
点字のアルバム
〜階(きざはし)の途で〜
このページは歌集「風を握る」の著者 高石ゆうさんの
ご協力と了解を得て作成しました。
中学三年生の我が娘は、この夏休みを来年の高校入試に向けて、ゼミの
集中講座に通っている。
私は、いつもより三十分早起きし、この娘の大好きな「おにぎり弁当」を
作り持たせるのである。
あたりが、夕茜に染まる頃「ただいま、あーあ、暑かった」と少し気怠
げな娘の声が帰宅を告げる。すると、とたんにそれまでの穏やかな家の空
気があわただしく動き始め、活気が戻ってくるのである。
娘は、重たげなバッグを音立てて置き、先ずは冷蔵庫へと足を運び冷たい
ウーロン茶を一気のみし、大きな吐息を漏らすや否や「あー、疲れた」と
言いながらテレビの前に行き、身を横たえるのである。
そんな様子を傍らで見守っていると、今度は私に向かい「あなた暇そうね、
今夜は何?」と何時ものパターンである。
まさに青春真っ直中・・・・・
深き夜の静寂(しじま)に浸る時が好きと娘は思春期の階(きざはし)に居て
子の部屋に高価な百合が匂いおり物憂き時期の心託すか
けれど、この思春期は子供達にとって謳歌されるべきとっても大切な時
であり、親は真剣に心を傾けなければいけないように思う。また手と言葉
の掛け過ぎは禁じ、暖かな眼差しで見守ってあげたいと心掛けている私で
ある。
しかし、この娘にとって、これまでの歩んできた道は試練の連続だった
に違いない。
昭和五十六年八月二十六日の未明、元気な産声を上げ誕生したこの女の子
をみんなで喜んだのも束の間、飲んだ母乳を滝のように吐いてしまい、診
ていただいたところ、耳慣れない”幽門狭窄症”と診断され、襁褓と哺乳
壜を抱えての通院が始まったのである。それからも大きな病が度重なり、
なかなか病院との縁が切れない娘であった。
幾夜、緊急外来へ駆け込んだことだろう。
幾たび、病院のベットに身を委ねたことだろう。
あの小さな体が、人の心の温かさにはしゃぎ、冷たさに泣いていたっけ。
ましてや、この目の不自由な私を母にもった運命ゆえ、我慢に我慢を重ね
ての闘病であったはずである。
そんな中を、お兄ちゃんもよく協力してくれたっけ。病院からの帰りが遅
い日などは、あどけない小学生だったお兄ちゃんが、夕食の支度を整え、
夜道を歩けない私を気遣って、暗い無人駅のホームに独り佇み、電車の到
着するのを待っていてくれた。
そして娘を負った私が降り立つと直ぐに駆け寄り、この手を取りながら「
どうだって?大丈夫だって?」と心配げに尋ねるのである。「お兄ちゃん、
ありがとう。いつも悪いね、もう少し頑張れば裕美も元気になれるって」
と答えると、喜びを態度に滲ませて導き、導かれながらの家路を急いだも
のである。
こんなことも有った。
昭和六十二年六月十八日、娘の心臓手術が無事に終わった。術後の経過も
順調でICUから個室に戻って来た日、娘は笑みをたたえているのにもかか
わらず安堵したのだろう、眼尻から滴る涙は止めどがなかった。
それにその翌日、あの小さな胸で不安と恐怖に耐えていたためだろう、遂
に我慢の糸が切れ、すでに文字を見る力を失っていた私に向かい「お母さ
ん本を読んで、本を読んで」と訴えるのであった。私には、なだめること
も慰めることもできず、ただ泣きじゃくる娘の手を握り、うつむいたまま
悲しい時間が過ぎ去るのをじっと待っているばかりであった。
また、土曜日の夜などは外泊する患者さんが多く、二人きりの広い病室で
消灯までの時間を合唱していると、次第に家が恋しくなり、主人やお兄ち
ゃんのことが思い出され、熱いものがこみ上げてくるのであった。そんな
時は、手掛けで娘を負って院内を歩くのである。そして「裕美早く元気に
なって家に帰ろうね」と声を掛けると娘は「うん」とうなずきながら私の
背を涙で濡らすのであった。あの健気だった子供達が、いとおしくてたま
らない。
雛祭り娘の幸いを祈りつつ餅つく窓に風花が舞う
ICUに透ける顔して眠る娘を見守るだけの面会続く
手術後の痛み極むか本せがむ娘の力になれぬこの母
その後も肺炎を繰り返したり、年中組の時には登園拒否が始まり体調で
も崩したのかと想い受診した結果、慢性中耳炎を煩っており「お母さん、
ほとんど聞こえない状態ですね、これじゃ保育園には行きたがらないはず
ですよ」と言われ鼓膜切開をしたのであった。可哀想なことをしてしまっ
たと悔やみつつ、放課後に電車とタクシーを乗り継いで遠くにしかない耳
