木下周一さんのこと
三 輪 辰 郎

 木下周一様がおなくなりになられたとのご連絡を頂きました。
 木下様の生前を偲び、謹んで、心から哀悼の意を表するとともに、遥か筑波の地から合掌を捧げ、御霊の平安と御冥福をお祈り申しあげます。

 木下さん(以下、親しみををこめて、このようにお呼びすることをお許し下さい。これが、私には最も適切と感じられるからです)は、金沢高等師範学校数学科の第一期生でありました。私は同級生の一人です。

 金沢高等師範学校は、第二次大戦の真っ直中、昭和十九年四月に開校した学校で、戦後の学制改革によって、金沢大学に統合されました。言ってみれば、非常に生命の短かかった学校です。
 私は、戦後の昭和二十年秋に編入学を許された中の一人ですので、戦時中の木下さん始め皆様が大変御苦労をされたことは、聞かせて頂いただけでしたし、また、御一緒した期間も二年余りに過ぎず、五十年以上を越した今、教室等でどんなふうに過ごしたかを詳しく思い出すのは難しいことであります。しかし、はっきりしているのは、木下さんが大人(たいじん)の風格を持っておられたことです。悠揚迫らず、しかも、明るく、おおらかな態度で私どもに接して下さったのです。まさに、お人柄という言葉がぴったりであったと存じます。
 木下さんは、高等師範卒業後、郷里の富山県にお帰りになり、長く県立の高等学校に勤務され、進学等を含めて大きな業績を挙げられたと伺いました。私には、木下さんのお人柄なら、当然のことであろうと思ったものです。教育者と言われる人が持つべき最も大切なものを、木下さんは、そもそもの始めから持っておられたからであります。

 私は、郷里金沢で暫く教師をした後、東京に出、東京、大阪、筑波で勤務しましたので、その後、木下さんとの直接の交流は少なかったように思います。昭和四十年代の終わりか五十年代の始めかはっきりしませんが、木下さんが県の指導主事をしておられた(と記億しております)とき、招かれて講演に伺ったことがあります。いわゆる数学教育現代化の動きがわが国の数学教育界を揺り動かし、教師の研修が広く行われていたころでした。私の拙い講演の後、木下さんが、短いながら、“「するべきであるshould」が、必ずしもそうなっておらず、「してもよい」になっているではないか"という意味のコメントをされたことが、強く記憶に残っています。学校数学を根本から見直す必要のあった当時、教育現場の指導に苦労しておられた木下さんのお気持ちが現れた発言ではなかったろうかと、改めて思い起こしております。
※ 「すべきこと」を「してもよい」と言い換える風潮について、常々父は懸念していました。
 義があれば率先して取り組む勇気をもつこと。意気に感じることの大切さを感じています。