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(1)謎のシロ

ユダの祝福(創世記49章8〜10節 )

Lion Cub (Kfir) ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。
あなたの手は敵の首を押さえ
父の子たちはあなたを伏し拝む。
ユダは獅子の子。
わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。
彼は雄獅子のようにうずくまり
雌獅子のように身を伏せる。
誰がこれを起こすことができようか。
王笏はユダから離れず
統治の杖は足の間から離れない。
ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
 これは父祖ヤコブがその12人の息子たち(12部族の族長)を集め、それぞれについて託宣しているところです。
”新共同訳聖書”では副題が”ヤコブの祝福”になっていますが、ルベンやシメオン、レビなどはむしろ呪いの言葉が書いてあり、 ”祝福”とは言えません。
 さて、12人の兄弟のうちで最も祝福されているのはこのユダです。何しろ兄弟が伏し拝むというのですから。 ユダは獅子の子(ゴール アルイェー)と呼ばれています。ユダ族の記号は獅子でした。 黙示録5章5節では、イエス・キリストを”ユダ族の獅子”と表現しています。
 10節で”ついにシロが来て”という表現があり、”シロ”をどう解釈するかというのが旧約聖書の謎の一つです。


 たとえば”シロ”を固有名詞としないで、シリア語訳聖書やタルグム(アラム語訳)の”それを持つ彼”として解釈される場合もあります。 英語の聖書(NRSV,RSV,NIV,TEVなど)には、そのように訳しているものもあります。 しかし、それらを含め、ほとんどの聖書がダビデ王またはその子孫なるメシヤ(救い主)を示唆していると解釈しているようです。
 もう一つ言えることは、この祝福の言葉には「国家、王」という意識が濃厚ですから、とても流浪の1家族から出た発想とは思えません。 早くても12部族が連合した時期(ヨシュア記24章 シケムの契約)以降の著作だと思います。

(2)12部族のシロ
 
 12部族の宗教連合(アンフィクティオニー)の中央聖所は、もともとヤコブが祭壇を作った地(創世記34章)シケムにあり、 おのおのの部族が1〜2ヶ月ずつ交代で世話をしていたようです。 シケムの神殿は石造りで、間口21.2メートル奥行26.3メートルと大きく、高い塔を持ち、地下壕まで持っていました。 ソロモンの神殿(本殿)が間口9メートル高さ14.5メートル奥行き27メートルでしたから、シケムの神殿はそれを上回る規模だったことになります。
ここに祀られていた神はエル・ベリト(またはバアル・ベリト)、「契約の神」と記述されています。ヤハウエの神殿ではなかったようです。

 士師記9章ではギデオンの息子アビメレクがシケムにやってきてこの神殿から兄弟殺しの軍資金を強引に調達し、 70人の兄弟(つまり、ギデオンの息子たち)を殺しました。また、自分に反対する輩を神殿の地下壕で焼殺し、町を破壊し、自分もそこで殺されたという記事があります。
 ヨシュア記のエリコ征服の時は、ギルガルに神の箱が運ばれ、そこで過越祭が行われたとされています。祭儀はヨルダン川底から運ばれた12個の石で囲んだ聖所で行われました。幕屋ではありませんでした。面白いことに戦闘直前なのに男子全員に割礼が施されたとされています。もしそれが本当なら、痛くて戦闘どころではなかったでしょう。
 士師記18章ではシロの神殿に移動しています。士師記21章にはシロで年ごとに(年一回、という意味らしい)主(ヤハウェ)の祭りが開かれていたという記事があります。娘たちが集まって、神殿から躍りに出て来たという、祭礼の様子が書かれています。 これは、たとえばユダヤの3大祭り(過超、仮庵、七週)の祭儀とは回数も祭礼の様子も異なっています。

 シロの「神殿」はサムエル記上2章22節の記事で移動可能な”臨在の幕屋”であったことがわかります。 シケムの神殿とシロの幕屋。両者のコンセプトには根元的な違いがあったと思います。この転換のダイナミズムはヨシュア記24章に記述されています。

 幕屋については出エジプト記33章7〜11節にその起源(最初は普通の天幕を利用した)、35章4節から38章末に臨在の幕屋やその構造や材料、祭器などが詳細に記されています。(後代の追記と思います)
全体の寸法は高さ4.5m幅4.5m奥行13.5mのシュー・ボックス型です。これに亜麻布や獣皮のカバーを掛けます。 幕屋に使われた金属は、新共同訳聖書の度量衡換算表で計算して金1トン銀3.4トン青銅2.4トン計6.8トンです。金属でこれだけですから、木材や布、備品を加えたら十トンを越えるでしょう。
これだけの荷駄を運ぶのは大変です。今なら大型トレーラー1台に納まる重量としても、ロバでは追いつきません。牛車6台・牛12頭で引いたと聖書には書かれています。解体/組立にも時間がかかり、おいそれとは移動できなかったのではないかと思います。
 それにもまして大変なのは金1トンという分量です。グラム1000円として10億円、糸に使用した染料も貴重品ばかりで、とても”着の身着のまま”の放浪民が捻出できる金額ではありません。
 イスラエル民族がシナイを彷徨していた民数記9章”雲が幕屋を覆う”の頃は、短いときは数日間隔で幕屋を移動しています。大がかりな幕屋では大変です。最初は多分住居用のテントを流用した簡素なものだったでしょう。
カナン定着後、幕屋の移動間隔がかなり長くなり、鋳造/縫製技術を習得し、攻め滅ぼした町々からぶんどった金銀などを利用してだんだん豪華なものになっていったと思います。

