金塚の地名の由縁

金塚とは、古代より巷説により伝え残された伝説の地名である。日本書紀の記するところによれば、西暦五百二十年頃難波−河内の大豪族にして、大伴金村と云う軍事族あり。時の天皇武烈に仕えしが、天皇に叛きし平群の臣真鳥親子を征伐其の功により、大連職(大将軍)となる。継体天皇−欽明天皇の寵臣なりしが、任那−百済をめぐる政変により金塚の地に隠棲したとある。生没は、不詳である。
平成元年 文責 金塚連合町会長 船中 利雄
金塚会館前の「金塚の地名の由縁について」石碑 

 
 
大阪市によるオフィシャルな説明
この地区は、昔は茶臼山の南に続く墳墓地の一部であったので、市編入前の天王寺村時代には、小字名の中にも塚原・奥塚原・石蓋・金塚・東金塚・西金塚など墳墓にゆかりを持つ地名が多く残されていた。この中の金塚、東西の金塚は共に「キンツカ」と呼ばれていた。昔この地区には相当な規模の古墳があり、発掘された時に金をちりばめた副葬品が出土したので「キンツカ」の名が生まれ、石棺の蓋が放置されていたので、石蓋の地名ができたものと推定される。その「キンツカ」が世間ではいつの間にやら「カナツカ」と呼ばれるようになり、金塚とは「大伴金村の塚」であろうとの妄説までも出るようになった。こうした金塚の地名も大正14年この地域が大阪市に編入された時なくなってしまったが、昔の金塚の地に建てられていた第5小学校が「金塚小学校」と改名して残っていた。そこで、地区名設定の際その校下であるところから「金塚地区」と名づけられた。
由来からみる阿倍野区