花 の 木 の 下

牧 野 好 男


 昭和23年、学制改革の混乱期に、木下周一先生との出会いがあった。7歳にして席を同じうせずの教育を受け、旧制最後の入学生として、戦後富山中学校に入った私たちにとって、男女共学は学校生活を根底からくつがえすものだった。小学区制への移行によって多くの友人を失い、かわりに女学校や実業科からの編入者がなだれ込み、太郎丸の校舎は生徒でふくれあがった。同時に、先生方もいっぺんに増えた。そのなかに、ひときわ目立つ長身白皙の青年教師がいた。それが木下の周ちゃんだった。

 富山南部高校併設中学校3年生という、あじけない身分に変わった私たちは、かつての武道館をしきってつくられた仮教室に押し込まれ、室内が暗いことと雑音に悩まされながら授業を受けた。安普請のためか床のきしみがひどく、その上、壁が薄板一枚のため隣室の声がつきぬけてくる。クラス担任の平井良一先生が、「木下先生の声はでかいからのう」と、自分の大きなだみ声を棚に上げて言ったのでおかしかった。

 併設中学校からところてん式に進学した私たちは、昭和27年に富山南部高校を卒業した。学制改革前の同期生とひっくるめて、今は富山高校第64回生と呼ばれている。600名を上まわる同期生のうち、木下先生に数学を教わった者は私もそうだったが半数以上はいたと思う。しかし、稲垣英一君のように、2回も担任をしてもらった者は数少ないだろう。(彼は後に、周ちゃんが富山東高校長のとき、PTA会長を務めたりしたので、よほど縁があったものと思われる) 私は、一度も担任をしてもらわなかったが、2年生の頃木下クラスに入り浸っていた記憶がある。今思うと、2年14ルームのわが青柳クラスと16ルームの木下クラスの仲がよかったのは、担任同士の馬が合っていたせいかもしれない。

 女子生徒にもてた木下先生だったが、それ以上に男子生徒の間で人気があった。周ちゃんという愛称で呼ぶとき―その頃の先生方のあだ名には随分ひどいのが多かったものだが―生徒たちは皆親愛の情とともに、尊敬の念を込めていたように思う。周ちゃんの数学の授業は、大きな声でまくしたてるように言いつのり、最後に「わかったか」と言う。実に情熱的であった。迫力があった。おそらく何十年たってもそういう授業だったのではないだろうか。

 そのような、単刀直入に相手に迫るような言い方を久しぶりに思い出したのは、富山高校百周年記念式典での学校長式辞であった。木下校長が、富山市公会堂の壇上でスポットライトを浴びながら、富山中学創校時の逸話などをとうとうと話されたときの様子は、私の脳裏ふかくに刻まれている。そういえば、周ちゃんのオハコだった「がまの油売り」の口上も似ており、ふうてんの寅さんも顔負けといったところで、宴会をいやがうえに盛り上げたものだった。

 木下先生が生徒から慕われたのは、剛直で一本気な人柄に加えて誰に対してもわけへだてをしない公正さが信頼されたからだと思う。男子生徒は、その頃まだ残っていた質実剛健の気風、富中スピリットの権化のようなものを、木下先生の中に見出し、それに惹かれていたような気がする。教え子ばかりでなく、教員仲間の誰からも敬愛されていたことは、その後私も母校に勤めて、長く仲間の一人として付き合っていただいたために、よく知っていることである。

 ふり返ってみると、教員になってからも、生徒だったときも、変わらぬ周ちゃんであった。誰が見ても、いつ見ても、同じ周ちゃんだったろう。普遍的な個性というものがあるとすれば、周ちゃんがそうだった。こんなふうに言うと、仮面をつけたような人間のように思われるかもしれないが、まったく逆である。喜怒哀楽がすぐ顔に出た。怒るときは、本気になって怒り、顔が真っ赤になった。自分を隠さない率直さ、うらおもてのないところが周ちゃんらしい周ちゃんだった。

 達磨さんが好きだった。髪の毛が後退するにつれて、彼の描いた達磨大師に風貌が似てきた。豪放磊落であったが決して粗野ではなく、文学や芸術にも関心が深くて人の心の動きに敏感なところがあった。漢詩を好み、かつての日本男子が懐いていた美学と倫理観に通じるものをもっていたと思う。

 私にとって木下先生は、人生の師であるとともに、遊びや酒の仲間でもあった。私がまだ大学生だった頃、富山高校の宿直室へ押しかけ、麻雀をしたことがある。周ちゃんもまだ初心者だったらしく、数学の先生なのに点数がよく数えられなかった。教員になってからも何回かお手合わせをしたが、周ちゃんのは典型的なガメ麻雀で、いつも満貫ねらいだった。景気よく振り込んでワッハッハと大笑いをする楽しい麻雀だった。ずっと後に、先生が富山高校長のときだったと思うが、教員の地区レクリエーション大会の麻雀の部で個人優勝し、てれながら大きな体を小さくして賞品を受け取っておられたことを思い出す。いつのまにか、大分上達されたようだった。