ベテルの契約の箱(士師記2章26〜27節 )

 イスラエルの人々は皆、そのすべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。 イスラエルの人々は主に問うた。――当時、神の契約の箱はそこにあり(後略)


 幕屋の用途は当初は会見の幕屋、つまり軍事的・政治的な判断を仰ぐための占いの場所であったのが、祭礼を行うための場所に変容していきました。 なお、幕屋とその祭礼はシケムの神殿破壊以前から並列的に存在し、契約の箱はギルガル(ヨシュア記10.6〜)、ベテルを経由してシロに置かれていたものと思います。

神の箱が奪われる(サムエル記上2章12〜14節 )

 エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。 この祭司たちは、人々に対して次のように行った。だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやって来て、 釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした。彼らは、シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った。


 シロでの祭儀を読んでみると、出エジプト記などの祭儀律法と少し違うことに気が付きます。肉を”煮る”(バウシェル)とか、釜・鍋などを使っているなどがそうです。 このような方法は、他では書いてありません。
 シロがペリシテ人に滅ぼされ、神の箱が奪われたのがBC1020年頃、神の箱は7ヶ月ペリシテのアシュドドに留置されたのち、ベト・シメシュの町に返され、キルヤト・エアリムを経て最終的にエルサレムに運ばれたのはダビデが統一王国の王になったBC993年以降ですから、 30年ほど神の箱はあっちこっちしていた事になります。この間のある時期は祭儀が行えなかったものと思います。また、祭儀法典が成文化されたものとして完成したのはヨシヤ王の宗教改革(BC621年)の時です。 シロ滅亡から400年も経っていますから、この間にいろいろな変遷があってもおかしくありません。

神の箱が奪われる(サムエル記上4章1〜10節 )

 イスラエルはペリシテに向かって出撃し、エベン・エゼルに陣を敷いた。一方、ペリシテ軍はアフェクに陣を敷き、 イスラエル軍に向かって戦列を整えた。戦いは広がり、イスラエル軍はペリシテ軍に打ち負かされて、この野戦でおよそ四千の兵士が討ち死にした。
(中略)「主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。」 兵士たちはシロに人をやって、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから担いで来させた。エリの二人の息子ホフニとピネハスも神の契約の箱に従って来た。 主の契約の箱が陣営に到着すると、イスラエルの全軍が大歓声をあげたので、地がどよめいた。
 ペリシテ軍は歓声を聞いて言った。(中略)ペリシテ人よ、雄々しく男らしくあれ。さもなければ、ヘブライ人があなたたちに仕えていたように、あなたたちが彼らに仕えることになる。男らしく彼らと戦え。」 こうしてペリシテ軍は戦い、イスラエル軍は打ち負かされて、それぞれの天幕に逃げ帰った。打撃は非常に大きく、イスラエルの歩兵三万人が倒れた。


 契約の箱が奪われるという、前代未聞のことが起こってしまいました。イスラエルと共にいた万軍の主、神(ヤハウェ)が敵の手に渡ってしまったのです。 サムエル記5章では奪われた神の箱(契約の箱)がペリシテ人に祟ったことが書かれていますが、ヨシュア以来の、戦いの時に神の箱を担いでいくという習慣はこれ以降廃れてしまいました。 さばきづかさであつたエリとその息子たちも死にました。カリスマ(士師)とシャーマニズムに別れを告げながら、イスラエルは預言者と王制という新しい時代に向かって大きく変化しようとしています。 

エルサレムもシロのようになる(エレミヤ書7章12節 )

 シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。


(エレミヤ書14章,26章,41章にも言及されているほか、詩編78編もシロの滅亡について描写しています。)

 一般的にはシケムにしろシロにせよ、12部族の宗教的・軍事的中核地(センター)であったと解釈されています。
しかし、実際に何か騒動が起きるとミツパ(士師記21章1節、サムエル記上7章5節)の町に集結していたようです。ですから、シロは祭礼を行う場所の一つではあっても、 エルサレムのように国家そのものを象徴するというわけではなかったようです。シロの破壊はエルサレム滅亡と同じく、新しい時代の始まり。神の裁きが新しい恵みへつながる、というのは聖書を流れる1つのパターンです。

引用聖書:新共同訳聖書 参考図書:新聖書大辞典 (株)キリスト新聞社 1971

あとがき

 シロが滅びてシロ(ダビデ?!)が来るという、他愛もない発想から作ったページです。 特殊で渋い内容にかかわらず、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 祭儀だけでなく、契約の箱も幕屋(神殿)もいろいろな変遷を経て形成されていったのだと思っています。
 このページをごらんになれば、出エジプト記から民数記に至る”律法の書”が、時代的にずっとあとから書かれたということがおわかりいただけると思います。
 ペリシテ人というのは海洋民族で、エーゲ海以東の地中海沿岸に拠点をいくつか持っていた民族で、”パレスチナ”という言葉の語源になっています。 文化的にはるかに進んだペリシテ人との戦いの結果、イスラエル・ユダ連合王国が成立します。 神様の受け取り方も、土地取得の軍神から国家守護神へ、そしてイスラエル国家を裁くグローバルな唯一神へと変わっていきます。
  

1st Updated 00/05/10

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