『富中富高百年史』発刊にあたって

 富山県が誕生した翌年の明治十七年三月、啓迪小学校(現在の八人町小学校)卒業式当日、一〇名の卒業生全員が口々に中学校の設置を訴えたが、この訴えが臨席していた初代県令国重正文の心を強くうち、県庁舎をあとまわしにしてまで中学校の創設をと決意させ、分県直後のまことに貧困な県財政から新設予算を捻出し、これに呼応して多数の民間の有志の校舎新築費の寄付が相つぎ、さらには総曲輪の地の校舎敷地の寄付まであった。かくて、明治十八年、富山県中学校が開校したのである。少年たちの向学心・若き行政官の決断・県民の熱意、この三者が一丸となって結実したという、この歴史的事実が本校のスタートのドラマである。国家百年の計は教育にありとする明治の人々の熱情を垣間見る思いがする。

 その後、富山県尋常中学校、富山県富山尋常中学校、富山県第一中学校、富山県立富山中学校、さらには富山県立富山高等学校となり、富山南部高等学校と改称され、昭和二十八年、富山県立富山高等学校にもどり今日に至った。その間、明治・大正・昭和の三代にわたり、四度の大戦、二度の校舎焼失を乗り越えて、二万有余の同窓生が、その少年期における人格の練磨・情操の陶冶・真理の探究に努め、輝かしい歴史と伝統を築き上げ受げ継いできたことは、県民周知のところであるが、星霜まさに百年、その茫々たる時間の中に薄れてはと配慮して、先人の足跡を尋ね、記
録を渉猟すること四年、漸く、ここに、『富中富高百年史』の完成をみた。

 北陸の中枢に君臨して峨々と聳える立山の峰々、龍神の咆哮に似て昼夜をおかず滔々と流れる神通川、緑濃く亭々たる老杉古松に囲まれた太郎丸の杜、この秀麗の環境の中で醸成され生々発展してきた校風、そこには勿論、時代の影が色濃く投影され、前進と停滞、栄光と苦難が反復し、部分的には時代とともに変化し流れ去ったものもあるが、百年間、変らざるもの不易なるものが根底に厳然とあり、本県中等教育の先頭を切ってきたと自負する。この太郎丸スピリットとでも言うべきエネルギーを行間から汲み取り、温故知新、百一年目からの新しい創造の第一歩たらしめたいと念ずるものである。

 執筆者各位は、学期中は授業をはじめ校務等の合い間に、休暇中は昨年来、冬も春も、そして記録破りの猛暑の続いた今夏の全休暇を返上してまで、その情熱を傾注し、鏤骨彫心、執筆に当たられたのであるが、その姿を瞥見するだに、粛然おのずから頭の垂れる思いをしたのは、私だけではあるまい。この労作大刊は、県下の追従を許さない膨大な資料とともに、富山県教育史の中で、一段の光彩を放つに違いたい。ここに、編集委員各位をはじめ、関係各位の御苦労と御厚情に心からなる謝意を表し、篤く御礼を申し上げる次第である。

   富中富高百年史  
        富山県立富山高等学校校長  木下周一
                      1985年