レティシアは、振り下ろされるエモノそのものを見ずに、道化との間合いを詰める。カミュの見せた競り合いで、細長い腕は、近距離の相手を捕らえる事には不向きであると理解できたからだ。
鞭の様に振り下ろされた右腕は、部屋に敷き詰められた絨毯を一閃して凪ぐ、赤い芝生を易々と貫通して、下のレンガで出来た床にも亀裂を描く。ただ狙い定めた少女の肌に凶器が触れることはなかった。それを見て、目を細めるレティシアは、すでに道化の首筋に手を掛けようとしていた。が、道化に皮膚に触れようとする間近で、赤い目の公女は、一瞬躊躇する。
道化の皮膚の、黒と黄色い縞模様は、彼女に嫌悪感を与え、素手でそこを掴み、捻る、という行為に歯止めをかけさせたのだ。
一瞬の迷いを見逃さなかった道化は、空いている左手を床から天井へ振り上げることで、レティシアを再び狙う。
「ここは、私の生まれた部屋」
レティシアは、小さく足を動かして体を捻ることで、その一撃を大きく空振りさせる。もはや、道化は丸腰の胴を赤い王女の前に晒すだけの存在となっていた。レティシアは、わずかに唇を動かして言葉を奏でると、正眼に両腕を構え目を閉じる。
それを見た道化は、床に刺さった右腕と、天井を貫通している左腕をとっさに自分の元へ戻そうとするが、それが適う事はなかった。ドレスを着た少女の動きが、先程戦った少年の動きを凌駕している、というのは道化にとって意外な事であった。弱々しい雰囲気をもつ細身の少女は、簡単に踏みにじることができる対象であると、そのモノの思考は判断していたのだ。
ピエロの仮面を被ったソレが両手のコントールを諦め、窓の外へ身を後退させようとした時には、すでにその首から上にあった部分は、宙を舞っていた。
「これが私の白き詩の祈り」
レティシアは微笑む。不気味な赤い色に染まった鎌を両手で構えて。
――――もう一つの詩が目覚めた
第19話「もう一つの詩」
小さく胸を上下させて弱々しい呼吸を続けるカミュは、しばらくの間、主を失っていた公女の部屋のベットに寝かされていた。彼の左肩口を真っ赤に染める傷をつけた本人は、薄暗い部屋の中に息吹を灯していない。
少年の虚ろな意識は、わき腹を抉る傷の痛みと、レティシアが印した肩口の傷によってかろうじて保たれていた。完全に動かなくなった体にあって、カミュは天井を見上げてレティシアの手に持たれた赤い光の存在を思い出していた。
ベットが十数年かけて記憶したレティシアのぬくもりがカミュにそうさせているのかもしれない。
『俺をどうするつもりだ……レティシア』
刃の光が照らし出した唯一視界に映えるレティシアは、冷たい微笑みを灯して、カミュの止血を侍女に命じていた。
カミュは、消え入りそうな声でそれだけ言うと、周囲に何の気配も感じえない事で、ため息に似た息を吐いて目を閉じる。二度と目を覚ますことはないかもしれないのだと、覚悟して。
海からの聖なる風に守られた公国。そこを汚す赤い月が運んできたモノ達。
道化の面をもつソレは、人のぬくもりに包まれた街の中で、数十、数百という数をもって人の血を求め徘徊を始めていた。
「……道化の顔をした……悪魔……か」
数名の騎士を従えたフィード=フィールド=フィリアードは、鋼製の剣を右腕に下げて、闇に覆われた街の一角で息を潜めていた。彼自信も、それに付き従う者達も、いくらの傷を負っているようで、追い詰められるような形で、建物が作る裏通りの影に身を置いている。
「剣も、……槍も全く効かないと言うのなら、我々に打つ手があるんでしょうか」
公子の背中を守る若い騎士は、未だに覚めやらない加熱した鼓動を隠せないまま、絶望に近い言葉を言う。
「……俺は、どうして先の死債でこいつらと戦えた……」
フィードの方は、その声に空ろに反応し、人から伝えられた過去の記憶と呼び起こそうとしてみる。が、道化達の顔も、自らの無力さというモノも過去に経験したものではないとしか彼の頭は教えてくれなかった。
「先の戦では、ブルーが世界を覆った……そう聞きました」
フィードの言葉を聞いた騎士は、即答し、彼の判断を急かす。街の一角の暗闇、裏路地の狭い空間というものが、余計に若い騎士の恐怖心を煽っていたのだ。
「ブルー?」
「……くっ」
フィードの記憶に連続性がない、という事は、追従してきた騎士も聞かされていた。だが、実際に道化と対峙した経験に一筋の期待を込めて、先の戦いの事を尋ねたのだが、事は騎士の希望通りには運ばなかった。
騎士が発した重いうめき声は、街の彼方から聞こえてきた断末魔の悲鳴に対する彼の精神の応えだった。
「このままでは、各個に殺される。……一度城に帰還する」
ため息と共にフィードが言葉を吐いた瞬間に、静まり返っていた周囲の空気が動いた。
ドンッ ドンッ
重い音が響く。次いで、騎士達の間で鼓動がはじける。
彼らを闇で挟んでいる家々の屋根から、数個の物体が飛び降りてくる音。
「……散れっ」
フィードは、刃こぼれをはじめている重い長剣を捨てて、替えの短剣をの鞘を背中に担ぐ。そして、狭い路地の出口に目をやり、叫ぶ。本能的に、それは道化達が作り出した音なのだと感じることができたのだ。
「公子様がお先にっ」
フィードの背中を守っていた騎士の声。その騎士は、仲間の一人が家の屋根に吊り上げられる様を見て、顔から血の色を失いながらも応えた。
背中の騎士は、自分が殿をすると言い出せば、聞かないような男であると知っていたフィードは、言葉を聞いて、すぐに行動を開始する――。皮のブーツと黒いマント、その下に着込んだ鎖帷子という漆黒の姿で、張り詰めた空気の中を駆ける。
その気配を察知して、自らの指名を果たそうと剣を抜き放つ騎士は、闇の中の見えない敵に対して、背を向けることなく後ろ向きに足を後退させた。仲間の騎士たちは、路地の逆側に入り込んだのかもしれない。周囲に感じるは、フィードの足音と自らの命を狙う圧迫感だけだ。
騎士は、そう思っていて、背後から腰を支えられた事に、はっと息を呑む。
フィードの遠ざかっていく足音が矛盾を作り出していると思えたのだ。騎士は、背後に居るものの正体を確認しようと、不用意に振り向く。
「なっ」
絶句。
すでに生き絶えている同僚がそこに立って……いや、立たされていた。生死の判断は簡単だった。両足が切り取られている。先ほど、屋根に何らかの方法で吊り上げられた騎士だろう。
鼓動を早め、生命の主張をしている騎士は、それに背筋を凍らせられる。再び、道化達の姿を捉えようと、視線を元の闇に戻した時に、その騎士の意識は途絶えた。
――彼の瞳に最後に焼き付けられたのは、鼻先までに迫っていた道化の病んだ微笑みだった。
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