 酒のほうもまた楽しかった。自家用車が普及する前の話で、富山高校では飲むグループができており、私もその末席に加えてもらっていた。
忘れもしない昭和34年9月26日の深夜、私と周ちゃんは西町あたりから家路についた。歓楽の後の哀愁とまではいかないが、飲み疲れて淡い後悔に身を任せながら、電車通りをよろよろと歩いていた。ところが、南田町付近だったろうか、急に突風が吹きつのり、前へ進めない。周ちゃんが引きずっていた自転車もろとも倒れそうになるので、私は必死になって荷台にしがみついた。自転車ごと二人の体がもち上がりそうになる。悪戦苦闘しながらなんとか家にたどり着いたのだが、下手をすると新聞沙汰になるところだった。翌日の新聞を見て驚いた。夕刻名古屋付近に上陸した台風が、なんと5千人もの人を殺し、午前0時過ぎに富山湾へ抜けていったという。周ちゃんとともに格闘した相手は、史上最大の犠牲者を出した悪名高き伊勢湾台風なのだった。

 今年の4月15日、黒澤景壽先生と二人で、木下先生のお見舞いに行った。奥様はいつものように、笑顔で温かく迎えてくださる。周ちゃんは、いつも以上に嬉しそうに昔話をされた。もちろん、いっしょに飲んだ日々のことも。私は、また伊勢湾台風の夜のことを言った。これまでに何度語ったことか。

 この日の周ちゃんは、苦しみを忘れたかのようによくしゃべった。「地獄の苦しみ」(「なんちゅこっちゃ」)から解脱できたとは思えない。しかし、この後一ヵ月で旅立たれた天国か浄土に大分近づいておられた、肉体を超越しておだやかな心境に達しておられた、と今になって思うのである。私はそのとき、「顔施」という言葉を思い出していた。何もできない病人でも、笑顔で応えることができる、これは立派な布施であるという。周ちゃんの場合はこのおしゃべりが布施になるのだな、そう思いながら、彼の口元をじっと見つめていたのである。

 この日、周ちゃんが思いのほか元気だったことを喜び合いながら黒澤先生と別れた後、私はもう一度周ちゃんのところへ戻った。あることで、先生に迷惑をかけることをおそれての行動だったのだが、今から思うと、虫が知らせたのだったかもしれない。周ちゃんは、私の言い分を黙って聞いた後、一言、「おまえ、まだ高校生みたいだぞ」。私はいっぺんに生徒の頃に戻って言い分を撤回したのだが、この年になって叱られたことが嬉しかった。しかしそれが、私への最後の言葉、遺言となってしまった。

 私は、若い頃から歌うことが好きだった。周ちゃんは富中校歌が大好きで、よく肩を組んで歌ったものである。20年ほど前、私が「良寛さまのうた」の演奏会に出演したとき、後方の柱の陰でじっと私の独唱を聴いてくれている周ちゃんが、ステージの上から見えた。本人はこっそりのつもりでも、周ちゃんは目立つのである。周ちゃんは、私の歌の一番のファンだったと、私は思っている。そういえば、富山高校出身の落語家、三遊亭良楽の後援会に出かけて行き、そこで周ちゃんと鉢合わせをしたことがある。卒業生の活躍を喜び応援するという点で、私と共通するものがあり、私の歌の場合もそうだったのかもしれない。

 数年前ことである。私は一人で周ちゃんの病床に訪れ、「良寛さまのうた」を柱の陰で聴いてくれたことを思い出し、あのとき歌った合唱曲「酒を恋う 十九首」(黒坂富治作曲)に話が及んだ。十七首目に「花の木の下」という言葉があるので、「これ、木下先生の歌だよ」と言って、枕もとでそれを小声で歌った。その歌は、

  ひさかたののどけき空に酔(ゑ)ひ伏せば夢も妙なリ花の木の下 良寛

 最後の「花の木の下」は、二度繰り返して歌って曲がおさまる。私は二度目の途中で胸がいっぱいになって声が出なくなってしまった。私の脳裏に、百周年のとき壇に上がった木下先生の晴れやかな姿が浮かんだからである。その時の先生の胸のうちは分からなかったが、同じ場面を心に描かれたのではないかと思っている。今でも私は酔ったときにこの歌を口ずさみ、そのつどスポットライトを浴びた周ちゃんが目の前に現れる。実に、花の木の下がふさわしい人だった。花も実もある人であった。

 訃報を聞いたその日に、64回同期の稲垣、高島両君といっしょに弔問に訪れた。10年もの間看病された奥様と晶さんには、ただ頭を下げることしかできなかった。木下周一先生の安らかなお顔を拝見したとき、あのよく動いていた口元は、貝のように真一文字にむすばれていた。

 いたつきて「なんちゅこっちゃ」と世をすねし君はやうやう貝となりたり 好男

よくぞ苦しみに耐えられたとつくづく思う。随筆「なんちゅこっちゃ」には後悔の言葉が多い。しかし、その後、しだいに肉体を超越した高い境地に到達された。「やうやう」はご本人の心境を思うとき、他の言葉が見つからなかったのである。