蒼い空を眺めて、こうして身を浜辺に投げ出してからどのくらい経っただろうか。
空に流れる雲は虚ろな時間の経過を地上の少女に感じさせているに過ぎない。
彼女よりも先にこの空を見つめ、そしてそれを愛した姫。もうこの大地には居ないその姫。
彼女がここに残したのは、空から舞い降りるぬくもりと家族を想う祈り。それは決して机の引出しに仕舞い込んだものではない。
だがそれを理解して感じることのできる人間がここに存在するのだろうか? 涼しげな白いドレスを纏い、潮の香りに包まれているレティシアでさえも、ただこの蒼のみに心を奪われているように見受けられる。
嬉々とした彼女の表情。ぐっと両手を伸ばして寝転がったまま背伸びをする。そして、クリーム色の長い髪で浜辺に規則性のない細かい模様を刻む。夏の日を迎えた少女の昼下がりは、このように過ぎていった。
「……お父様」
浜辺の日陰、丁度心地良い風が通るそこで、この国の公女は夢の中に足を踏み入れている。そんな彼女の世界で、レティシアは大好きな父親の名前を呼んで、にっこりと頬を紅く染める。
そんな公女が父に背負われて城へ連れられたのは、西の空が朱に染まりはじめた頃の話であった。
ファルシア大陸の最南端は赤道に面している地域であり、気候の変動というものが少ない場所である。そこに広がる美しいエメラルドの海は大陸中の人々から愛され、また南方の彼方まで”浅瀬”が続いているそこは神秘の海としても認識されていて、その海の果てには死海が広がっているというのが定説である。
常夏の地域としても知られるこの地方は、有史以来あまりにも人口の増加に縁が無かった地方と言える。
旧帝国が認識していた、南方に住む人口の総数は二千〜三千人程度であるのだ。
だが、そこには街や村が存在しないわけではない。確かな人のぬくもりを灯すフィリアード公国という国が存在しているのだ。
フィリアード公国は、15年ほど前に大陸を統括していたファルシア帝国より独立した新興国である。しかし、ファルシアの領国としての独立期間を持っていたこの公国の歴史は驚くほど長く、主城アースラムの図書館には1000年近く前の記述が残されている。
そんなこの国の現在の君主はカタリーナ=フィリアード、今年で三十路に至るこの公主は16歳の時に行方不明となった父王の後を継いで、現在に至るまで15年間公主の座についている。
浜辺で日差しを体いっぱいに受けていたクリーム色の柔らかい髪を持った少女は、こういう地方に自分のベットを置いていた。
「レティシアも16歳。そろそろ嫁ぎ先を決めても良い頃ね?」
幼さを表情に残す公女のこの日のディナーは、公主であるカタリーナと同じ席に設けられていた。
アースラム城の一室、広い王族の部屋には、幾度となく侍女が出入りしている。彼女らの今の仕事は、厨房で出来あがった多種の料理をこの場へと運ぶ事であった。そして、そんな侍女達が仕事を終えて部屋に姿を見せなくなったのは、白いカーテンが張られている石の壁に備え付けられた優美な時計の針が10時過ぎを指している頃であった。
食器が机に置かれる音のみが強調されていた広い空間に、多少掠れた感のあるカタリーナの声が響き渡る。
それは、机を挟んで真向かいに居る公女――レティシアへと向けられた言葉だ。
「婚約……ですか?」
レティシアはその声に一瞬体を硬直させると、効き腕に持ったスプーンをスープの入った皿の中に浸したまま、公主に続けられるであろう言葉を口にする。
「そう、良い旦那様を探してあげますよ」
すでに食事を終えた公主は、椅子から立ち上がると公女の方へと足を進める。
「……そんなこと」
歩み寄るカタリーナと眸を重ね合わせたレティシアは、その目が真剣な意味を込めた意思を伝えようとしている事に気づくと、とっさにその眸から視線を逸らして俯く。
