木下周一先生を偲んで


 木下周一先生との出会いは、私が富山高校に入学した時である。当時木下先生は、富山高校生を対象とした私塾を開いておられた。 なんとか富山高校に入学したものの、中学での勉強に比べて格段に難しいと聞いていた高校の数学の授業についていけるか不安があったため、塾に行きたいと父に話したところ、富山中学時代の同窓生であった先生に父が頼んでくれた。当初は、数学だけ塾に通うつもりであったが、木下先生に英語も塾に通った方が良いと言われ、やはり富山高校生を対象にした塾を開いておられた角地豊蔵先生を紹介して頂いた。従って、私の高校時代の勉強は、高校での勉強とそれぞれ週1回の数学と英語の塾によって成り立っていた。

 毎週何曜日だったかは覚えていないが、木下先生のお宅に夕方6時にうかがうとすぐに2階に通される。部屋のテーブルの上に、数学の問題が数題書かれたノートが置かれている。それを2時間くらいかかって解く(正確には、解こうと思って努力する)のである。

 なにせ、問題は大学入試クラスの問題であるから、特に、高校1年次や2年次の時は2時間うんうんうなって考えても全く解けない。階下からは、木下先生が家族と楽しそうに夕食を取っておられる様子が伝わってくる。そこで、ついつい、同じ時間に一緒に勉強している大山君や藤井君(一部屋にこの3人)とおしゃべりばかりして時間を過ごすことになる。

 午後8時を過ぎると木下先生が2階に上がって来られて、「どうだ、できたか」と聞かれる。最初の頃こそ、恐縮して「できません」と答えていたが、そのうち慣れてきて、「いや、だめです」と楽しそうに答えると、「そうか」と言って、先生が、3人のうちの一人のノートに赤のボールペンで模範解答を黙々と書いてくださる。それを他の2人が赤のボールペンで書き写して解散という塾であった。私としては、赤一色の自分のノートを見て、これで数学の力がついたとは全く思えなかったが、2人とのおしゃべりが楽しくて続けていた。

 しかしながら、後年振り返ってみると、この塾は、2つの点で大変効果があった。ひとつは、木下塾での問題に比べると高校で出題される問題はやさしく感じられ、数学の苦手意識がなくなったことである。もうひとつは、高校3年生になると、それまで木下塾でやった問題に類似した問題(大学入試問題)ばかりが試験に出るようになって、自然にすいすいとどんな問題も解けるようになったことだ。

 高校に入学当初に数学に苦手意識のあった私が、高校2年生の時の進路選択にあたって、数学の教師であった担任の先生から、「君は数学の才能があるから、ぜひ理系に進学しなさい」と強く勧められたことも、散々迷ったあげく、適性テストによる適性率80%の結果が出ていた文型志望から適性率40%の理系志望に志望変更したにもかかわらず、無事現役で東京大学に合格できたのも、木下先生の塾に通わせてもらったおかげだと感謝している。

 当時の木下先生は、いつも明るく楽しそうにしておられて、学生に対して道を説くような気難しそうなそぶりは一度としてお見せにならなかった。後に先生の随筆やスピーチを拝読して、こんなに博学だったのかと驚いた反面と校長として文章を書いたりスピーチをする機会が多くなった際にいろいろ勉強されたこともあったのかなと推察している。

 先生が事故にあわれて、ほとんど四肢が動かない状態にあることを富山高校の同窓会報で知った時の驚きは言葉で表すことはできない。先生は、そのお人柄からして、そうした運命とは一番遠いところにある人のように思っていたからだ。人柄の良さで多くの人から愛され、運と才能にも恵まれて、順調に出世され、富山高校の校長まで勤められ、後は悠々自適の日々を過ごして、孫や多くの教え子に見守られながら老衰で大往生されるような人生が先生にはふさわしいと思っていたのは、私だけではないだろう。

 先生ご自身も、おそらく、病床にあって、「こんな目に会わなければならないような、どんな悪いことを自分がしたというんだ」と神仏に対して叫びたくなるような気持ちになったことが何度もあったと想像される。それでも、そうした気持ちを抑えて、「起きてしまったことは仕方がない。なんちゅこっちゃ。」と受け止めることができる心の強さは、生来のユーモア精神と楽天的な気性があったからこそと思う。

 人生の折り返し点を過ぎた私にとって、木下先生の運命はとても人ごとには思えない。私もいつ何時、病気や事故にあって木下先生と同じような状態になるとも限らない。その時に、木下先生と同じように自分の運命を従容として受け入れることができるかどうか、正直、自信はない。それだけに今のひと時ひと時を大切に生きなければという気持ちを改めて木下先生に教えていただいたような気がする。

 「虎は死して皮を残す」と言う。先生も含めて私たち教育に携わる者の最大の業績は「教え子」である。別に教え子が有名人になったり、偉人になる必要はない。それぞれが、社会の持ち場持ち場で人に信頼され、しっかりとその役割を果たし、「国の一隅を照らす国の宝」となれば十分である。その意味では、先生の遺徳を受け継いで、私自身が今後も努力し、しっかり仕事をすることが、先生に対する何よりの供養になると思っている。

                     新潟大学法学部教授 駒宮史博