父が持ち去った映像

 父が亡くなってから我が家では、幾つかの壊れモノがあった。
 亡くなったちょうどその晩に、九年間の自宅療養中ベッドの傍らで父の無聊を慰めていたテレビが壊れていた。音声は聞こえるが映像は全く出てこない。

 父は以前からテレビでのスポーツ観戦が好きだった。全身不随となり、ベッドから動けなくなってからの楽しみといえば、訪れた人と話すこと、テレビを観ること、新聞を読むことに限られてしまった。ベッドの上に吊り下げた新聞のテレビ欄をなめるように探し、大相撲中継はもちろん、マラソンやバレーボール中継を必ず見ていた。
 特に野球は衛星放送にチャンネルを合わせてもらい、大リーグ中継を見ていた。野茂投手のデビューからイチロー選手、松井選手まで次々に大リーグに現れる日本人選手の活躍が楽しみだった。事故の後遺症で片方の耳しか聞こえないため、傍らでは話もできないほどの大音量にしてあった。自力ではスイッチの入り切りさえできないので、来客がある時以外は、朝から晩までつけっぱなしのことが多かった。
 九年間酷使したテレビだから、そろそろ換え時だねとは話していたが、その日まではきちんと見ることができたのだ。まるで役割が終わったことを悟ったとでもいうような壊れ方だった。お父さんが持っていったのかねえと誰かが言った。

 自宅療養を続けた年月、父は、お医者さんや看護婦さん、そして家族にも、自宅療養としてはこのうえない手厚い看護だと感謝していた。少なくとも病院よりははるかに心はやすらかだったようだ。とはいっても、寝返りすら打てない痛みと苦しみは本人以外、想像さえできないことに変わりはなかった。

 全身の筋肉が硬直した父の体をマッサージする時は、そっとなでるように始めなければならなかった。敏感になった父の筋肉としばらく対話しているうちに、硬直が次第に解け、柔らかくなってゆく。そうやってはじめて関節の屈伸を行うことができた。急に揉みほぐそうとすると、とたんに全身に痙攣が走り、筋肉が反乱を起こす。そうでなくてさえ、日に何回かちょっとしたきっかけでこうした痙攣が走った。あらゆる筋肉が「こむら返り」を起こし、全身を締め付ける。父は、そのつらさをじっと受け止め、よほどのことがないと口に出さなかった。

 その日も父は、割合に普通に過ごしているように見えたという。ただ、前日の夕方には胸の締め付けがこれまでになく激しく、居合わせた叔母の前で、珍しく苦痛を口に出したという。お医者さんに来ていただき診てもらった。
 そんなこともあったからか、その日は朝からあまり食事を摂りたがらなかった。母が夕食を食べさせたあと父の顔を拭きにいくと、真ん丸な眼を見開いて、これまでにないほどまじまじと母の顔を見たそうである。どうしたのという問いにも何も答えず、母が片づけ物を台所に運んで帰ってくるわずかの間に、眠るように静かにこときれていた。
 来てちょうだい。お父さん、もう往ってしまわれたかもしれん、と母は家内を呼んだ。隣から駆けつけた家内が手をとった時には、最初はかすかにあった脈もどんどん弱まり消えていったという。泣き出しそうな家内からの電話を受けて、私が職場から戻った時には父の体はまだ温かだった。が、呼吸はとうに止まっていた。

 家族で父のベッドを囲み、あまりに突然のことに茫然としていた。自宅療養の坦々とした暮らしの中で、誰もが父はまだ何年も生きるものとばかり思っていたのだ。あとからあとから涙があふれだした。子どもとしてし残したことがあったのではないかという悔いと悲しみばかりが湧いた。仕事にかまけ、俗事にかまけ、きちんと父と向き合っていただろうかという自責の念があった。父の体からは、少しずつぬくみは消えていった。真ん丸に見開いたという眼はもう二度と開かない。

 寝たきりになってから、全てにおいて自由が利かなかった父だったが、今となっては苦しみに耐えて、最期の瞬間を待っていた、予感していたと思えてならない。不自由な体のくびきから解かれる最期の瞬間、父の眼に、九年間付ききりで介護してきた母の姿はどう映ったのだろう。まなかいの奥に焼き付けて、向こう側の世界に持っていったのかもしれない。