そして、言様もない不安が自分の中に生まれることを感じ、拒絶……というのか、戸惑いの色をした言葉を唇に奏でさせる。
「好きな人でも出来たのかしら?」
そんなレティシアの様を見て、多少繭をひそめると、公女を気遣うようにカタリーナはその肩に手を掛けて優しげな趣の声をあげる。
「……好きな人……。好きっていう感情そのものは、お父様が好きとかお母様が好きっていうのと同じみたいなんです。旦那様になる人って言うのは、そういうのとは違うとは想うんです。けど――」
「ああ、北極圏で出会ったレファンス君の事ね? 忘れられない?」
レティシアは椅子の上で小さくなって、僅かに頬を朱に染めて言葉を続ける。
「もう一度会えたらと想います」
その話題に差し掛かると、凛として澄んだ音を奏でる公女の口。レティシアは、しっかりとした光を灯す眸でカタリーナを見つめる。
公主は、そんな公女の仕草に口元を緩めると、手をその肩からどけて足を自分の席へと向ける。
「あなたはずっと泣いていたけれど。スターレイク島がファルシア帝国の残党によって全滅させられたなんて話を聞いても、まだその子が生きているなんて思えるの?」
レティシアに背を向けたまま発せられたその言葉。1ヶ月程前、春の終わりの日にレティシアに告げられた、スターレイク島虐殺の話。それをレティシアに思い起こさせた言葉は、彼女の表情に暗い影を刻ませる。
「そういう戦争をする人とは無縁の人なんです。レファンスさんは、とても優しくて勇気のある方です」
しかし、忍び寄るそれを自ら否定するように、静かに……しかし、力強い言葉をカタリーナに返すレティシア。
「だからと言って、戦争がその子の傍を避けて通るというものではないでしょう? あなたが然るべき先方に嫁いで子供を産めば、少しでもそういった戦火を消せるのだとは考えてくれないかしら?」
「……」
カタリーナの言葉に応えるべき意思を失ったレティシアは、そこで押し黙ってしまう。公主の言う事は分かるのだ。姫として周囲から大切にされてきた代償として、国の為に自らの意に背いても嫁がねばならない事がある。そんなのは、幼い頃から聞かされていた話であったはずだ。
「良いですね? 必ずレティシアを幸せにしてくれる旦那様と一緒にしてあげます。不安な気持ちも分かるけど、いつまでも家に居るわけにはいかないのですよ」
畳み掛けるようなカタリーナの言葉。それは拒否などは選択肢に入れさせない強い口調に携えられていた。
こうして政治の絡む駆け引きでは、妥協はせず自分の想い通りに事を運ばせる。
若くして公主の座について、小国であったフィリアードを15年間護り通してきたカタリーナには、絶対的な自信を持つ分野の談義であり、それは小娘が相手ならば必ず通る話に過ぎなかった。大して”おとす”のに準備をしてきたわけではない。
ただ、いつもよりも多少強い口調で、誰も居ない密室において話を進めたに過ぎない。
しかし、目の前の公女の事を良く知っているからこそ、これだけで事は済むだろうとカタリーナは思った。そして、それはその通りになったのである。
すでに嫁ぎ先も日取りも決めて、その後にこの話を当人に持ち替えたカタリーナらしさというものがそこには出ているといえた。
「……分かりました。カタリーナ様」
「良い子ですね。昔から、大人の言う事を良く聞いてきたレティシアです。きっと良い花嫁にもなれます」
静かに俯いたレティシアに、満足そうにカタリーナは微笑むと、そう言って部屋を出る。一人残された肩を震わせる公女の姿、戸を閉めようと振り返った時にそれが見えたカタリーナは、微笑してためらう事なく部屋の戸を閉めそこに再び密室を作る。
それは公女と自分の住む世界をこの場で隔離したような気概が込められていた。