鼻科へ長い間通ったことも、今では懐かしい思いでのひとつである。
「これまで、裕美子ちゃんを診察して来た医師を代表して、僕が謝りま
す。実は、裕美子ちゃんの心臓には穴が開いていて、すでに血液が肺へ回
り始めています。余病が出ますと手術は、難しくなります。それに、この
ままでは三十歳までの命しか保証出来ないと思います。ここでは、心臓の
オペは出来ませんが僕も、出来る限りお手伝いします、手遅れにならない
うちに、手術の方向へ向かいましょう。お母さん、ともかく頑張って下さ
い。もっと早く見つけていれば、裕美子ちゃんも、こんなに幾つもの病気
を背負わなくとも良かったのに、本当に申し訳ないです。」と深夜の診察
室で、噛んで含めるように説明して下さった、小海日赤の、西野先生。
娘
が4歳の時、巡り逢う事が出来、ずっとこの娘の心と身体を支えて下さり、
大きな力を貸して頂いた、手塚先生。
今なお遠き地に居て、絶えず娘のこ
とを心に掛けて下さっている、山梨中央病院の横山先生。
特に、この3人
の先生方にはお世話になりました。本当に有り難うございます。
福寿草を両手に包む娘の声に春を見つけし喜び溢る
浴衣着て花火手にする子供らと喜び分かつ祭の庭に
お陰様で、この娘も数え年が二桁になった頃から、大分健康になり、そ
れまで強いられていた”登校は、主人が車で送り、下校の際は、ランドセ
ルをお兄ちゃんに持ってもらい、身軽になって歩く”と言う制限も解除さ
れ、お友達と足並みを揃えて通うあこがれの小学生生活を、ようやく始め
ることができたのである。本当に嬉しく、平凡なままに暮らせる幸せを噛
みしめながらの月日が流れていった。
アンカーを努めて走る吾子の背に名前呼ばんと声が詰まりぬ
繰り返しテルテル坊主に掌を合わせ眠れぬ吾子の明日は遠足
しかし、次に待っていた試練は、あの”いじめ”である。それは、一年
半にも及んだ言葉による、いじめであった。血が滲むほど唇を噛みしめな
がら、辛い日々を耐えていた娘の姿を思い出す度に、今でも私の目には、
涙が滲んでくる。仲間はすれにされ、人家のない川と線路に挟まれた約4
キロの道のりを、独りで徒歩通学していた時の娘の胸の内を思うと・・・・。
先生方に、何度も相談しお願いもしたけれど、曖昧な返事が返ってくるだ
けで何の変化も見られなかった。お友達のお母さん方にも、お話をしたけ
れど、冷たい返事が返ってくるばかりであった。
眠れぬ夜が続き、あれこれと思案したが解決に繋がる糸口さえ掴めなかっ
た。しかし、ひたすら耐え頑張っている娘の姿に励まされ、沈む心を奮い
立たせて、素直に心を開き話せばきっと理解してくれることを信じ、とも
かくお友達と逢ってみようと覚悟を決めた。
ある日、娘と一番仲良しだっ
た00ちゃんがお友達と別れひとりになる帰り道で、私たちは00ちゃん
の帰りを待っていた。
そして、「ねー、00ちゃん、あなたに少しお話し
したいことがあるんだけれど、いい?」と声を掛けた。彼女は、体をピク
ッと振るわせ小さくうなずいた。
「あのね私は怒っているんじゃないの、
ただね、本当の事が知りたいの」と笑顔を作り、ゆっくりと柔らかく切り
出し、更に「裕美が、近くに行くと本当に臭い? 本当にカビが生える?」
と聞いた。彼女は小さく首を横に振った。
私は気持ちを落ちつかせ、娘の
手を握り「もしね、00ちゃんが同じことを言われたらどうする?」と押
してみた。すると彼女は、大きく頭を横に振りながら「嫌だ。」と激しい
口調で答えたのである。
私は、少し間を置いてから、肩の力を抜き静かに
「00ちゃんね、裕美はね、あなたが今嫌だって言った、その気持ちを胸
に毎日学校へ行っているのね。それを解って欲しくって呼び止めたの、ご
めんね。どうしても友達になってくれとは言わないけれど、もし良かった
ら遊びにおいで」と言い、彼女に別れを告げ、後は人事を尽くし天命をま
つ心持ちであった。
娘も、わだかまっていたものが吹っ切れた様子で、足
取りも軽く手を繋ぎ家に向かったのである。
仮初の言葉などでは救われぬ苛める子らも死を選ぶ子も
陰口と仲間外れに耐えし日をさりげなく言う娘の逞しさ
娘はこのいじめをきっかけに、一重にも二重にも、大人になったように
思う。手塚先生から学んでいる”詩”の中にも、己が現れて来たように自
分を持ち行動する姿勢は何物にも勝る報いであった。
過ぎし日の数え切れない思い出をアルバムに残してあげられない我が家
