忠生忠霊地区名称の由来



『忠生』という名称の由来は、明治22年、町村制が施行
され、当時の木曽、山崎、根岸、上小山田、下小山田、
図師、(本地区は図師の一部)が、合併して新村がつく
られることになったときにさかのぼる。このときに『新村
の名は、(小山田高家)という忠臣が生まれた地である
し、これからも忠義の者が生まれ出ることを祈って、(忠
生村)にしよう。』ということで、『忠生』と名づけられたそ
うである。
 小山田高家という武将は、小山田城の初代城主、小
山田有重の子孫と伝えられ、新田義貞の家来として建
武の中興期に活躍した。特に建武3年(1336年)5月、
新田義貞の率いる官軍に投じ楠木正成が戦死した湊
川の戦いでは、近くの生田の森で義貞の乗馬が傷つき
立ち往生していたとき、自分の馬に義貞を乗せて味方
の陣営に逃がし、自分がその身代わりとなって戦死し
たと伝えられている。この功績をたたえる顕彰碑が兵
庫県神戸市にある。また、この郷土の先輩の碑が兵庫
県にあるのを知った地元有志が『ぜひ、地元に記念碑
を。』と昭和54年5月下小山田町大泉寺境内に、『小山
田高家公顕彰碑』を建立し、高家の生い立ち、奮戦ぶり
を伝えている。
 この『忠生』という名称は、昭和33年2月1日、東京
都南部5か町村(町田町、忠生村、堺村、南村、鶴川村
)の合併により、『町田市』が誕生し、地名としては消滅
『本地域は、(町田市図師町)と呼称された。』したが、公
共団体名、公共機関名としては残された。その後昭和
40年代ら入り、図師町、常盤町、根岸町、山崎町、木曽
町にまたがる土地区画整理事業が始まり、昭和52年に
完工した。区画整理事業の完工とともに、住所表示の変
更が昭和53年6月1日付けで実施され『忠生』という地
名が復活し、本地域は『忠生3丁目』と表示されることに
なった。
 『忠霊地区』の起こりは、区画整理事業が行われるまで
現在の『かぶと塚公園』のところに、忠生村出身の明治
時代以後の戦没者の霊が祀られている碑が建立されて
いたことによる。その碑は、『忠魂碑』と呼称され、付近の
住民に慣れ親しまれていた。区画整理事業の一環として
『忠魂碑』のあった地は、『かぶと塚公園』として生まれか
わり、また『忠魂碑』そのものは、町田市全体の戦没者
の霊を祀る現在の慰霊塔の一部として生まれかわった。
本地域は、『忠魂碑』と『慰霊塔』とが合わさったような形
で、いつのまにか自然発生的に『忠霊地区』と呼称され
るようになった。
  これが本地域を『忠生忠霊地区』と呼称する由来であ
る。








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