柔らかそうなクリーム色の長い髪に澄んだ青い瞳。あの女、最愛の兄の心を一時の間でも奪っていた異国の姫の姿をそこにダブらせる様になったレティシアは、一日も早く自分とフィードの前から消えて欲しいと肌の艶も落ちてきた公主は願っていたのだ。
そしていつか、あの女のように国を捨てて、愛する人と共に生きようなどとするのではないかと、恐れていたのである。幸い――レティシアは、父フィードにはよく懐き、一日中べったりと傍にくっついている事もあるが、それ以外の異性にはこの年になるまで全くと言っていいほど関心を寄せなかった。
無論、あの可愛らしい姿を見て城に出入りする男達がほっておいたというわけではない。すべてのアプローチを断りつづけるのは、さぞ大変であっただろう。
だが、そんな中でレティシアは、レファンスという子の名を何度も口にするようになった。カタリーナはそれが、気にいらなかった。レファンスというのは、彼女にとって忌むべき名を持つ少年であったからだ。金色の髪にレティシアと同じ蒼い目をしているとなればなおの事である。
「どうした? レティシアと一緒ではなかったのか?」
紅い絨毯の敷き詰められた薄暗い夜の廊下を自室へと多少足早に歩いていたカタリーナ。ふいに闇の向こうから彼女に声が掛けられた。
「いえ、あの子はまだ食事中です」
その声の主が、廊下の明かりに身を晒す前に、カタリーナは言葉を返す。
「珍しく一緒に食べるなどと……」
寝具を着た黒髪の長身の男――フィードが、その声の主である事はカタリーナの予想通りであったが、すでに11時を回ろうとしているこの時間にレティシアを探しているようである事に、公主は疑問を抱き、そのままそこに立ち止まり、闇から明かりが照らしている部分へと彼が進み出てくるのを待つことにする。
「いけなかったでしょうか?」
その姿がはっきりと自分の瞳で確認できると、カタリーナはそれにうっすらとした微笑を送る。
「公主のする事に文句を言うつもりはない」
「くす、それならば結構です。しかし、こんな時間に……あの子にご用でも?」
カタリーナは、その微笑を愛想のあるものへと変えて、細い首を右にカクンと担げる。
「いや……。顔が見たくなった、それだけだ」
「――子離れくらいはなさい。だからあの子も親離れができないのです」
フィードの曖昧な言葉。それを発した本人の瞳にある種の迷いの色が灯っているのを見つけた公主は、浮かべていた微笑を一転させ、頬を強張らせると冷たくそう言い放つ。それはプライベートで使う声ではない。仕事上で使うような声色で家族であるフィードにそう告げた。
『あの女を思い出すなんて事はないんだろうけど。あの子を傍に置いておくと、きっかけみたいなのを与えてしまうかもしれない』
背筋が冷たくなるのを感じてカタリーナは思う。
「もうすぐ嫁ぐというのか」
「そうです。新生ファルシアの高官との縁談を進めています。すぐにまとめてみせますわ」
カタリーナは、すでに完成している縁組をそういう形でフィードに言い渡す。
「そういう話を何故……」
フィードがそう言いかけた時に、廊下の闇の彼方から、大きな時計の音がその場に駆けてくる。彼の言葉はそれに打ち消される格好になった。
「お話はまた明日」
カタリーナは再び微笑んで会釈すると、そのまま踵を返して、時計の鐘音の流れる自室のある廊下の方へと足を進めた。
第7話
「カミュとレティシア」
「公女(ひめ)様、御体は大丈夫でしょうか? そろそろ休憩をとりましょうか?」
フィリアードの花嫁が、国を出立してから3日が過ぎようとしていた。夏の日にあって天空の蒼い色彩が、公女を擁した公国の花嫁行列をより華やかな物へと染めている。そんな行列の中に、純白のドレスを着込んだ、レティシアは居た。
「いいえ。わたくしの為の花嫁行列です。わたくしが止める訳には参らないでしょう?」
