「沖縄イニシアティブ」に対する各氏の批判 沖縄タイムス紙面掲載意見 
   新川明・新崎盛暉・仲里効・石原昌家・川満信一・比屋根照夫・目取真俊各氏 
 
※「沖縄サミット」を目前にしたこの時期(2000年5月〜6月)、新聞紙面を賑わせた論争ながら、
普段の生活の中では、まるでこの話題を耳にしなかった。
その後目に見えるのは、構想をまとめた、
『沖縄イニシアティブ』大城常夫・高良倉吉・真栄城守定(ひるぎ社・おきなわ文庫)が出版された限り。
それでも、こだわる必要を思うところ。  資料・「沖縄イニシアティブ」(本文)
 
 
■新川明T「沖縄イニシアティブ」を読むU (『沖縄タイムス』2000年5月16,17日朝刊)

 琉球大学の三人の教授(高良倉吉、大城常夫、真栄城守定)が連名で、去る三月下旬、アジア・パシフィック・アジェンダ・プロジェクト(A・P・A・P)沖縄フォーラムで発表した「アジアにおける沖縄の位置と役割-沖縄イニシアティブのために」という論文(五月三日-十一日、本紙)を読んで実感したのは、日本国による沖縄「統合」の歴史的な作業がいよいよ最終的な仕上げの段階に入った、ということであった。
 近年になって、「米軍基地所在市町村活性化特別事業」(通称、島田懇事業)、サミットの沖縄開催、「守礼門」二千円札の発行というように、日本国による沖縄「統合」の施策が次々と打ち出されてきた。このような国家の側からなされる施策は、「統合」される側からも積極的に呼応する作業がなければ十全の効果は得られない。その具体的な動きが同論文である、と私は受け取った。
 しかも、仕上げの段階におけるその作業は、物質的な充足を強調する経済的側面からではなく、いかにも学問的で、かつ「知」的な装いをもって呼応することで、より完全な形を整えることができるから、歴史学者・高良倉吉を中心とするグループによって、いずれその作業がなされるであろうことは予想されていたことであった。
 彼らはすでに、経済至上の考え方に立って沖縄の過去・現在・未来を語り、一つの政治潮流をつくり出す沖縄内部へ向けた役割は、『沖縄の自己検証』なる著作によって果たしていた。それに続く彼らの役割として、"沖縄を代表する知識人"の看板をもって日本国の施策に呼応し、かつ、広く外に向けた発言を展開するだろうことは、容易に予測されたからである。
 さて、今回の論文で彼らが提起する主張の核心は、軍事力の行使を含めた日米軍事同盟の容認を前提にした「基地沖縄」の存在意義の強調である。その立場を明確にしたうえで、「アジア太平洋地域の将来のあり方を深く検討するための知的インフラの拠点形成」を説き、沖縄を日本とアジア太平洋地域を結ぶ「知的な解決装置」とすることを求めるのである。 この、何とも手前勝手な言説には、ただ、呆(あき)れかえるしかなかった。
 軍事力の行使を含めた日米軍事同盟や沖縄の軍事基地を大前提として「アジア太平洋地域の将来のあり方」を考えると言い、この地域の人々との間に、「人種・国境を問わない多くの人々が自由に交流し、責任あるシナリオを作成するための『知の場』を構築する」などと主張するからである。
 軍事力(軍事同盟や軍事基地)を手にしながら、人種・国境を問わない人々との自由な交流をはかる責任あるシナリオとは、一体どういうものなのか。そこでいかに「知的インフラの拠点形成」を言い、「知の場」の構築を力説したところで、軍事力を前提にした主張である限りにおいて、その言説は日米軍事同盟のもとで、今や世界有数の軍事大国になっている日本国の先兵としての
「位置と役割」を強調していることにしかならないだろう。
 アジア太平洋地域において、人種・国境を問わない自由な交流の責任あるシナリオを、沖縄が描くときに絶対的な前提とすべきは、日米軍事同盟や「基地沖縄」の存在意義ではなく、この地域の人々の歴史体験を踏まえた「未来」構想を共有する問題意識であろう。
 彼ら三人の論文には、この視点が決定的に欠落しており、自己中心の国家主義の思想だけが塗り込められているのである。
 せいぜい、共同通信・伊高浩昭に、ポルトガル・ロカ岬の「ここに陸尽き、海始まる」のまねで、「…日本住民のアジア帰属」を無視する姿勢を批判された(四月七日、本紙)「ここに日本尽きアジア始まる」「ここにアジア尽き日本始まる」という「感傷的」な言葉に自己陶酔するのがオチである。
 この文言を刻む碑の建立を提案する彼らの主張は、高良の執筆になる社会経済生産性本部経済活性化特別委員会の提言「沖縄イニシアティブ-沖縄、日本、そして世界」(四月十三日発表)にも盛り込まれ、彼らの立脚点がより明確に示されている。高良はそこで、沖縄は"アジアの一員"ではなく、「日本社会の一員」としてアジア太平洋地域に対する日本国の「フロント」になることを促している。
 彼らの掲げる「沖縄イニシアティブ」とは、日本国の"先兵"になることを日本国政府に誓い、沖縄人には"大政翼賛"を督励するスローガンでしかないことが、ここに明らかにされているのである。

