そつ        たく     
 (1987年3月)

 先日、約30年前に本校で教えた期の一泊同期会に招待された。富山からと関西方面からの同期生が、土曜日の夕刻、温泉で落ち合ったのである。私は、彼等の高校二年時に一年間だけ担任した学年であったが、久し振りに会う顔もあり、本当に楽しい一夜であった。現在当面している仕事上の苦労を語る者、高校時代の失敗談を白状する者。部屋から一歩も出ず、用意されたカラオケ設備も一回も使わず、時にはしんみりと、時には涙が出るくらい腹を抱えて笑い、みんなの話は一晩じゅう尽きることがなかった。そして、どの諸君も、本校出身であることがこれほど世問から信用されるとは考えてもみなかったと言う。私はと言えば、本当に教師冥利に尽きる思いであり、久し振りの彼等との心の交流を楽しんだ。

 心の交流と言えば、漢字語源字典に依ると、「学」の字の語源は、學であり、二つの×は教える者と教わる者との交差、交流を表し、まわりは両者を囲む建物を意味するという。また、「教」の字は、 ヘであり、これまた左側の二つの×は師弟の交流を、右側は道具を表し、交流を通じて道具の使い方の伝達を意味する。従 って、大昔から現在に至るまで一貫して、師弟の交流こそ学校教育の根本であり、これを忘れてはもはや学校の名に値しないと言える。

  それなのに、最近は新カリキュラムに教材の精選、効率の良い教育機器と、やかましい。 一羽ずつ金網に閉じこめられたブロイラーの前を、ベルトコンベヤーで餌を運ぶようなものだ。なるほど栄養十分な飼料を吟味して作り、バラエティーをもたせて次々と提供し、食欲即ち学習意欲がなくても無埋に食べさせる。いかにも効率一辺倒であるまいか。

 本校に昭和19年から40年までの21年間、勤務された生物の坂下栄作先生は、まことに温和で研究一筋の方であ り、80歳を越えた今も動物の歯を研究し、全国生物学会で発表するという碩学の士である。この先生から、卵歯 というものの話を聞いた。
 卵生の動物、例えば鶏は卵から孵化するには21日を要するが、孵化の日が近づくと、 嘴の上に黄色の小さな突起物が出来る。これを卵歯(egg-tooth)と言い、卵の殼を内側から破るためであり、孵化後、4・5日で嘴から自然に落ちるという。あまり成熟していないことを嘴が黄いろいと言うのも、これから来たのであろう。

 この話で思い出すのは、中国の宋の時代に完成した碧巖録の中の第16則に出てくる、 という言葉だ。とは、ひな烏が小さな声を上げながら内から殻をつつくさまを言い、啄とは、親鳥が外から噌 でつつくさまを言う。
 何の合図もなしに、殼を破ろうとする両者の行為が全く同時になされることを言うのであ る。ちょうど禅の公案を解明しようと苦しんでいる修業僧に、ここぞという機会をのがさす教えるという、いわ ぱ阿吽の呼吸を言うらしい。自然界の親子の霊妙さと、それを観察して造った先人の言葉の玄妙さには、ただ感服するばかりである。

 私が新採教師として本校に着任した昭和23年頃は、宿直制度があり、独身というので、よく頼まれて代って泊 った。木造校舎のおんぽろ当直室の煤けた壁には、本校第2回卒、本県最初の大臣の南弘氏の額が、これまた古色蒼然として掲げられていた。それには、論語の一節の 
憤せざれば、啓せず
ひせざれば、発せず
 とある。国漢の先生にたずねる と、学問上の疑問を解こうとして、うんうんうなって苦しんでいる弟子でなければ、教え啓発してやる意味がないと言う。なるほどと合点しいつもこの額を眺めていた。

 学校という所は、師弟の交流が根本であるが、単なる交流でなく、学ぽうという意欲や大きく成長しようとい う願いを内に秘めた学生と、常に愛情を持って何としてでも教え導こうとする教師が、真剣にぶつかり合う所でなければならない。幸い、本校では、教師と生徒が膝をつき合わせて進路や生活全般を話し合うことが、県下随 一多いと言われている。悩む者と励ます者、正にであり、この良き伝統を今後と.も守ってゆかねばならないと、つくづく願う次第である。