公女と呼ばれた純白の花嫁は、黒いカーテンによって外の日差しから隔離されている馬車の中で、その耳を撫でる声に応えていた。
彼女は、弾力のある馬車の椅子に身を凭れ掛けさせて、多少疲れたような色をその表情に灯す。そのレティシアの向かいの椅子に座っている茶色い木綿の服にエプロンドレスといった格好の少女が、気遣った声をかけたのは、まさに彼女のそういう姿が理由であった。
「そんな事はないですよ。皆、公女様と別れるのが寂しいのです。思いっきり道草を食ってやりましょう」
花嫁の白く装飾のされた優美な馬車は、30名ほどで編成された行列の中央にあって、その左右に警護の騎兵が一騎づつ並行している形となっている。そして、その前後には金銀などを運搬する馬車と、この行列に参加している者達の糧を運んでいる馬車とが走っている。
先頭に立っているのは食料を積んだ馬車で、馬二頭で引いているのだが、その速度は暑さもあってか一向に上がらず、道の悪さも手伝って公女の体力を深く奪うものとなっていた。
疲れた色を隠そうと、レティシアが澄ました表情を取り繕る。その様を見た、頬にそばかすのあるエプロンドレスの少女は、真顔で茶化した言葉をあげる。
「くす……。ディーテったら。……あなたには、世話を掛けてしまいますね」
その言葉が可笑しくて、レティシアは口元に小さな笑みを浮かべた。だが、すぐにその笑みを隠してしまうと、少しの間をおいて俯きながら、申し訳なさそうな声をあげる。
――ふいに、その公女を励ますかのように、馬車の半開きになっている窓口から涼しげな風が飛びこんできて、彼女のクリーム色の柔らかい髪を撫で宙に舞わせる。
「いーえ、あたしは公女様の御世話をするのが生業なのです。ファルシアに行ってもずっと御傍でお守り致しますわ。もし帰れって言われても、あたし、公女様の傍を離れませんから」
目の前に座っている公女の表情に杭を打たれたディーテと呼ばれた少女は、風で揺れている窓のカーテンを空けて、薄ぐらい馬車の中に光を誘い込む。日は天空の頂点に差し掛かろうとしているのか、闇を照らす範囲は意外に小さい。しかし、その僅かな光を糧にしたかのようにディーテは、凛々と輝く瞳を見開いて、今度はレティシアを元気付けるように明るい表情と声で、言葉を吹き込んでくる風に乗せる。
「……ディーテ、いつまでも御友達でいてくださいね。わたくしもあなたと離れたくはありません」
レティシアは、瞳に光を感じることで、ディーテが必死に自分を励まそうとしてくれているのだと感じることができた。そして、闇の中で俯いているよりは希望を運んでくれる光を理解しようと、侍女である彼女の行為に感謝して微笑む。そして、素直に心の中に浮かんだ言葉を音にした。
「ええ、やっと公女様らしく笑ってくださいました」
「……わたくしらしく?」
ディーテの言葉に、レティシアは首を担げて尋ねる。
「国を出てからずっと悲しげな顔をされていました、心配していましたのに」
「わたくし、そんな顔をしていました?」
「ほーら、その顔ですわ。公女様」
あからさまに悲しげな表情を浮かべる公女に対し、ディーテはその顔を真似て見せる。そして、悲哀の色が篭る表情を反転させて輝くような微笑みを浮かべると、思いっきり元気の良い声でそう公女に告げる。
「……あ」
レティシアは口元を押さえて、ディーテの顔を見ると思わず声をあげる。そこには鏡があるかのように自分の表情が存在していた。微笑む時の癖、悲しげな表情を浮かべるときの視線。侍女は、公女の表情をとても上手に再現していたのだ。それを見た公女は、本当にディーテは、自分の面倒を良く見てくれていたのだと実感し、改めて感謝の気持ちを胸に宿した。
「ふふふっ」
