わが病床六尺メモ
なんちゅこっちゃ。
平成六年初め頃

 毎晩見る夢の中では、私の両手両足はごく普通に動き障害は全く無い。夢から覚めると、体全体がベッドに張り付いたように硬直している。というよりむしろ、セメントで固めたように動かない。達磨大師と似ているようだが、ベッドに垂直に座れないだけ、始末が悪い。口がきけるが、金縛りにあって病室の天井ばかり見ている、デクの棒というべきか。

 平成五年九月二十七日(月)の朝、私はいつもの通り富山予備校に行き、九時三十分から十一時まで授業をやり、富山駅発十二時のJRで金沢に向かった。十三時、下車。金沢駅西予備校での授業は十五時からなので、学校の筋向かいの六華苑で昼食をとろうと入っていった。玄関前へ来ると、駐車場から車が出てきたのでそれに気をとられ、ポーチの敷石の僅か六センチほどの段差に躓いてしまった。
 倒れてなるものかと、むしろ前に一、二歩走ったところで尻餅をつく。ポーチは九谷焼きの赤煉瓦が敷きつめてあり、その上を橇(そり)のように、両手両足を前に伸ばしたまま、物凄い勢いで滑ってゆき、植込みの赤煉瓦垣に顔から激突してしまった。
 眼鏡が飛び散り顔のあちこちが痛む。ふと気がつくと、両手両足がダラリとしていて言うこうことをきかない。まわりに集まった人に、向かいの予備校に連絡を頼む。「ローニンハナサクだから、六二の八七三九です」といった。しばらくして分校(ぶんこう)校長と事務長が来て救急車を呼び石川県立中央病院へ搬送してもらった。

 妻が呼び出され、手術は十八時から二十三時までの五時間もかかった。頸椎の第二から第六まで損傷していたそうである。担当の島先生の説明では、本人は気付かないでいたが、怪我する以前から後縦靭帯骨化症という病気だったという。生まれて初めて聞く病名である。そして、「今までに手足のしびれを感じていた筈であり、足がもつれたり、持っていた箸を落としたりしただろう」とおっしゃる。成程手の指先に少ししびれを感ずる日もあったが、六十歳を過ぎれば誰でも経験することと少しも気に止めなかった。

 ともかく手術は終わった。私には話はなかったが、これから重大な障害をもつだろう、多分四肢の自由を欠くだろうとは、全く知る由もなかった。首筋の手術の傷跡もつながり、富山へ移ってもよいということで、十月十三日九時出発することとなった。玄関前には民間救急車が来ており、世話になった看護婦さんが数人も見送ってくれた。島先生の最後の言葉が印象的だ。
 「奇跡を信じましょう」
かくて、ゴツゴツとした固くて狭いベッドにグルグル巻きに縛られたまま、妻に付き添われ富山市に向かった。

 富山県高志リハビリテーション病院は富山市下飯野の田園地帯にある。一階はリハビリ訓練室、二階は事務局、三・四階は主として脳卒中後遺症、最上階の五階は肢体不自由者の階であり、北側の私の病室からは眼下にJR北陸線が走り、その向こうに浜黒崎の松並木が見える。昔の北陸道である。その向こうに松林が広がり、それを越えて日本海が見える。
 「みなさん、おはようございます。○月○日○曜日です。六時になりました。着替えをしましょう」
 という放送で、いやでも応でも辛い一日がはじまる。

 さて、私たちはケイソン患者と呼ばれている。ケイソンとは頸髄損傷の略である。屋根から転落した大工の棟梁、バイク事故の大学生、自動車事故の青年など皆ケイソン仲間である。どの人も多少の差があるにしろ、毎日、生き地獄の苦しみの中に喘いでいる。いや正確に言えば、本人と共に家族も苦しみの毎日である。私で言えば、両手両足が全く動かないので、朝起きてから夜寝るまで妻の世話になりっぱなしである。洗面、食事、着替え、入浴、大小便、きりがない。涙が出ても拭くこともできない。目の前のテレビのスイッチひとつ自由にできない。