の事情を察して、医王院のご住職が、運動会や音楽会などのビデオを構成
し旅立ちの日に添えて贈って下さった。私は、せめて点字で記したアルバ
ムをはなむけにしたいと思う。
初めての家族旅行は、長島温泉でした。
お兄ちゃんと、よく這い這い競争をしていました。
昭和六二年十一月六日、優しかったおじいちゃんが他界しました。
入院中、園のお友達が書いてくれた作文を、宝物にしています。
大阪の芦川鍼灸院へ通い、阪神デパートの屋上で、よく時間をつぶしました。
園の運動会で、親子リレーにお父さんと走り、大活躍しました。
卒園式は、病院から外出許可をもらい、出席しました。
SBC音楽合唱コンクールに、出場出来ました。
四年生から、水泳、英会話、六年生からは習字と、習い事に忙しくなりました。
五年生の時、家を新築し引っ越し大掃除とよく手伝ってくれました。
大好きな、うす紫のブラウスにチェックのキュロットの装いで、嬉しそうに手を振りながら「行って来ます」と修学旅行へ出かけて行きました。
私と二人で新潟へ旅した晩の、1万円のフルコースは、忘れられない美味でした。
運動は得意だったけれど、スケートはどうしても好きになれませんでした。
悲しいことに、お友達が二人事故で亡くなりました。
しげ子先生の家に招かれ、手作りのケーキでクリスマスを楽しみました。
入学の喜びに満ちた遠き日をいとおしく思いつつ、六年間一生懸命に歩んで来た娘の卒業式を、感謝とうれしさの涙で括った私たちである。
子の肩にセーラー服の白線が清く輝く今日の門出に
思い出が際限もなく胸かすむ羽ばたけ吾子よ卒業の朝
中学生になってからの娘は、明るく楽しい毎日を送っている。めげない
性格を反映してか、”結果より過程が大切”を信条にし、流されること無
く己が道を貫く姿は、眼を見張るものがある。
部活は、バレーボールに入
り早朝から暗くなるまでの練習をこなし、一年生ながらも自らの手でユニ
ホームを勝ち取った力が自信に繋がり、学習の成績も徐々に上がっている。
かつて娘は発病すると恐い病に院内感染したことがある。私たちが住む
この山間の里は、まだまだ村意識が根強く、ゆえに感染症に対する理解も
薄い。その折に娘に関わって下さる先生方が、全員でスクラムを組み守っ
てくれたことがある。その尊い経験に報いるように、背は高くなり、健康
にさえなってくれたらと祈る思いで育んできた娘は、やさしさにたくまし
さが加わり、心も身体も、私を越えつつある。
セーラー服の白線がいかに
も女学生らしくよく似合い「お母さん、魔の中二は何とか卒業できたみた
い」とこだわりもなく語った娘も、来年は大きな節目を迎える。彼方へと
ひとり歩きして行くこの娘が微笑ましくもあり、置き去りにされて行く私
は、淋しさが尽きない・・・・・。
あどけなき仕種残れる娘にも十二歳にて初潮のありぬ
氷割る足音残し娘の影が雪明かりの朝を遠ざかり行く
人生は、果てしない峠道です。これまで、私たちが生きてきた年月を振
り向けば、躓いては起こしてもらい、滑り落ちそうになっては手を引いて
もらい、疲れては休み、あきらめては励まされ、迷っては立ち止まりなが
ら、いくつかの峠を越えて来たと思う。その途々で、人との出逢いの尊さ、
人の愛の深さを、誰よりも知ることができました。それに、たくさんのこ
とを学ばせて頂きました。喜怒哀楽の限りない感動を、各々の胸に刻むこ
とが出来ました。月並みな言葉でしか表現出来ない私だけれど、感謝の気
持ちでいっぱいです。
すぐそこまで来ている二十一世紀を生きてゆく、かけがえのない子供達
よ、感激の涙を一度でも多く流し、心を磨き、豊かさを養って、自分を必
要としてくれる”何か”を一つ見つけ、それを、生きがいにして生きてい
って欲しい・・・・・。
かねてから、娘の歩んできた道を書き綴りたいと想いを馳せつつも、視
力の低下に伴い、儚くも果たせぬままに消えつつあった。ところが、あり
がたいことに点字に出逢い、指導して下さる国立リハビリテーション病院
の先生方に巡り会うことが出来、思いを叶えることが出来ました。
書き終えた今、ほのぼのとしたものに包まれ、心も温かいもので満たさ
れています。いつの日か、娘がこの拙い点字の手記を読んでくれることに
願いを託し、幸多かれと祈る母の思いを込めて、十五歳の誕生日に、これ
を贈る。
命を、守ってくれる娘よ、いつまでも、我が家の太陽であれ。
平成八年八月二六日
(これは、後日パソコンへ書き移したものであり、原本とは若干
異なります。)