強歩大会に思う


 前夜の雨が嘘のようなすばらしい快晴の朝、十月三十一日、本校伝統の強歩大会には、二十名の見学者をのぞく千二十四名が参加し、各学年別のコースに挑戦した。三年は小見から大川寺公園まで、二年は上市極楽寺から大岩山まで、一年は大沢野町笹津から八尾小学校まで、それぞれにさわやかな晩秋の大気が満喫できる約二十キロのコースであった。

 本校の先生方が、数年がかりで手わけして探し当てたと聞く、苦心そして快心のコースであり、数日前に下見に行って再確認していただいたものである。事実、どのコースも、その眺望といい、地形の変化といい、車どころか人にさえあまり出会わぬ交通事情といい、今どきよくもこんなコースが残っていたなと感心させられるばかりであった。この道をわが校の若者たちは、さしたる気負いも辛そうなそぶりも見せず、笑顔さえみせて全員歩き切ったのである。

 東京都の都民生活局では、このほど「大都市高校生の心理的特徴と生活環境」と題する調査報告書をまとめて発表した。都内高校生の約千三百人を抽出調査したもので、詳細なデータが発表されているが、注目すべき結論として、高校生の二大特徴は、@顕著な精神的疲労、A耐性の低さ、この二つであると述べている。@は受験生活に大半の原因があり、Aは家庭のしつけのなさに起因すると断定しているが、ここでは、Aについて考察してみたい。

 少し説明するが、「耐性」とは、教育心理学上の用語のtolerance の訳であり、わかり易く言えば忍耐力である。人間は生きてゆく上でさまざまな欲求を持つが、もちろんすべて充足されることはない。その時にいわゆる欲求不満(フラストレーション)という感情が起こるが、これがそのまま心理的障害となるわけではなく、ある程度までは人にはそれに耐える力を持っている。生まれつきも多少はあるが、特に重要なのは成長期に家庭のしつけによって身につくといわれる。洋の東西を問わず、躾けは耐性を育てる訓練ともいえる。

 しかしながら、最近のわが国の家庭では、躾けなるものは、過去の遺物として軽んずる傾向が強いのではなかろうか。むしろ、わが子に躾け教育を行う自信が全くない親が急増したというべきであろう。その結果、自制力のない青少年がふえつつあるのでなかろうか。本県にも大都市ほど顕著ではないにしても、かなりの傾向があるものと思われる。

 それならば、家庭教育の補完として学校教育に耐性訓練を盛りこまざるを得まい。本校も、創立当時からこの時代的要請をキャッチして強歩大会を実施し、その後伝統的に受け継いだものであろう。本校の初期の学校課題には、「可能性に挑む気魄の育成」とあり、強歩大会もその一環としている。当時の先生方の本校生にかくあれかしと願った熱い思いが、現在のわれわれにもひしひしと伝わってくる思いである。

 亀井勝一郎の言葉を借りれば、「青春はさまざまの可能性をふくむ混沌のいのちである。」しかし、青春の夢を実現させるためには、どれだけの努力と苦痛が必要か、不幸にして若者たちは知らない。スポーツにおける障害物が肉体の訓練となるように、精神においても障害が必要である。甘やかされた青春、それを恥じよ。そして、わが校の若者たちが、より高き困難を求め、それに挑戦する勇気と耐性を持って逞しく生きてほしいと、切に願うものである。

     学校長 木下 周一
       富山県立富山高等学校 「東窓」第十七号 巻頭言
          1980年3月