そんなレティシアの心を知ってなのかは分からない。綺麗に間をとって、ディーテはレティシアを真似た微笑みを崩すと、自らの表情で公女に微笑みかける。
「まあっ、酷いです、ディーテ」
レティシアは頬を紅く染め、ぷうっと頬を膨らますとそれに抗議する。今のは皮肉を表現したものだと分かったからだ。その公女の様を見て、なおさらディーテの笑い声は大きくなった。それに釣られるようにレティシアも、僅かな微笑を浮かべる。
「そうそう、公女様は笑ってらっしゃる時が一番可愛いですよ」
狭い馬車の中に咲いた二つの笑顔、日の光によって彩られたそれは、いつまでも枯れることのない永遠の輝きを持っているかのようであった。
「ディーテ、起きていますか?」
周囲が暗いので今は、夜なのだとレティシアは思った。公女が目をうっすらと空けて、瞳に映っしたものは自分の部屋のベットの天蓋ではない。ここは馬車の中なのだと思うことで、すぐに傍付きの子の名を呼ぶ。彼女は自分の真向かいの席に座っている筈なのだ。だから、返事はすぐに返ってくるだろうと公女は思った。
「何か、聞こえませんか?」
馬車の椅子に凭れかかっている公女は、ディーテと呼んだ少女の返答を聞く前に、質問を続ける。
「……ディーテ?」
この時にレティシアは初めて異変に気づいた。馬車が止まっていて、周囲が静か過ぎる。そして、その中にディーテの姿はない。自分に断りも無く姿を消すような少女ではない筈なのだ。
『背中が……』
背中に痛みを感じたレティシアは、状況が飲みこめないまま、椅子から身を起こすと馬車の半開きになっている窓から外に視線を巡らせる。
『……暗くなっている?』
いつの間に自分は寝入ってしまって、日が暮れてしまったのだろうと公女は思った。記憶を遡るなら、正午近くに馬車はフィリアード公国の北東部に差し掛かっていて、砂漠地帯へと入っていたはずだ。そこでディーテは自分の話をしてくれていて、心地よい風が窓から吹き込んでいた。そこまでは思い返すことができる。
しかし、周囲は既に真っ暗になり、天空には星が一つも見えない。漆黒の雲に覆われているのだろうか。これまでの時間、何があったのか思い出せずに、窓から辺りを見渡すレティシアだが、その答えを尋ねるべき近衛兵も従者も周囲には見当たらない。視界に飛びこんでくるのは、闇に覆われた岩の砂漠のみである。
酷い不安に苛まれながらも、レティシアは馬車の戸を開けて、白い優美なドレスを翻し、砂漠へと足を踏み入れる。砂漠といっても、砂丘が永遠と続いているわけではない。むしろそこを支配しているものは、赤茶色の岩石の山々である。
止まっていた時が動き出すまでには、馬車から降りてそう時間は掛からなかった。
キシッ キシッ
奇妙な音が二度現れて消える。
「おい、ようやく御目覚めのようだぜ」
「随分と良く御眠りでしたな」
続けざまに先程までの静寂を破る声が二つ。それらが岩石肌の地に足をつけた公女の耳を撫でる。
「……どなたでしょうか?」
その二つの声は、違和感……というのか、威圧感に近い種類の色を灯していた。知らない土地の暗闇にあって、強暴な声は少女に酷い恐怖感を齎した。さらに全く状況が飲みこめないレティシアは、恐怖心を滲ませた声を漆黒の砂漠に立てる。
「ディーテは、皆は……」
声は震えていたが、その主の表情は凛としたものであった。しかし、必死に繕った表情は、酷く壊れやすい物である事を知っている男達は、公女の仕草を楽しむかのように声を続ける。
「ああ、レティシア姫様と一緒に馬車にお乗りになっていたお嬢様ですね。カルル、還してやれ」
闇に紛れて、馬車の影から公女の前に現れたのは二人。どちらも大柄の男である。しかし、星明りすらも無い闇の中では、それ以上の特徴は識別できなかった。その状況がなおさら、レティシアの心を締め上げる。