 子供の頃聞かされた地獄には火の山、針の山、血の池があるそうだが、ケイソン患者はまさにこの生き地獄にいるといえよう。
 長時間の正座に慣れない人は、足先に鬱血のためしびれと熱さをよく経験するが、ケイソン患者の場合は大変だ。私の場合は両手両足の皮膚全体がしびれ、燃えるように熱い。冬の間も病室の暖房は切ったままだし、足にはペラペラのタオルを掛けただけである。医師は「神経の不完全な麻痺による灼熱感であり、どうしようもない。皮膚呼吸も発汗作用もできず、これから夏になるともっと大変だ」とはつれない話だ。まさに灼熱地獄である。
 加えて、ケイセイという症状がある。痙撃の性と言う意味で、全身にひきつけが走る。倒れた頃は左足だけであったのが、最近は、体を触られても、咳やクシャミだけでも全身が数分間硬直状態となり、胸や腹がなめし革で締め付けられるようだ。
 次に針の山だが、両肩に痛みがあり、着替えのために横向きにされると体の重みが伝わって、釘を打ち込まれたように痛む。導尿や摘便のことを書くのは辛い。いささか持っていたプライドも糞尿にまみれ、血の池に溺れるようにあまりにも悲しい思いだからである。
 現世に地獄が存在するとは初めて知った。

 後縦靭帯骨化症による四肢障害は全国で年間約百件であるという。確率的に言えば一億人分の百人つまり百万分の一。ということは富山県で年間に一人がこの貧乏くじを引く計算になり、私がこれを引いてしまった。眠れない夜が続き、繰り返しくりかえし、後悔が湧いてくる。あの時なぜ転倒したのだろう。転倒しても、なぜ足から滑らなかったのだろう。いやなぜ六華苑へ行ったのだろう。それよりも、平成五年三月に学校を辞めているべきだった。次から次と後悔が続く。しかも痒れと火照り、痛みとケイセイにさいなまれ、深夜ひそかに病める老ライオンのように天井に向かって唸るのみである。

 何の罰であろうか、見当がつかない。割合順調に勤め、白分の思うよう働かせてもらった。残る人生は孫たちや庭の草や木を友とする平安な老後を願っていたのに。医師.から「君はケイソン患者であり一生四肢の障害は回復しない」と言われると、若ければ若いほど半狂乱になり、自殺まで考える人が多いそうである。
 確かに自分の今後や家族の負担を考えれば当然であろう、しかし私は、生来楽天的であり、物事を深刻に考えない性格からか、病気は辛いことは辛いが、なったものはいまさら仕方のないことであり、運命であると割合い平静な気持ちである。第一の人生はもちろん第二の人生も自分としてやれることはやったというひそかな自信を持っているからかもしれない。いまさらジタバタするのはみっともないとする、やせ我慢の美学が働いているからかもしれない。

 教え子の医師はまだ十年や二十年は大丈夫だったのにと、<やしがってくれ、別の教え子の高校教師は今まで経験したことのない世界に入ったのだから、その世界にいる人たちを勇気づけるようがんばってくれと激励してくれる。
 そのほか思いもかけぬほど沢山の教え子たちがこの老いぼれ教師を見舞ってくれた。また、机を並べて勤務していた先輩・同僚・後輩の先生方も引きも切らず見舞ってくれ、早く回復するよう励ましてくれた。だが、この病院に来て六カ月も過ぎたのに手足の動きはまことに微々たるものである。
 このメモも、天井から吊り下げたエキスパンダーのバネに僅かに動く腕を通し、金属性の装具に箸を付けたものを拳に巻き付け、バネの力に抵抗しながら、キーボードを叩いて、三カ月もかけてようやくこれだけ書いた。前途は暗澹として光もないが、老妻に背負われて生きてゆく他はない。
 それにしても、情けない。
 なんちゅこっちゃ。


西能病院の五省会ニュースに転載された。