
RPの母へ。母となることをためらっている妻へ。
そしてRP夫婦へのメッセージ・・・
このメッセージは「RP児の親の会」あぁるぴいちゃいるどメーリングリストに
秋田県 小林恵津子さんから投稿された文章です。ご本人の承諾を得て
掲載してあります。
〜はじめに〜
私は、子供のころから、目の悪いことがコンプレックスでした。走るのが遅いのも
漢字を覚えれないのも、目が悪いだけでなく私自身が劣った人間だからと卑下する
ことたびたびでした。
でも、でも子供達には恥ずかしいことなんかじゃないんだよと、世の中の狂った
人間とほんの少し不自由のある人間とどっちがましか、人間は目が見える見えない
で決まるんじゃないと伝えられればそれでいい。幸いわが子に病気が出ていない
ものにしても、母の病気を自分の問題として受け入れなければならないときが来ます。
私が後ろめたさや引け目を感じていたなら、子供もまた萎縮してしまうのではない
でしょうか。遺伝病であろうとももっと堂々としていていいんだよ、とやはり言葉では
なく親の姿で教えていかなくては、と感じています。
***** 本 文 *****
長女が生まれ始めて迎えた夏のある日の出来事です。外で草むしりをしていた
お姑さんが縁側から顔を出し、娘にしきりと声を掛けてくるのです。その時、娘は
私の腕に抱かれ、ミルクを飲んでいました。首も据わらぬ我が子は夢中でミルクを
飲み、縁側の声には無反応でした。自分の呼びかけに笑顔を見せてくれるとでも
思ったのでしょうか、お姑さんはしきりに孫の名を呼び手を振っていました。しかし、
その孫はただ哺乳びんにむしゃぶりつくのみで、縁側のお姑さんを見る事はありま
せんでした。
「何だべ、見えねんだべが、病気だ病気だ、この子も病気だ。」
そう言い残しお姑さんは縁側を離れ何事も無かったかの様にまた草むしりをはじめ
ていました。その年は例年に無い猛暑にみまわれ何処の家の赤ん坊も汗疹がひどく、
親は四苦八苦していました。我が子もまた、薄いガーゼのベビー服を一枚着たきり、
それでも全身汗でじっとりしており,汗疹が出来、あごは汗とよだれでただれ真っ赤
でした。そんな中、少しでも風とうしの良く涼しい所を選び赤ん坊の世話をしていました。
私が嫁いだ家は長閑な田園の中にありました。土の上を渡ってくる風は、夏でも
心地よく、北側に面した縁側からは、草の匂いのする風が入ってきます。この縁側の
ある部屋が唯一わが家の育児室となっていました。そして、その日も縁側の戸を開け
放し赤ん坊にミルクを飲ませていたのでした。
それは、網膜色素変性症の診断を受けて間もない頃の出来事でした。よりによって
子供を産んだ直後にこんな診断を受けようとは。運命のいたずらでしょうか。目の異変に
気ずかず今日まで過ごしてきた自分を恨みました。しかし、私は生まれつきの強度の
近視でした。夜盲も視野狭窄もすべて近眼のせいだと思っていました。回りの友達が
見えていて私だけ見えないという事は特別珍しい事では有りませんでした。私は目が
悪いのだから見えないのが当たり前、全てそれでかたずけていました。まさか誰が
網膜色素変性症などと言う得体の知れない病と予想し得たでしょうか。しかもそれは
遺伝病であると言います。(あぁ、この子にもし遺伝していたら…。)そんな思いが脳裏
を渦巻き子供を産んでしまった事へ深い罪悪感を抱いてしまうのでした。
※色変に限らず、ガンや盲腸など、ほとんどの疾患は遺伝性だと言われていますが、
必ずしも遺伝・発症するとは限りません。これらの異常遺伝子は、潜在的に誰もが
数個、持っているものであり、どんな家系にも起こりうると言われています。
そんな思いをしていた矢先の突然のお姑さんの「なんだべ、見えねんだべが。」という
一言でした。頬をつたう涙が娘のベビー服に染み込んでいきます。
失明するかもしれない、そんな事への不安や恐れなどは一切ありませんでした。ただ、
遺伝病である事だけが母と成った我が胸を苦しめていました。
