異端者の歌 (HP作成者の注)
 「とやま文学」第6号 昭和63年3月(富山県芸術文化協会編集・発行)に載った文章です。とやまの先人から、異端の偉人、三人をあげています。
 石黒宗麿、瀧口修造、山田孝雄は、観方によっては正反対ともいえる面があります。ただ富山というルーツを同じくする一点で、相通じる気性があったと思うのです。

 異端者の歌


 十年一日徹異端  染泥葛衣綻且寒
 白片残陶堆塁々  墻頭柿子紅珊々

 比叡山の麓、京都市左京区八瀬のひなびた里のカヤぶきの家に住みついて十余年、ひたすら土と火の芸術を追求しながら作陶三昧の石黒宗麿が自己の心境を詠んだ七言絶句である。世人から異端者と疎んぜられても些かも意に介せず、貧苦を友とした毎日である。晩秋ともなれば肌寒さ一しおの泥だらけの粗衣をまとい、焼き上げた下から気に入らぬとて次々と壊してしまうので、白い破片は山のようであるが、多年の宿願である「耀変天目」(ようへんてんもく)の復元にかける情熱の火はますます燃えさかり、垣根の柿の実の赤さにも負けないくらいだ。思えば、二十五歳の時、虹のように輝く国宝の茶碗、中国宋窯の絶品の耀変天目に出会って心を奪われたことが、宗麿の一生を決定してしまった。窯の偶然の産物であって意識的に復元することなど全く不可能と言われればなおさら発奮し、以来粛々として三十年。油滴・木の葉・柿天目などの中国の元時代の技術を再現することに成功、唐三彩・絵高麗の技法をつかみ、.そして宋天目に劣らぬ気品高き名陶を作り上げ、昭和三十年人間国宝の指定を得るに至った。その後も質素な詰め襟服を愛用しニヒルな面影は変らず、一貫して古陶の美を追求したが、昭和四十五年逝去。松下幸之助が葬儀委員長となって西芳寺(苔寺)に葬らる。七十五歳。


石黒 宗麿

 新湊市美術館に常設展示。

 「耀変天目」の美に魅せられた話は、美の魔性を感じさせます。この漢詩は、自ら毀した破片の白さと、目標とする柿の紅とが鮮やかに対比され、目標を持った人の清々しい魂のあり方に感銘させられます。


 

 鳥肌たつ水晶立ちはだかる からだ半分だけは通れるのだが

 シュール・レアリズムの芸術思潮を日本に初めて紹介した美術評論家かつ詩人の瀧口修造の詩である。詩人の大岡信氏によれば、「睡眠中に見た夢の映像であり、読む人が勝手に理解すればよい。鳥肌の立った奇妙な水晶に邪魔されても入ろうとする世界、それは一体どんな世界であろうか。」と解説する。シュールの人の発想として、絵でも詩でも、物が本来はあり得ない所に存在する時、異常な緊張が生まれ、「戦慄的な美」が生ずるとする。平凡な銅像でも下水溝に立っていると驚きの対象となるという。まさに固定観念を打ち破り発想の転換を求めることにより、新しい美を創造しようとする、些かの束縛をも嫌う遊びの世界、自由の天地である。日本でよりもむしろ海外で高名なこのシュールの巨匠を、東京下落合のお宅に訪問する機会を私が持ったのは、昭和五十一年五月の宵であった。質素な書斎は、親友のミロをはじめ世界の作家や評論家から贈られた作品や書籍が満ちあふれ、無造作に積み上げられていた。戦時中は投獄され異端の芸術思想の転向をと迫られても、ついに屈することなく、戦後は世界の美術関係者から教祖の如く尊敬されても全く驕ることを知らない巨人である。私の眼前で、十歳の少年のようにはみかみながら、古里富山の思い出を小声で語す七十歳のやせぎすな老人が同一人とば到底信じられないくらいであった。しかし、富貴に背を向け、ひたすら美の世界を探求して来た人だけが持つ、まことにさわやかな人柄と、研ぎすまされた詩人の感性を、終始感ずることができた。昭和五十四年永眠。七十五歳。


瀧口 修造

 富山近代美術館(以下、近美)に常設展示コーナーがあります。
 20年前に、地方初の近現代美術の専門館として近美が出発する際の核となったそうです。

 2001年夏には、近美と、民会館美術館、入善下山発電所美術館の3つでネットワーク展示。今まで一端しか知らなかった瀧口さんの全貌を目の当たりにすることができます。

 正しかる道つきたてて日の本の国を再びおこさずあらめや

 文化勲章受賞者の山田孝雄は、家庭の事情で中学校を中退し、独学で小学校教員免許を取り、小学校に勤務しながら中学校教員の資格を得、兵庫や奈臭、四国の中学校を転任しながら、国文法の研究、特に助詞”は"の解明に没頭し、その成果を学位論文として提出した。これが後年、山田文法と呼ばれる「日本文法論」である。これにより昭和四年に文学博士号を受けたが、実は、明治三十七年に提出してから二十六年間という長い間、学歴もない異端者の論文というだけの理由で放置されていたのである。これが明らかになると、有識者の義憤は高まり、特に、徳富蘇峰は新聞紙上で学閥の横暴を激しく叱り、一方、博士の努力を絶讃した。その後も努力を重ねて国文学の最高峰を極め、昭和三十二年文化勲章を受賞したが翌年他界。八十五歳。


 さて、以上の三氏は、私の勤務していた県立富山高校出身である。同校は創校以来百年、あらゆる分野で秀れた人材を輩出してきた。しかし、ここに取り上げた三氏は、いずれもその生涯の途上において、体制側よりもむしろ異端者、アウトサイダーや一匹狼として疎外されたが、黙々とまた悠々、自ら望んで、困難な世界、信ずる道を、進んだのである。
 このように鮮烈かつ清例な生きざまは、全くわれわれ凡人の能くする所ではない。だが、鼓腹撃壌の世は結構としても、とかく安易安楽をのみ求める風潮に埋没する昨今であれば、私自身、暫くは三思して自己の生活を省みなければとて、敢えて記した次第である。

山田 孝雄(よしお)


 富山市立図書館に遺族から寄贈された文庫があります。自筆原稿や博士の書き込みのある書籍を見ることもできます。

 山田孝雄博士の研究のきっかけについては、教え子の中学生に「は」の用法を訊ねられ、従来の文法理論では回答できなかったからだという話が有名です。教育と研究の原点を示唆しているように思います。

 日本の三大文法論の一つが、中学生の質問に誠実に答えようとすることから生まれたというのは、勇気が出てくる話ではないでしょうか。