 高良倉吉、大城常夫、真栄城守定ら琉球大学の三教授による論文は、前述したような内容を持つ言説を展開するために、「歴史問題」という主題のもとで沖縄史についての初歩的な講釈をしたうえで、彼らの歴史観を明確にしている。
 その歴史観が、いかにいい加減なものかを少し眺めてみたい。
「『歴史』は十分に尊重されなければならないが、そのことと現在を生きる者として引き受けるべき責任の問題はひとまず区別しなければならない」と彼らは言う。そのうえで彼らは、「大事なことは、…現在を生きる者としてその責任と主体に立脚して『歴史』および未来にどう向かい合うかである」と説きすすむのであるが、この詐術的な論法によって彼らのイデオロギーとしての歴史観は示される。そこで彼らは、まず、歴史(過去)・現在・未来の三者を分断して設定することで、三者の連続性に対する認識を捨象したところから議論をスタートさせ、「現在を生きる者としての責任と主体」という命題を矮小化して解釈し、提示するのである。
 いったい、「現在を生きる者としての責任と主体」とは何か。 それは、とりもなおさず「歴史」と「未来」に対して主体的に責任を負うことにほかならない。すなわち、集積された「歴史」の記憶を厳正かつ厳密に踏まえながら、人間的に生きる「未来」社会を構想し、準備することのみが、「現在」を生きる者に課された本質的で主体的な「責任」である。それは、過去・現在・未来という時間の連続性のうえで、「現在を生きる者」が引き受けている基本的な命題である。
 彼らのように、現前の政治システムを所与の前提とし、これに「寄りかかって」、そのことで「現在」の物質的欲望を充足させる度合いを選択することではないのである。
 従って彼らの議論は、当然のことながら「沖縄が『歴史問題』を克服し、二十一世紀において新たに構築されるべき日本の国家像の共同事業者になること」を求めるところに落ち着き、「『新しい日本』に帰属しつつ自己責任を果たす覚悟を持つこと」が強調される。
 ここで注目しなければいけないのは、自らが「共同事業者」となり、「帰属」するという「新しい日本」の国家像について、何一つ自らの構想(シナリオ)が示されていないことである。
主張されているのは、日本国の国家目的のために沖縄の"共同奉仕"を求める国家主義のイデオロギーだけである。
これは極論すれば、"奴隷の思想"の表明である。
 しかし、彼らのこの主張は、日本国の保守的体制派を大いに喜ばせた。たとえばフォーラムに参加した『産経新聞』の千野境子は、同論文が参加者に「少なからぬ驚きと感銘を与えた」として、次のように報告している(三月二十九日、同紙「潮流」)。
 沖縄といえば基地反対の印象が強い中、当の沖縄の知識人が基地存在の意義を評価し、「自らの過去・現在・未来に対し積極的な評価を与える」ことを願って「沖縄イニシアチブ」を提言しているからだ。
 同紙はさらに翌日の朝刊コラム「産経抄」では、この千野報告を受けて、高良ら三教授の出現を「良識ある知的集団が沖縄にも誕生した……」と、手放しの喜びようを見せている。
 前に高良らは、沖縄問題を論ずる「知的作業」として『沖縄の自己検証』なる著作を出し、その中では至るところ「知的」とか「知性」とかの言葉をちりばめて空疎な議論を粉飾していたが、前記の新聞によると、彼らは「沖縄の知識人」のなかの「良識ある知的集団」ということである。
 私は、彼らに対するこのような形容は必ずしも妥当ではない、と考えている。なぜならば、たとえばエドワード・W・サイードの次の言葉を、より重く受け止めているからである。 「知識人とは(略)権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」「知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象(リプリゼント)されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」(『知識人とは何か』、平凡社)。
 もし、サイードの右の概念規定に従うとすれば、彼らは「知識人」の対極にある、権力への奉仕者というだけの存在なのである。

