
勢いの殺された風が、天を見上げている赤い瞳の前を駆けぬけている。白いドレスを血で朱に染めた公女は、服の色と同じ輝きを放つ鎌を手に、アースラムの北に位置する城下町の一角で、息を荒げていた。
大きく肩を上下させて、月を見つめながら呼吸を整えている彼女。
「……ふぅ」
時折、ため息に近い吐息を使い、胸の高鳴りを押さえようとするが、意思に反して体は興奮状態を収めようとしない。
レティシアは、背筋を伝わる冷たい汗を感じて、美しい唇を歪めた。
「体中が圧迫されるようなこの痛み……。つくづく、お姫様をしていたものね」
アンチ・レティシアの運動に公女の筋肉が悲鳴をあげているのだ。カミュにお姫様呼ばわりされた事が脳裏を過り、彼女は苦笑し、赤い光を灯す鎌を地面に突き立てる。
手にある軽量の鎌は、あれから3体の道化の血を吸っていた。彼女自体は、その戦いで傷を負う事はなかったが、無理な立ち回りの代償に与えられた関節の痛みに、感じなれない不快な匂い。逃げ出したいような衝動にかけられたが、ここに逃げ場がないという事を彼女は知っていた。街中から立ちこめる悲鳴は、道化の数が手におえないほど多いということを示していて、レティシアが仕留めた計4体の固体は、その戦闘能力が人間のそれを凌駕している事を彼女に告げていた。
地獄のイメージに酷似している世界の中で、唯一の肉親である父を探そうと、彼女は体に鞭を打って足を前に進める。16年間、自分を守ってくれた優しい父を道化に奪われるという事はアンチ・レティシアの領域にあっても許されるモノではなかった。
周囲は闇に覆われているものの、街の至る所から火の手があがっている。人の断末魔の悲鳴の中で、レティシアは父の姿を探して、街の入り口にある城門の側で視覚を研ぐ。
城下に広がる街は、前回悪魔と呼ばれるモノ達が訪れた時に比べれば、比較にならないほど規模が拡大している。人口でいえば、10倍以上に膨れ上がっているのだ。だから、父の姿をそこで見つけるのは困難であるとレティシアは覚悟していた。
だから、アンチ・レティシアの領域で、異常なまでに研ぎ澄まされている感覚であっても、人の必死の想いが駆ける街の中で、その感覚が正常に機能するのかは分からないのだ。
公女の足の裏の皮膚が擦り切れて、皮製の靴を赤く染めた頃、どのくらいの時間が経ったのかは分からない。が、しばらくの間、背丈のある家々が連なる視界の悪い街中、中央の広場に繋がっている道幅の広い大通りを通っても、生きている人間には誰一人すれ違う事はなかった。
裏路地や小さい路地、そして家の中からは絶え間なく人の悲鳴と、激しい物音がしてくるというのに、だ。
レティシアは、人間の方が自分を避けて通っているように感じられて、眉を潜め、その場に立ち止まる。――この街を自由に歩き回る、という行為は公女である彼女に許される行動ではなかったが、彼女はそこで見つけた。明らかに街が一変している部分を。
巨大な……底さえも見えないような深い穴が、中央広場から少し北にいった場所の街並を抉りとっていた。
「隕石が落ちるとこういう穴ができると読んだことがあったけど」
そこは、道化達が落ちてきた場所なのだと……レティシアは闇の中で理解した。彼女はそのクレーターの側に立って、穴の底を覗き込む。そこは、悪魔達に息吹に包まれた地上以上に、暗黒に支配された空間であるように感じられた。蒼い目のレティシアであれば、恐怖を感じていた闇であろう。
アンチ・レティシアは、それを一瞥すると、ふいに耳を撫でる音に意識を向ける。
「お父様?」
優しい雰囲気の声に、すぐそう思えた。レティシアは、振り返って、声の主を探す。だが、その視線の先に人らしい姿は映ることがなかった。レティシアは、目を細めて、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「また私を呼ぶの……お母様」
それは、カミュの首元に刃を突きつけた時に、彼女が聞いた声と同じモノだった。今度は、レティシアの心を守ってくれるというのではない。彼女の周りを取り巻く風が、父の場所を感じさせてくれたのだ。
――蒼い目の公女にできる芸当ではなかった。異常なまでに研ぎ澄まされた6感すべてが、いや、それに付加する神経をも動かしている赤い目の王女だから、その声を感じる事ができた。形こそ違えど、白き詩の祈り、と呼ばれるものを奏でた姫達なのだ。
「言われなくても、お父様は守るわ」
独り言ではない、レティシアは何かの声に応えて、その声を奏でた。そして、動かし慣れない体を、定められた一点に向けて、再び動かしはじめる。
――柔らかいぬくもりが、レティシアの痛んだ体を包みこんでいた。
第20話「詩の流れ着く先」
フィードは、すでに一人で剣を振るっていた、彼に付き従う騎士は、皆バラバラになってしまっていたのだ。息を荒げる公子は、致命傷を負ってはいなかったが、彼の軽装の鎧は所々破壊されている。だが、剣の刃を通さず、鎧を易々と貫く、異形の生物の前で、それは大して役に立つものではないと思えた。
彼は、城へ向かうつもりで、街中を駆けていたが、視界が黒のカーテンに閉ざされた場所で、的確に目的の方向へ動く事は難しいと言う事痛感していた。燃えて崩れゆく、街の一角で、ここがどの辺りなのかも分からなくなっている。
キィィンッ
ふいに背後から響いてくる金属と金属が叩き合う音。
彼の剣が奏でた音ではない。フィードは、とっさに振り向いて、その火花を探すために視線を走らせる。
