
齋藤麗奈&ailu STEADY/SPEED あ。 空耳。 あたしは渋谷の雑踏の中で、右の耳を軽く押さえ立ち止まった。 突然立ち止まったあたしに後ろを歩いていたサラリーマンがぶつかり、舌打ちをして去ってゆく。 空耳は街を歩いているときにいちばんよく聞こえる。 人が多いからかな、とあたしは思う。 何もないよりもたくさんのものがあった方がやっぱり間違えることは出来やすい。 あたしはここのところ毎日渋谷や新宿、池袋や銀座などを電車に乗り、歩き、学校も行かずにただただ彷徨っていた。 何でそんなところにいるのと聞かれたらきっと「人が多いから」と答えると思う。 人が多い方がいっぱい間違えることが出来るから。 ひとりでも多くの人がいた方が、確率も上がるから。 確率。 あのひとに似ている人に出会えるかも知れない、確率。 これがやってみるとなかなか。あんな平凡な何処にでもいそうな人なのに、探してみると案外似ている人なんていないもので。 それでも人が多いところをずっと歩き続けていたら、やっぱり一日にひとりくらいは間違えることが出来る。 あのひとが着ていたのと同じような服を着て、あの人みたいな髪型をして、黒いつぶれたバッグを持っている人がいたりもする。 あの人の服装なんてほんとうにごくごく普通の格好だから。こんな場所でだったらほんとうにいっぱい間違えることが出来る。 あたしは手に入らない人を好きになってしまった。 あのひとはずっとあたしなんかよりもおとなで。 ちゃんとした恋人もいて、もう結婚もするんだって言ってた。 どうしてそんな人を好きになったんだか今も全然わからない。 だけど止まらないことがあるのってわかる? 好きになっても何のメリットもない、それどころかきずつくばかりだってちょっと正気になればわかりそうなのにやめられない恋愛ってあるの。 何度も何度もやめようと思ってた。 なのにたまに、偶然電話したときに近くにいて暇だったりすることがあると、一緒に遊んでくれたりしちゃうから。 だから、そんな一瞬があるためにあたしは何度きずついてもあの人に電話してしまう。 あたしちょっと頭が悪いのかも知れない。 普通こどもだって同じところで転んですりむいたらその場所で転ばないように気をつけるよね。 なのにあたしだけ何でいつもこんな風に同じことで泣いてばかりいるんだろう。 頭悪いんじゃないのかな。 こんなの死ぬまで続くのかな。 もしかしたら大人になる前に死んじゃうかも知れない。もたないよこんなことしてたら。命が縮まっちゃう。冗談じゃないよね。 あの人せっかく会えても家に彼女がいるから。だから会って一時間くらいで平然と帰ろうとする。電話したら『5時くらいだったら暇が出来るかも、もしかして、だけど。それでもいい?』なんて言われたらいいって言うに決まってる。だけどね、その電話したの午後1時だよ?土曜日だったからあたし学校終わって授業なんてとっくに終わってるのに家にも帰らないで新宿で一生懸命時間つぶして待ってた。なのに6時にはもう、『あいつがご飯作って待ってるからそろそろ帰るな』ってなんなのそれ? あのひとがいつもそうやってあたしに不安ばかりをあたえるからあたしはすっかりそれが癖になっちゃって。誰と一緒にいても、誰もがあたしといるとすぐに帰ろうとするんじゃないかといつもいつも怯えてる。いつ、そろそろ帰らなきゃって言い出すかと思うと、誰といても泣きたくなる。 あたしは人前では絶対に泣いたりしない。 けれど泣きたくなる。いつでも。そんな風に思ってしまう自分に気づくたびに泣きたくなる。 悲しくて胸が痛くなるってほんとうにあるんだよ。 でもたまに思うんだけどね。こういう風に胸が痛くなったりするのと、ドアに足をぶつけて痛いのとって同じなのかな。神経の細胞が同じように働いているのかな。 だいたいどうして悲しいと胸が痛くなるんだろう? 胸の中、なんて。楕円を立体的に歪めたようなかたちした空洞としがないポンプがちょっと偉そうに居座っているだけなのに笑っちゃうよね、なんなのこれは? 泣きたくなるたびに思う、強くなりたいって。でも強くなるって何なの? カッターナイフで切られても血の一滴も出ないそんな分厚い皮を持つこと? 会いたい人にやっとやっとやっと会えたのに一時間で帰られても何とも思わずそれこそ悲しいとも思わずににっこり笑って手を振れる、とかそんなこと? できない。 あたしにはできない。 あたしにはわからない。 いっそあのひとがいなければそれだけでよかったのに。 あのひとがこの世界にいなければほんとうによかったのに。 そう思う、こころから。 けれどもしもほんとうにいなくなってしまったらどれほど淋しいだろう。 あの人に会えることをずっとずっと考えないで生きていくとしたら。 どんなにどんなに淋しいことだろう。 結局あたしは一ヶ月720時間をただあなたと会って話して笑う1時間のために待ち続けるのだろうと思う。 どれほどに馬鹿馬鹿しいことに思えても。 あなたに会える日をただ待ち続けずにいられないのだと思う。 だからそれまで、こうして街を歩く。 そしてあの人の声の空耳を待って、あの人に似た後ろ姿を探して歩く。 あたしは淋しくない。 淋しくない。 あのひとに会いたい。 |