----- 新川明
1931年生。55年琉球大学を中退後、沖縄タイムス社入社。同社八重山支局長、
『新沖縄文学』『沖縄大百科事典』編集長、編集局長,社長,会長を勤めた後、95年退任。
著書『新南島風土記』(大和書房 78年),『琉球処分以後』(朝日新聞社 81年)
『反国家の兇区』(現代評論社 71年/社会評論社 96年)『沖縄・統合と反逆』(筑摩書房 2000年)他。

 
■新崎盛暉T「沖縄イニシアティブ」を読むU (『沖縄タイムス』2000年5月29,30日朝刊)

 去る三月末、那覇市内のホテルで、小渕恵三前首相も出席した国際会議が開かれ、沖縄の高良倉吉氏ら三教授によって「沖縄イニシアティブ」という発題が行われたというニュースや論評に、わたしは、本土のジャーナリズムを通して接することになった。ごくおおざっぱにいえば、産経新聞はこれに高い評価を与え、共同通信は批判的で(共同の伊高浩昭編集委員の論評は本紙四月七日付朝刊にも載った)、朝日新聞がその中間に位置するといったところだっただろうか。
 わたしの見落としでなければ、地元紙には、本紙にも琉球新報にも、これに言及した記事はなかった。そのことへの疑問とともに、わたしは、ぜひこの論文を読んでみたいと思っていた。
 いくらかの間をおいて、わたしは、本紙でその全文を読むことができた。ある種の期待をもって読んだこともあってか、正直なところ、拍子抜けの感を禁じえなかった。同時に、地元紙が、当初、この論文を話題にしなかった理由が、理解できたような気がした。
 この論文の読後感をひとことでいえば、「現状追認論者のことば遊び・観念論」ということになろうか。
 たとえば、彼らは次のようにいう。
 「日本国内において我々が公平に扱われていないという主張を行う時、この問題は日本全体の現実のあり方とどのような関わりを持っているか、地域の視点と同時に総合的な見識から問う必要がある。戦争による被害やそこに起点を置く反戦・平和の思想を主張する時、我々の被害は日本全体やアジア太平洋地域、世界における戦争被害、あるいは反戦・平和論とどのような関わりを持つのか、そのことを『普遍的な言葉』で語る努力を行うベきである」
 ここで述べられていることそれ自体は、表現の仕方は多少異なるものの、わたし自身が二十年来主張していることとほとんど変わらない。問題は、彼らが「語る努力を行うべきである」と言いながら、自分たちは、抽象的なことばを饒舌(じょうぜつ)に展開しながら、具体的現実については、何一つ語っていないことにある。
 彼らは具体的現実にふれることを回避しながら、次のような論理展開を行う。
 「日米同盟はわが国の対外政策の根幹として多数の国民によって支持されて」いる。「したがって、(自分たちも)日米同盟が果たす安全保障上の役割を評価する立場に立」ち、「この同盟が必要とするかぎり沖縄のアメリカ軍基地の存在意義を認め」る。だから、米軍基地の問題は、「それが存在することの是非を問う問題としてあるのではなく、その効果的な運用と住民生活の安定をいかに矛盾なく調整できるかという課題としてある」
 彼らは、日米同盟が、現実の国際政治の上で、あるいは、沖縄基地がその中心に位置する東アジア情勢の上で、具体的にどのような役割を示しているのか、という根幹的な問いは巧みに避けている。その上で、大多数の国民が日米同盟を支持しているから自分たちもこれを支持する、そして沖縄社会もこの現実を認めるべきだとして基地容認論を導き出す。
 これは、明らかに論理のすり替えではないのか。同じようなすり替えは、「復帰」のとらえ方にも示されている。彼らは次のように言う。
 沖縄住民の日本復帰運動の結果、復帰は実現した。いいかえれば、沖縄住民は日本という国家に帰属することを自ら選択した。したがって、沖縄は、日本という国家の中で、自らの責任を果たさなければならない。それがとりもなおさず、日本国家の国策ともいうべき日米同盟の軍事の中枢である米軍基地を容認することである。
 だが、沖縄の民衆は、復帰それ自体、日本国家への帰属それ自体を目的にしていたのだろうか。そうではあるまい。「平和憲法下への復帰」というスローガンが表現しているように、復帰は、米軍事支配からの脱却の手段として選択されていたのである。しかし、現実の沖縄返還は、日米同盟再編強化の一環としてあった。故・中野好夫流に言えば、「パンを求めて石を与えられた」のである。