ゴトンッ
だが、彼が踵を返した時に、その戦いは終焉を迎えていた。重苦しい無機質な何かが地面に落ちたのが、勝敗を明示するものであった。
「レ、レティシア?」
最初見えたのは、燃えるような赤い光だった。そして、光に焼き尽くされた道化の姿が、次にフィードの瞳に映る。
彼は剣を構えて、短い時間で、道化を打ち倒したモノを確認しようと、感覚を研いだのだが、赤く輝く刃を携えて、そこに居たのはレティシア……、こういう事ができるはずのない娘であった。
フィードは、声を詰まらせてその名を呼ぶ。彼女が、武器らしきものを手にとって、道化を倒したようであるというのは、父親としての彼の認識の外にある出来事であったのだ。
「ご無事ですか? お父様」
アンチ・レティシアは、蒼い目の自分が父に向ける最高の微笑を見せて、小さなお辞儀をする。
「レティシアがどうしてこんな所にいる?」
ここが街のどの辺りなのか分からない、だがレティシアが居て良い場所ではない事は確かであった。
「お父様をお守りしたいのです☆」
微笑を浮かべたまま、リズム良く首を傾げて、声を弾ませる。蒼い目のレティシアと同じ感情がアンチ・レティシアの胸にあった。まして、大好きな父親と自分の選んだ言葉で会話をするというのは、初めての事なのだ。
「……赤い瞳?」
足早に娘の側に近づいて、怪我はないのかと、顔を覗き込んだフィードの瞳には、娘のモノとは違う赤い瞳が映った。
「月も赤いのです、お父様。ですから、わたくしの瞳もそう見えるのですわ」
月は暗黒の雲に隠れて出てはいなかった。
「俺の知っているレティシアは、武器を手にこんな事を言う子じゃないだろう?」
首に手を回して抱き着いてくるレティシア。瞳を見せたくないのだろう。その耳に、小さく声を奏でるフィードは、悲しげな声を奏でる。
「たくさん……お怪我をされています」
レティシアは、フィードの背中に無数の傷がある事を知って、その胸で唇を動かす。
フィードは、そう言われてみて、細かい傷が痛んでくる事を感じた。緊張・興奮状態にあっては、小さな傷の痛みが感じにくかったのだろう。
「お前は大丈夫なのか?」
無傷で、ここまで娘がたどり着けた、というのも、非現実的なことに思えた。街に住む人々は、かなりの数が殺されていると断末魔の悲鳴の多さが物語っていて、その中には鍛えられた騎士や兵士達も数多く居るはずであるのだ。
レティシアが、武器を扱えるわけがないし、誰かを傷つけることができるなどとは到底思えないのだ。
「……はい」
「何故ここが分かった?」
「質問ばかりされても困ります……」
胸に埋めた頬をもぐもぐよ動かして、声にならない声でレティシアは応える。が、そこで赤い色を蒼く変え始めていたレティシアが固まる。
「さあ、帰りましょう、お父様」
フィードの目には見えていないだろう。だが、2体……道化独特の気配がレティシアには感じ取れた。
レティシアが冷たい笑みを浮かべて、道化の気配に目をやる。
フィードは、レティシアが闇に視線を送っていることをみて、左手に垂らし、地面に突き立てていた剣を構える。
「チッ」
闇にまぎれて殺気が迫る。娘を庇う様に前に出て、ようやく視界に入り込んでいた道化の腕に剣を叩きつける。
ガチッ
――何度か受けた衝撃。そして、幾度か見た剣と腕の交わる光景。9割方、剣が折れるか砕けるかして、道化の前に屈するのだ。フィードは、自分の剣が折れない事に、多少の疑問を感じながらも、状況を切りぬけるために、続け様の一撃を見舞う。
「どけっ」
剣と鋼鉄の腕が火花を散らした刹那、フィードは剣を捨てて、道化の懐に飛び込み、その鳩尾に膝蹴りを撃ちこむ。
ドンッ
壁を蹴り飛ばすに等しい痛みだった。膝に激痛が走る。道化は、すべて変わらない笑みを浮かべているだけで、今の一撃で動じた素振りは見せない。
道化は勝利を確信し、丸腰のフィードに対して、次の手を伸ばすために、体を揺する。
が、その時に、道化の笑みが凍りついた。
「私をぶつならいいわ。でも、お父様を傷つけるのはダメ……」
レティシアの微笑み。今までにない鬼気迫る圧力を携えたそれ。
ドサッ
連続する瞬間の中で、次に起きた振動。それは、上半身と下半身が離れ離れになっている道化が、傍にある家の屋根から地面に落ちてくる際に発した音だった。
フィードを上空から襲うはずだった闇に隠れていた道化は、レティシアが投げつけた鎌によって、無残に滅ぼされたのだ。
レティシアが踏み出す足に合わせて、対象となったもう一体のエモノは足を後退させて、公女との距離をとる。彼女は丸腰にも拘らずだ。すでにその姿に戦意はなく、レティシアの隙をついて、自らの領域である闇の中に帰ろうとしているようであった。
道化達にとっていかなる武器にも勝る恐怖を彼女は纏っていた。17年ほど前に道化達が教訓とした人の力だ。
蒼い光とは対象的なインパクトであったが、対峙した道化には、レティシアが口に出した言葉が、17年前に同じような姿をした少女が奏でたモノに酷似していると識別できた。悪魔と呼ばれるモノが情報を共有する能力をもっているとしたら、今その身を翻して、闇に逃げ込むという動作をとったのは、そういう性能が起因となっているのかもしれない。
――――上下に別たれた仲間の死骸を一瞥もしないうちに、道化の気配は親子の前から消えていた。
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