木下さんの思い出
   佐々木光三

 木下さんとのお付き合いは、昭和40年代の初め、お互い県教委の指導課に籍を置いて行政の仕事をするようになってからですが、委員会を離れた後は別々の学校に勤めて、会議の折りにお会いする程度になり、頻繁に言葉を交わしあったのは既に40年近くも前のこと。往時壮々、当方の老毫度もとみに進んだ今日では、あまりハッキリしたことが言えない状態になってしまいました。

 とはいうものの、当時を思い起こせぱ、前後の脈絡もなく、あんな事こんな事が記憶の底から浮かび上がります。何かの折りに一緒に飲み、うかうかと城端線の終列車に間に合わぬ時間となったとき、そのことを知った木下さんの、即うちへ来いとのお言菓、それに甘えて泊めて頂いたことなどはその随一です。あるいはまた、問わず語りに話された木下さんの子ども時代のこと。殊に御父上が早く亡くなられた時、御母堂がなさった御訓戒など、当方も早く父を亡くした事もあったからでしょうか、感銘深くお聞きしたものでした。

 ご葬儀の折の弔辞は、それぞれの時期の木下さんを語って、暖かく爽やかな故人の人柄、その面影を彷彿とさせる、言葉は適当でないかも知れませんが、いい弔辞ばかりだったと思います。
 その中で旧制中学時代の木下さんについて、卒業の時、級友がみな木下さんを、(国)文学の方面に進まれるとぱかり考えていたのに、数学科というので驚いたという件りがありました。
 ああ、そういうことだったのかと改めて納得したような気持ちで伺った次第でありました。いつか晶さんから、自分は国語の教師だが、特に漢文などは父の実力に及ばないと思うことがある、という趣旨のことを聞いていたからでもありますが、やはり指導課時代の木下さんの言葉の端々に、これも不適当な言葉でしょうが、いわゆる「数学の先生」の先入観では意表をつかれるような、文学的な素養の広さ深さを感じることがあったからでもあります。古川柳なども折に触れて口にしておいででした。
 多分昭和43年頃であったと思います。木下さんが、指導課の部屋へ戻って来るなり、教育長に「たしなめられて、、、、」というようなことを呟かれました。(席が私の斜め向かいでした)何のことかと思って尋ねるとこんなことなのでした。

 県立学校の卒業式に県教委(教育長名でしたか)から祝電を打つ、その電文を起草をするように言われていたので、先ほど案を持って行ったのだが、ここは削れといわれた、というのです。しかしそこが一番の眼目だったから、おおいに抗弁したのだが通らなかった、と。まだ十分には納得しかねるという雰囲気が残っていました。
 今となってはその前後がどういう文面だったのかは記憶の外ですが、とにかくその削れと言われた部分は、「ゆくにこみちによらず」だったということでした。木下さんは、教育長(当時塩谷敏幸さんでした)がこの文言の意味するところを十分に理解していないからではないかと考えて、その趣意を説明しようとしたらしいのです。それを塩谷さんは遮って、そういうことではなく、この種のメッセージにはその種の引用はしないものだ、と、一流の断定的表現で押し切り、削除を命じたというような話でした。
※「往くに小径によらず」は、確かに父の座右の銘でもありました。息子の私には、「自動車通勤の心得さ。運転は慎重にな。」と冗談めかして言っていました。父がこの言葉に、特別な思いを込めていたということを改めて知らせていただきました。
 私がこの話を記憶しているのは、この如何にも木下さんらしい、また一方では如何にも塩谷さんらしい、両者のやり取りが目に見えるようなことだったからでしょう。しかしその木下さんらしさなるものも、当時の私に(今でもそうなのですが)、この論語の文言がまさに木下さんの人柄からにじみ出て来るものとぴったりの表現、と思えたからであるような気がします。
 いささか飛躍的な物言いになりますが、久しく富山県の教育委員会は「人間の生き方を考える」教育ということを基本方針として謳っていました。当時ももちろんそうだったと思います。(因みに、佐藤一斎の言志録に、進学ということについて述べた部分があります。もちろん「ゆくにこみちによらず」と書いてあるわけではないが、しかし志を喪って知識だけを身につけても、それは無意味な飾りに過ぎないといった趣旨が記されています。
 人間としての基本的な姿勢、人としての生き方を問うことが一斎の言う「進学」の大前提だったことは間違いありません。何の話だ、と言われるかも知れませんが、木下さんならわかってくれるような気がします。)
※「人間の生き方を考える」
 当時の塩谷教育長は、「精神開発室」を提唱し、設置した方でもあります。経済開発の滔々たる流れの中で心田の開発を目指そうとした時代を超える先見性は、梅原猛氏、司馬遼太郎氏など日本を代表する文筆家からも注目され、それが機縁となって数回の来富につながったことは特筆されていいでしょう。

 父から聞いた塩谷教育長の話は、いろいろありますが、なんだかとても懐かしい響きに満ちた話ばかりでした。
 教育委員会に入ったばかりの頃、仕上げた起案を持って教育長室に入っていって、教育長印をいただけませんかと言ったら、「それは総務課にあるよ。そんなことも教わらなかったのか。」といわれて大変ばつが悪かったという失敗談。
 県庁に登庁する時、守衛さんが丁寧に挨拶するのでわけを聞いたら、塩谷教育長と間違えられていたこと。その日、教育長も出る会合に遅れて参加し、自己紹介をしろと言われ、そのエピソードを話したら、塩谷教育長から
 「外観は似ていても、マージャンの腕はかなうまい。」
 と言われて、早速雌雄を決したという話など。
 何ともたわいがないが、温かい思いに満ちたものと聞いていました。父は、塩谷教育長にひそかに私淑していたのだと思います。
 だからこそ、たまさか「往くに小径によらず」の文言に共感してもらえなかったことが納得できなかったのかもしれません。こうした志を述べる仕事の仕方は、一面うらやましくもあります。
 教育の本義を前に出したもの言いは、いろいろな場面で、軋轢を生んだかもしれません。ただ、教育への志を持つ指導者と、その思いに応えようとする部下がいた時代は、今もなお、大きな魅力に満ちているように思います。
 県立高校の卒業式に当たって、教育長がメッセージを贈るのであれば、このくらいのことは言っておかねば、と木下さんは考えたのだと思います。「役人」嫌いの教育者木下さんと、行政マンとしてのキャリアから、公文書の表現を考える教育長の観点の違いで、私には当時も今もどちらがどうということは出来ません。しかしメッセージに素志を託そうとして果たせなかった木下さんの気持ちには大いに共感できたのです。その後私の中では、木下さんといえば、先ずこの「事件」を思い出すのが常でしたが、その後残念ながらご本人と論語やその他について話す機会は全くありませんでした。

 機会を与えられて木下さんのことを書かせて頂くことになりましたが、私には、やはりこれが一番懐かしい思い出として残っています。言ってみれば生涯の一瞬間、些事の断片に過ぎず、いま故人に聞けば、ああそんなこともあったかな、と、あのからからという笑いで片づけられるでしょうが。
 改めてひたすらご冥福を祈るばかりです。