 沖縄の民衆が、「パンを求められて石を与えられた」とするならば、当然、石を拒否して、パンを求める権利がある。
 軍事支配の重圧から脱却する手段として復帰を選択したのに、復帰後も過重な基地の負担を押し付けられ続けたならば、そのような基地の過重負担を払いのける道を追求し続けなければならない。目的と手段をすり替え、現存する日本国家、あるいは社会への順応・同化を求めることは、著しい論理の飛躍である。
 ところで彼らは、自分たちの論敵を、「絶対的平和」論者として設定する。高良倉吉氏が、「基地反対を叫び続けるだけでは問題解決は進まない」(本紙、五月二十五日)などといっているところをみると、「絶対的平和」論者とは、「基地反対を叫び続けるだけで」問題が解決されると信じている能天気な連中を指すらしい。だが、一体どこに、そのような能天気な基地反対論者が存在するのだろうか。
 基地に反対する者たちは、沖縄基地が過去において果たしてきた役割、現在果たしている役割、将来果たすかもしれない役割を現実的に分析しつつ基地の存在に異議を申し立てているのである。
 たとえば、過去において、沖縄基地が果たしてきた具体的役割の最大のものは、ベトナム戦争の攻撃基地としての役割であった。南ベトナム内戦への介入を日米両政府は、当時、「南ベトナム人民が外部からの干渉を受けずにその政治的将来を決定する機会を確保するための米国の努力」と定義づけた。
 この「米国の努力」のために五万人を超える米兵が死に、三百万人のベトナム人が殺された。しかし、この「米国の努力」は水泡に帰し、米軍はベトナムからの撤退を余儀なくされた。そしていま、当時の戦争の最高指導者のひとりマクナマラ国防長官でさえ、この戦争は誤りであったことをはっきり認めている。では、あの悲惨な戦争は、一体何を意味するのか。
 わずか三十年前に沖縄基地が果たした具体的役割を直視することなしに、日米同盟や沖縄基地が「グローバルな安全保障体制」において果たす役割などを論じることができるのか。
 そして現在、沖縄基地が最大のターゲットにしている朝鮮半島には、大きな変化が生じている。二十年前、暴動の扇動者として死刑の宣告を受けた人物が、クーデターや革命を経ることなく韓国の大統領になっている。そして二十年前の"暴動"は、民主化を求める「民衆抗争」として再評価されている。その再評価と関連しつつ、この民衆抗争鎮圧者の背後にいた米軍の存在に批判の目が向けられ、それはやがて朝鮮戦争当時の米軍による韓国・朝鮮民衆の虐殺事件の歴史的発掘を通して、朝鮮戦争が、ただ単に東西冷戦の産物としての二つの国家の軍事的衝突にすぎなかったのか、それとも内戦に対する外国軍隊の覇権主義的介入の側面が強かったのか、という現代史の見直しへと向かいつつある。それは、単なる政治的変化というよりも、思想的深化、歴史認識の深化といえよう。そうした大きな潮流の変化のなかから歴史的南北首脳会談が実現しようとしている。
 しかしなお楽観は許されない。それは、金大中政権も、金正日政権も、それぞれさまざまな内部矛盾を抱えているからだけではなく、朝鮮民族の和解を必ずしも自らの利益に直結するものとは受けとめない日米の外圧があるからである。
 こうみてくると、沖縄の基地反対運動こそが、沖縄イニシアティブのことばを用いれば、「むしろ日本という国家的な枠組みを超えて、アジア太平洋地域を視野に入れた独自の役割を発揮」しようとしていることがわかる。沖縄の将来は、「ここに日本尽き、アジア始まる」とか、「ここにアジア尽き、日本始まる」といったことばの遊びから生まれるのではなく、アジア民衆の平和を求める具体的連帯行動のなかから生まれてくるのである。
 沖縄イニシアティブが基地容認・現状追認派のマニフェストだとすれば、「沖縄から平和を呼びかける4・17集会」が世界に向けて発した沖縄民衆平和宣言は、基地反対・世直し派のマニフェストである。

