二代目と八代目


 自分でも嫌になるくらい口下手であることは、自ら深く認めるところであり、前回の東籬にも書いた。だが、校長職に着いた途端、いろんな場面で何か言わねばならぬことが多いので、いつも辛い思いをする。

 そのくせ、前から心がけておけばいいのに、大抵は理由にもならぬ理由を見つけ出して、準備不足のまま壇上にあがり、えいままよのぶっつけ本番でお茶を濁し、そのあとは決まって深い悔恨にさいなまれる。

 毎年五月十四日は、本校の創校記念日である。昨年は、初代校長の村上元之輔先生をお招きして記念講演をしていただいた。田園の真只中に、新しい学校の有形無形のもろもろを創り上げていった苦労話を拝聴して、生徒諸君も多大の感銘を受けた様子であり、私は企画の成功をひそかに喜んだ。

 生みの苦しみを体験した創始者のなまなましい証言こそ純粋なわが若者たちの心を打つに違いない、という私の確信は間違いでなかった。が、その裏には、当時を知らない上に口下手ときている私の話では、という思いと一緒に、私の負担も軽くなるな、という打算が全く無かったとは言い切れない。そしてこの次は二代目校長の八十島先生をと心にきめていた。

 村上先生とは、教育界のいろいろなところで接触があり御懇意を願っていたが、同じ職場に勤めたという経験はない。しかし八十島先生となると、私にとってはどえらい存在である。私が旧制中学校の四年生の頃、東大国文科を卒業して二・三年という、多分二十四・五才の白皙の青年教師八十島喜助先生が来任された。

 スリムな体だが良くとおる大きな声。文字どおり流れるばかりの流暢な国語の授業には、われわれ悪童連もただポカンと口をあけて聞き惚れていたものだ。そのうちに、授業でしぼられたうっぷんを晴らすためか、先生の名前と「気をつけ、休め。」の号令をもじって、「キスケ、ヤソメ」という新語ができあがり、先生のいないところでこれをどなって、はかない抵抗をするばかりであった。

 あれからもうすぐ四十年にもなろうというのに、同期会をやると、今もって級友の誰かが必ずこのヤソハンの思い出を言い出す。例えば、平家物語の中の「大原御幸(おおはらごこう)」の一節を、先生独特の口調を真似しながら空読みする。
 「甍(いらか)破れては霧不断の香をたき、枢(とぼそ)落ちては月常住の燈をかかぐれども、かやう所をや申すべき。庭の若草茂り合い、青柳糸を乱りつつ、池の浮草波にただよひ、錦をさらすかとあやまたる…」と。

 そして同期生のみんなは奇妙に古典のいろいろな一節をおぼえている。昨年も神田駿河台で、喫茶店を経営しているS君に合って、談たまたまヤソハン先生に及んだところで、
 「後は山、前は野辺、いざさ小篠(おざさ)に風噪(さわ)ぎ…」と、いざさおざさを懐しそうに口ずさんでいた。

 級友の誰もがそれくらい強烈な印象を持って薫陶を受けた先生とは、その数年後に私は、今度は数学の新米教師として母校に着任して、教員室に机を並べることになり、先生が転任されるまでの十数年間、何かにつけ面倒を見ていただく結果となったのである。

 教職のことは言うもさらなり、経済的にも家庭的にもである。あの敗戦後の食糧事情の悪いさなか、独身の気安さからつい終電を忘れて酒に酔い、お宅に転がりこんで泊ったことも数回、いわば迷惑のかけっぱなしであった。

 以来三十数年間、自他ともに許す八十島門下だが、一度も叱られたこともない。だが、いつも何かこわく、いつも妙に人懐こい、自然に三尺下がらざるを得ない一生の恩師である。私が本校の校長に決った時も、真っ先に便りが届き、「東高校は私の最も思い出の深い、愛着のある学校だ。がんばれ。」という激励をいただいた。

 さて、いよいよ今年の創立十八年の記念講演である。恩師には弱いと思っていたが、式場であがったことは全く予想以上。講師紹介もしどろもどろ。私にとっては聞き馴れた、生徒諸君にとっては初めての、雄弁と言うべきか能弁というべきか、立て板に水の話がこれから始まり、そして恐らく全聴衆を魅了するであろうと想像すると、私はかえりみてますます言葉に詰まり「えーと、えーと」を繰り返すばかりであった。

 講師登壇。はじめは軽いジャブで、ラーメンの値段やトイレをまちがえた話から始まって、段々に独特の八十節がよどみなく流れ、時には笑わせ、時にはしんみり、食堂の話、泉水の話、生徒会長や部合宿の話、強歩大会の話。さてはバスケット部遠征の列車を学校の屋上から見送った話等々。そして言葉の端々に、本校と本校生を愛する深い心情が溢れ出ていた。

 最後には、”可能性に挑む気魄の育成”という学校課題を打ちたてての当時の先生方の互見授業研究の話にまで及び、われわれ教織員にも多くの感銘を与えたのである。

 六十分の講演が終って、「久しぶりに話というものを聞いた。」と、ある生徒が言っていたそうだが、その感想は恐らく全生徒の気持であろう。私は、先生をひっぱり出したことの成功を卒直に喜んだが、反面予想どおりとはいえ、先生方や生徒諸君に現在の八代目校長の見劣りぶりを見せつける破目になったことに、ちよっぴり心が沈んだ。

 しかし気を取り直して、ヤソハンはヤソハン、これからが私の正念場。恐ちくこれからも訥弁であろうが、校長としての情熱や識見では、先生に一歩でも近づくよう努力せねばと、決意を新たにした次第である。

   学校長  木下周一

    県立富山東高等学校PTA機関紙「東籬」第二十号   1980年
 



※ 東籬(とうり)
 県立富山東高等学校PTA機関紙。陶淵明の詩に「菊を採るーの下(もと)。」にちなんで名づけられた。