弔 辞

 「木下 周一免生」と改まってお呼びするより、、「先輩周ちゃん」と声を掛けたい思いです。しかし、その声に応答がなく虚しく響くばかりのこの時を迎えるとは、誠に哀惜の念深まるものを感じます。
それと共に1945年以来60年に及ぶ間のご指導ご厚誼の数々を想起し、心から感謝し御礼申し上げます。

 省みて、1945年1月雪に埋まる金沢高師中村町校舎で受験生の世話をしている先生のお姿、足立教授の「木下君」と呼ぶ声音に「わが先輩木下さんは先生方から多くの信望を得ている」と直感し頼もしく思いました。幸い私も金沢高師で学ぶ身となりましたが、物のない時代で教科書をお借り
するなど、多大のお世話を受けました。
 金沢高師卒業生による三嶺会にとって先生は掛替えのない方であり、お身体の都合が悪くなって会合には出席されなくなっても、常に会の中心に存在していた感があります。

 高師卒業後、当時の富山南部高校(現在の富山高校)に勤務され、ここで多くの優秀な生徒を育てられました。教科指導では文字通り数学科のエースであり、卓越した力を発揮されましたが、そのバックには教材研究に徹する精進があったことは、共に問題集を作り試験問題を検討した際の先生の眼の輝きを知る私にとって忘れ難いところです。また、ホームルームや部の活動では魅力ある先生の本領を遺憾なく発揮し、先生の周囲には常に多くの生徒が集まっていました。
 私たち若い教師仲間にとっては、常に一歩先を歩む先生が、なかなか超えがたい大きな存在・一つの目標でありましたが、一方親しみ易い兄貴分との思いもあり、富山の街を彷徨って夜半に及ぶこともありました。

 その後、先生は教育行政と学校とを往来されますが、一見畑違いと目される分野においても持てる力を十二分に揮われ、勤務した学校では着実に成果をあげてこられました。その業績を支えたのは、先生の豊かな資質はもとよりですが、教職員・生徒そして保護者からの敬慕と人の和でありました。先生の放つ太陽の光が、周囲を明るく照らし、集まる人々に煦かい思いを懐かせたように感じられます。一面、繊細に物事を感じ取り・人々に心を配る細やかさを見逃すことはできません。

 先生は、在職最後再び富山高校に校長として勤められ、学校創立100周年を迎えられます。記念館建設など多くの事業を成功させましたが、私の印象深いことは、富山市公会堂での記念式典でありました。壇上には校長他数人という設営が厳粛と緊迫を際立たせ、女子生徒による進行アナウンスが和やかな雰囲気を醸し、記念賛歌が学校の新たな命の流れを謳う。学校の新世紀への希望と意欲を具現し演出されたと思います。

 このような、絢燗と光り輝く先生の生涯にとって、この10年は他者の想像を絶する痛苦の時代であったことでしょう。先生は身体は不自由でも、時代の流れは吸収し、教育について思索しておられました。しかし、時にお伺いしても言葉少なく、じっと何かを耐え忍んでいる姿でした。ただ、奥様・子どもさん方・お孫さんたちが、手厚く看護してくれることを喜び、最近は介護の人たちの親切に感謝して1の言葉が印象的でありました。


 4月15目、牧野好男先生と共に訪れたときは、今までになく語が弾み昔の赤提灯の味噌汁のうまさにまで話題が及びました。その晴やかな話しぶりに、先生が長い険阻な山坂を越え見晴らしのよい高台に立たれたかと密に喜ぴを感じておりました。ところが、忽然と去られたとの報に接し、新緑鮮やかな山野は一転枯野に化した思いであり、虚脱と寂蓼の裡に佇む己の姿を見出します。
 今は唯、わが心に棲む「先輩周ちゃん」に呼びかけるのみであります。そのような機会(おり)、時に明るい笑顔を時に厳しく真摯な眼差しを向けてくださることを、切に念願しつつ、お別れの言葉とします。

    2003年5月19日
                             黒澤景壽