天 行 健
 「北澎湃の波高く 龍と渦巻き 雷と吼え 有磯の海
にうち注ぐ 自彊不息の水の声 昼夜よどまぬ神通の
深き心をくみて知れ」これは勿論、本校の前身、富山中
学校校歌の歌詞第二番である。在学中はよく歌ったが、
この「自彊不息」なる語句は、中学生時代の前半は愚か
にも何かが「不足」しているのかと思った。その後、こ
れを正しく読み下すと、「自ら彊めて息まず(みずから
つとめてやまず)」であると知ったが、さらにその後、(専
門家でないので単なる憶測かも知れないが、)この語句の
出典は中国の易経(B.C500年代)の中の、「天行は健
なり、君子以て自ら彊めて息まず。」恐らくこれだろうと
考えた。天行、つまり天体の運行は、天地創造の太古か
らまことにすこやかであって、寸秒も休むことなくその
軌道を運動している。人間も、すべからく天体の如く、
たゆむことなく努め、人生の大道を進みなさいと、いう
のであろう。

 私がこの富山中学校を卒業したのは、敗戦の色が日増
しに濃厚となった昭和19年3月である。卒業式が終ると、
ゲートルを着用して護国神社まで行進し、参拝ののち解
散するという、特別な時代であり、10代はすべて戦争中
だった。このわれわれ第56期の学年主任は、人格学識と
もに抜群の、かの柚木先生であり、文系・理系を問わず、
国語漢文をみっちりと叩きこまれた。この先生の最後の
授業中、餞の言葉として、この「天行健」の三文字を熱
情こめて話された。40年も過ぎた今も鮮かに覚えている。
当時は、歯医者へ行っても、金冠などの貴金属を使うこ
とは、国家の資源の浪費につながるので、セメントを充
填するだけの治療だと言われ、もうすぐ確実に戦死する
ことが義務づけられている兵隊要員であるから、それを
半ば当然のように聞いていた。今にしてみれば無情な時
代である。10代ではあるが、われら若者の人生は、遠か
らず戦争の大きな渦に呑みこまれ、雲散消滅と覚悟せざ
るを得ないが、最後まで天行の如くありたいと、生意気
にも思っていた。

 その後、戦争は終結。昭和23年4月から、新教育制度
の六三制発足とともに、私は、新採教員として、母校の
教壇に立ち、以来19年間、昭和42年まで数学の教師とし
て勤務した。ふりかえってみて、恥じ入ることばかりの
連続であり、その10年後の昭和52年から2年間は副校長
として再び太郎丸の地を踏み、さらに6年後の本年4月
からは校長として三たび、古杉老松の亭亭たる母校の杜
に参ったのである。しかも、創校百周年という大きな節
目に当たり、過去の数多くの先輩諸先生が望んでも得ら
れない栄えある仕事を任せられたのであるから、全く教
師冥利に尽きるのであるが、実際のところ、嬉しさを通
り越して、空恐ろしい気がする。天行ならぬ、我が行く
所、いつも、軌道を踏み外してばかりであったので、な
おさらである。

 さて、またまた中国の哲学者をひっぱり出して恐縮で
あるが、かの孟子(B.C390〜305)が言うには、「君子
に三楽あり。」とのことだ。「父母ともに存し、兄弟故な
きは一の楽しみなり。仰ぎて天に愧じず俯して人に
ざるは二の楽しみなり。天下の英才を得て之を教育する
は三の楽しみなり。天下に王たることは楽しみにあらず。」
と喝破する。考えてみれば、私は、幼くして父を亡くし
ており兄弟もいなかったので、父母兄弟に故障がないと
いう楽しみは味うことができなかった。また、もとより
聖人君子ではないので、しょっちゅう俯仰天地に恥じる
所業ばかりであったと認めざるを得ず、二の楽しみも当
然皆無であった。しかし、教師という職業を選び、とり
わけ母校に勤務して、私は常に楽しく、これに過ぎる生
き甲斐はなかったと、心底そう思っている。しかも、校
歌にいう「清らに、逞しく、さやかなる」若き俊英を教
育する楽しみを、私は三たび味うことができたのである。
君子の三楽には無縁であったが、教師の大きな一楽を得
たりというべきか。

 翻って本校百年の歩みを見るに、まさに巨大な天体の
運動に似て、悠悠また堂堂、たゆみなく狂いなく、常に
向上を求めて力強くというべく。あるいはまた、自彊不
息の大河の流れに似て、滔滔また清清、龍と渦巻いて、
昼夜をおかずというべく。かくして一世紀を閲したので
あるが、いずれの時代にあっても、県下中等教育の先頭
を切ってきたのである。それゆえにこそ、本校に寄せら
れた大きな期待と憧れを真撃に受け止めて、次の世紀に
向かっていよいよすこやかな第一歩を踏み出したいと、
改めて心に期した次第である。

   富山高等学校同窓会会報 第72号より(1985年)