オロチのあご骨



 昨年、四国をバス旅行する機会を得た。徳島県の剣山(1955m)が遠望できる場所に乗ると、ガイドが「この山には昔、大蛇がいた。」とまことしやかに紹介する。
 乗客は皆、感心して聞いているようだが、私ひとりは、この根も葉もない伝説がいまだに観光資源として生きているな、とおかしいやら馬鹿らしいやら、苦笑するばかりであった。

 話は10年ほど前にさかのぼるが、中央紙・地方紙の別なく全国の新聞が一せいに報じた記事がある。曰く、剣山の麓に大蛇がいるらしい、近くの住民の何人かは確かに見たというのである。早速、物見高い連中がオロチ探険隊なるものを編成して出発した、と報じている。

 ここまでは万事せち辛い昨今、たわいもないがユーモラスな話と許せよう。ところが、その月の終りごろから、大新聞の一つのM紙は、「百年前の剣山のオロチの写真、大公開」と大見出しをかかげ、また、A紙は、「龍蛇伝説に真実さ加わる」と報じ、当地のK紙まで「大蛇のアゴ骨か」と、俄然、大々的に報じ始めた。
 そして、麓の或る一軒の民家に伝わり門外不出の家宝としてまつられていたオロチのアゴを発見したとあり、一枚の写真を掲載している。大きな口をパカンとあけ、あごの上下とも恐ろしいほど鋭い歯だ。
 これを見て、なるほど日本にも大蛇がいるのかな、少くともいたのかな、と思ったのは、私だけではあるまい。記事・写真ともに疑う余地のないほど迫力のあるものであった。

 ところで、かつて富山高校に21年も勤務し動物学の研究一筋に打ちこんでいた先生で、坂下栄作という方がおられる。誠実さ、勤勉さは抜群であり、怒った顔を見せたことはない温厚な人だ。この先生が、私の質問に対して、言下に、
 「これは新聞の嘘だ。この写真は、サメのあご骨であって蛇ではない。」
 とおっしゃる。
 「自分はいま、動物の歯の研究をしており、サメのあご骨も数個持っている。新聞もひどいもんだ。」と言う。
 聞いて私も唖然とした。一紙たりとも疑いの記事を書いてない。言われてみれば、専門の学者に聞けば一発で判明することを、わざわざぼかし、神秘とナゾめかして、私を含めて全読者をだましたのである。
 真実を伝えるのが新聞の本来の使命のはずである。少くとも新聞記者の一人でも、疑問を持ち、科学的な探究心で、真実に迫ろうという気持があれば、話は違った展開をしたであろう。部数拡張競争のためか、読者へのおもねり記事をのせて一般大衆の気を引きながら、実は大衆を愚弄しているのである。その後、今に至るまで、オロチ騒動の訂正記事を見たことはない。

 現代は、情報時代というが、むしろ正に情報洪水の時代だ。しかも、真実を伝える情報は少なく、一犬が虚を吠えれば、万犬も負けずと吠え立てる。この時代に生きようとする人間には、流れてくる活字を鵜呑みにすることなく、何が真で、何が偽かを、的確に判断できる能カが必要である。たとえ文系方面に進むとしても、真実を掴むための合理的精神・科学的態度を是非とも身につけておかねばならないであろう。


   昭和61年度 「理数科研究収録」 はしがき 
         富山県理数科研究委員会
           委員長 木下周一
                                  1986年