「おう。――御友達なんだろ? 受け取りな」
物陰から、何かを取り出して、大柄の男は片手でソレをレティシアの方へと投げる。
ゴトンッ……。
それは無機質な音であった。
立ち尽くすレティシアの胸に投げ込まれたそれ――。公女は反射的に人の頭ほどの大きさのそれを両手で包む。ディーテを返してくれるという言葉から、それはディーテの所持品か何かだと思ったのだ。
――腕に抱いたディーテの瞳は見開かれていた。酷く乾いたその視線と、どっしりとした重みを感じさせるディーテを両手で受け止める形となったレティシアの視線が重なる。
「あ……」
思わず喉から出た音。視線を合わせただけで、互いの意思はある程度分かる二人であったのだ。しかし、その侍女の視線はレティシアに何も語りかけようとはしてこない。ただ生臭い血の匂いのみを公女に与えるだけのモノとなっている。
「ディーテ?」
ディーテはファルシアに行っても、ずっと友達で居てくれると約束してくれた。だからレティシアは、彼女の名前を呼んで返事を促す。自分に断りも無く居なくなった事などないディーテのだ。必ずは返事は来る――そう信じて。
「……」
無言で仲良しの侍女の瞳を見つめているレティシア。これは、夢なのだ、という結論が次第に彼女の脳裏の大部分を染めていく。そうとでも考えなければ、公女にこの状況の説明などはできない。
「ルアン、お姫様の首は証拠に持って帰るんだろ?」
「そうだな、だからさっきの娘のように傷物にはするなよ……」
闇を纏っている二人の男が、互いに武器と思われる獲物を手に取って言葉を発した。しかし、レティシアはそれを完全に聞き流していた。今、何が起こっているのか、そんな事は彼女にとってはどうでも良い事であった。これは夢なのだから。ただ、早く朝が来て欲しいと彼女は願って、変わり果てたディーテの一部を強く抱きしめる。
「やっぱり、お姫様にアレは刺激が強かったんじゃねえかい? もう放心状態じゃねえか」
「ふふ、泣き叫ばれるのも、面倒だからなぁ?」
「嘘つけ、それが楽しみな癖によ」
比較的足場の良い剛性感のある土を踏んで、男達はディーテを護るように抱いているレティシアのすぐ傍まで足を進めてくる。
「……」
レティシアの視界に揺れているのは、黒い光を宿した細長い剣。そしてそれの主である二人の男達の薄気味の悪い笑み。夢であると言い聞かせていても、レティシアはそれが恐ろしくて、胸の中で何度も父や侍女の名を呼ぶ。
いつも自分を大切にしてくれた父、そして幼い頃から自分を護ってくれた武道の心得すらある侍女。そういった人々が傍にいないレティシアには、彼らの名を呼んで震えることしか出来なかったのだ。
「まずは首を落とせ、話はそれからだ」
「そうこなくっちゃな。……悪く思うなよ、お姫様」
レティシアが、その男達の瞳を初めて覗きこんだのは、彼等の片方が細身の剣を振り上げた時であった。彼女はその瞬間に初めて自分がここで死ぬのだと言う事を理解した。男達の刹那的な瞳の色が、彼女に現実の時間というものを認識させたのだ。夢ではない、狂楽している彼等の瞳は残酷過ぎるもので、レティシアの夢の中に出てくるものではないのだ。そう考えれば、ディーテが殺されて従者や護衛の兵士達も、目の前の男達に殺されてしまったのだという事も想像できるようになるのである。
「……フィード父様」
レティシアが覚悟を決めて最後に呼んだ名は父の名であった。実母の名でも義母の名でもない、まして北極圏で出会った少年の名でも。人生で一番自分を大事にしてくれたであろう人、フィードの顔が公女の脳裏には浮かび上がってきた。彼女の頬をふいに伝った涙に、剣の電光が宿ったのは次の瞬間であった。
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