----- 新崎盛暉
1936年生まれ。東京大学文学部卒業。沖縄大学。
一坪反戦地主会・平和市民連絡会代表世話人、『けーし風』編集代表。
『沖縄・反戦地主』高文研、『観光コースでない沖縄』高文研、他多数。

 
■仲里効T「沖縄イニシアティブ」を読むU (『沖縄タイムス』2000年6月7,8日朝刊)

 「沖縄イニシアティブ」の共同提案者の一人に<高良倉吉>がその名を連ねていたことは私にとって、あるいは私たちの世代にとって特別な意味をもっている。
 沖縄の歴史研究に若くして一家言をなし、「歴史スポークスマン」としても時代や情況に積極的にコミットしてきた<高良倉吉>という行動的知が、ついに「やらかしてしまった」という驚きもあるが、私がこの一文をしたためるにあたり、幾分思い迷った個人的事情がある。というのは、高良と私は幼少年期の時間を、ごく近くでともにしたということがある。このことは、思った以上に心的な規制となったことを告白しなければならない。
 あとひとつは、沖縄の戦後世代の思考の履歴にかかわることである。沖縄の戦後体験の旅程を<高良倉吉>という個性を通してその一典型を読んだということだ。私たちの世代にとって、国家とどのように向き合うかは大きな思想的な難問であり、今もそのことに変わりはない。高良はいわば、この難問を胯(また)ぎ越してしまったのだ。一線を越えて向こう側へ行ってしまった、そういってもいい。
 沖縄の戦後体験を国家を内面化する形で回収したこと、このことは私にとって、私たち世代にとって、等閑には付せない何事かである。特別な意味、といったのはそういうことである。これはだから、<高良倉吉>への私信という意味を込めた論争的介入ということになるだろう。
 作家の辺見庸は、「周辺事態法」、「国旗・国歌法」、「盗聴法」、「改正住民基本台帳法」などが、さしたる論議もなく翼賛的に法制化された一九九九年を、自らの身体的年表からいってゴシックでしるすべき年として重視していた。これらの制度化による国家主義的浸透がこれからの短、中期的未来に向けた思想的祖型になり、<私>の内面までも圧迫してくる気味悪さを予見していた。
 こうした国家主義的力が顕教化する風景のなかに、「沖縄イニシアティブ」を置くと、そのポジションと輪郭はよりはっき
りしてくるだろう。「沖縄の再定義」は国家の「再定義」に重なる。もっといえば、国家の力への欲望の再配置と方位化に見事にプログラミングされたということだ。
 「沖縄イニシアティブ」は、高良の手になる『「沖縄」批判序説』や今回の共同提案者の一人である真栄城守定と現副知事の牧野浩隆の両氏を加えた鼎(てい)談『沖縄の自己検証』にその母斑は散りばめられていたが、文体といい、思考のスタイルといい、『「沖縄」批判序説』をバーチャルパブリックまで引き伸ばし投射したものであるといえよう。
