我が青春に悔い無し

  前田栄


 私は昭和二十七年三月に当時の富山南部高等学校(現在の富山高等学校)を卒業した生徒の一人です。クラスは七ルームで担任の先生は木下周一先生でした。

 今、私の人生を振り返ってみますと何故かそのころの事が明るく楽しく輝いていたように感ぜられるのです。思えばよく遊び良く学び何に対しても一生懸命でした。

 高校三年になって担任が木下先生であることを知った時、何故かとても嬉しく、これは頑張らねば...と思ってしまったのを思い出します。今になって、当時同じクラスメートだった丸山牧子さん(現在石田恵一夫人)にその事をお話してみましたところ、全く同じでいらしたとのことでした。私だけでなく、皆、先生に対してそのような気持を抱いたようでした。

 先生には当時の解析を教えていただきました。皆熱心に授業を受けておりましたが、解らない事は、授業が終ってから廊下で、放課後には職員室へ質問に行きました。先生は私の記憶する限り、一度もいやな顔をなさることもなく、よく解るように教えてくださいました。理解できると、次の授業が楽しみになる、よく循環して又勉強する。お蔭様でハイポイントをとることができる。すると解析が面白くなってだんだん好きになっていきました。

 又、先生は、テストでは百点満点プラス二十点制ということをなさいました。授業で習った事を、更に深めて、より高度な勉強をした人が力を発揮できるように、通常の間題のほかに☆印の問題を必ず出され、その難問題を解いた人には、120点をあげようと言う訳です。☆印問題は難解で、テストの時間内に解くのはなかなかハードでしたが、いつもさらりと回答している人が少数いました。

 テストの採点が終った頃には、その模範生の答案が職員室の後ろの壁に張り出されました。回答のプロセスの要点、要点を、きれいな字で整理して書かれた余裕の答案を職員室へ見に行っては、良い刺激をいただいたものでした。熱血先生、周ちゃんは生徒にやる気を起こさせる魔術師でした。

 やる気といえば高校三年の運動会の事です。当時は統合の影響もあって生徒数も多く、クラスの数も沢山ありました。一年から三年まで縦割りで、クラスごとに赤白黄青緑紫…等等に分けて競技を競い合いました。私達は赤組の最高学年ということもあって、下級生を応援しながら七ルームー丸となって力一杯頑張り幸した。私も何故かリレーに選ばれて、必死に走ったのを覚えています。お蔭様で赤組が最高点を獲得し、優勝しました。木下先生もとても喜んでくださり、優勝カップでサイダーを飲んだり、頭にかぶって歌を歌ったり、いつまでも皆で騒いだ事が、鮮明に懐かしく思い出されます。その時の皆の感動の記念写真をおのせします。

 あの頃の事は、わが青春に悔い無しと言い切らせる私の思い出となっております。