私は、生まれ付きの強度の近視でした。学校では一番前の席に座っていても黒板の
字が見えず、小学校当時既に夜盲を自覚していました。視力検査の時には、眼鏡を
外した裸眼視力を調べるのがいやでいつも泣き出していました。私が眼鏡をはずすと、
検査位置からは検査表の文字が見えません。見える位置まで前に出るようにと言われ、
一歩また一歩と前に出るのですが一向に検査表の文字が見えてきません。そのうちに
私は泣き出してしまうのでした。どうして私だけこんなに見えないんだろうと、そのときの
私は、悔しさとなさけなさでいっぱいでした。
そして、小学校時代は眼鏡猿と言われ続けました。
我が子もまた、私と同じ思いをするのでしょうか。もしそうだとすれば、それは全て私の
責任であり、償いきれない罪悪なのだと、自分を責めていました。自分自身が病む事
よりも、子供が病に苦しむ姿を見る事の方がはるかに辛いでしょう。もし、子供に恨まれ
でもしたら母は何と言ってその子を納得させれば良いのでしょうか。
お姑さんは「この子も。」と言っていました。そう、お前の母さんはこの家にやっかいな
病気をもってきたんだよ…と言いたいのだろうと思ってしまうのでした。
ミルクを飲み終えた我が子の無垢な瞳が母の涙を食い入るように見つめています。
母の悲しみがこの幼子には分かるのでしょうか、瞬き一つせずにじっと私を見据える
赤ん坊の顔が涙に霞んでいました。色変とは知らず長女を生んだ私も、その後、今度は
知っていてなおかつ、二回子供を身ごもりました。長女を産み、さらに子供を産むという
ことは、犯してはならない罪を重ねることになるのではないだろうか、とさえ思ってしまう
のでした。
そんな私に産科外来の先生は生みなさいと言って下さいました。私とて授かった命を
葬り去ることなどできるものではありませんでした。しかし生み育てていこうという勇気も
有りませんでした。産科の先生は、私から迷いを取って下さろうとしているかのように
「産みたいんでしょう?大丈夫だから先の事なんか気にしなくていい。」とさらりとした
口調でおっしゃられました。
3人の子の母となった私から不安が消えたわけではありません。しかし、色変の事ば
かり思い悩んでもいられませんでした。慣れぬ育児にそれどころではありませんでした。
赤ん坊は成長とともに目が離せなくなり私の手を煩わせてくれます。幸か不幸か、私は
自分の病を忘れ子育てに明け暮れしていました。
理屈抜きに子を産んだ母は育てるしかなく、生まれた子は生きていくしかありません。
そんな我が子も、私が笑えば笑い、落ち込んでいるような時に限ってぐずりそして泣き
ました。私は紛れも無くこの子の母なのです。母の心の平安が子供の情緒の安定に
つながります。子供にとって不幸なのは色変の親を持つ事よりも腐れきった心の親を
持つことなのではないだろうか。病気になっても病人になってはいけない、そう自分に
言い聞かせました。
もの言えぬ赤ん坊は母のあやす声を聞き、母の腕で眠ります。子供は母の愛情を
栄養とし、体とともに心も育っていきます。その母が迷ってはいけない、色変のことは
忘れよう、もし遺伝していたら…なんて思うのもやめよう。暗中模索の育児の中で芽生
えていった母としての思いでした。落ち込む事あり、躓く事あり、また子供に慰められる
事あり。母としても人間としてもいつまで経っても未完成なままの私です、しかし、母を
放棄する事は出来ないのだし子供あっての自分なのです。子供を産んだ事を罪と思わ
ず、子宝を授かった事を感謝しなければいけない。我が子もまた、此の世に生を受けた
事への感謝を忘れないで欲しい。
今、三人の子に恵まれ、末の子も十二歳になろうとしています。夜盲がかなり進み、
暗い夜道を歩く事が出来ません、そんな時、我が子の小さな肩が、どんなに暖かく頼も
しい事でしょう、素直で心優しい子供達。この子達あっての母としての幸福の陰には、
あの医師の一言があったことをわたしは忘れていません。。。。