 『「沖縄」批判序説』は<高良倉吉>という機能主義的知の身振りを知るうえで興味深い。この書でしきりに普遍性や知的厳しさなどが反復されるが、反復されればされるほど、批判的身振りとは裏腹に転倒されたルサンチマンを視てしまうのだ。そしてやっかいなことに、そのルサンチマンにはペシミズムとロマンチシズムが縫いあわされているのが分かる。
 例えば、この書のために書き下ろされ、最後に置かれた「-知性-のない非難を浴びて」をみてみよう。これはNHK大河ドラマ「琉球の風」に時代考証の責任者として加わったときの体験を告白した後日談である。高良はそこで「琉球の風」ブーイングのいちいちを紹介し、「沖縄県民の無責任な物言い」や、「思い上がり」に深く傷ついた心情を吐露している。放映後すさんだ気分で虚(むな)しい日々を送り、周りの友人たちに「『沖縄はもう嫌だ。インドのマラバール海岸でアラビア海を眺めながら暮らしたい』と、しきりに『亡命』気分を訴えた」と書いていた。ここでの「沖縄はもう嫌だ」という声と「亡命気分」こそ「沖縄イニシアティブ」の隠されたキーである。
 高良はまた、沖縄の人たちが政治的主張をするときに過度に過去を持ち出したり、情念的になる傾向に対して嫌悪の矢を放っていた。
 私なら、高良が嫌った<情念>を、<身体性>として読み替える。高良が戒める過去の露出を、記憶の強度と現在へのたえまぬ再審とみる。

 「沖縄イニシアティブ」に特徴的に見られるのは、奥行きのない論理が、ザリガニのように横滑りしていく奇妙な光景である。例えばあれほどまでに嫌った<大衆性>が、彼らの歴史観や未来像を正当化するためにレンタルされるのである。
 曰く、本土に差別されてきたことが「沖縄の人々にとって『負の遺産』として心に刻まれた」、曰く、軍事戦略上の要石になった現実に対し「沖縄の人々は深い疑念を抱いた」、曰く、自分たちをアメリカに売り渡した日本に、「沖縄の人々はすっかり絶望しきったのではない」、曰く、「沖縄の住民は自らの所属すべき国家が日本であることを選択したのである」などなどと。
 いったい高良倉吉と彼の同伴者がしきりに強調した「責任主体」や「当事者能力」や「知力」はどこにいったというのだ。連発される「人々」は逆に彼らの「責任主体」や想像力の凡庸さを照らし返すことになる。ここには、「人々」の身体性に分け入ることのできない機能主義的知が、いかにマッスを都合のいいように使い分けるかを示してあまりあるものがある。あるときは「人々」にペシミスティックな視線の矢を放ち、あるときは「人々」に媚を売るオプチミストの身振りが見てとれる。
 ところで、ここで触れておきたいことがある。ベトナム戦争である。というのも、ベトナム戦争によって極東のキーストーンとしての沖縄が、戦争のメカニズムに組み込まれた体験を具体的に持ったということもあるが、沖縄の戦後世代の思考や精神形成の上で大きな影響を与えたということがある。沖縄にとってベトナム戦争は、海の向こうの出来事ではなかった。フェンスの中から発せられた基地労働者の声には、国境を越える<アジア>との対話の萌芽があった。又吉栄喜の基地小説群は、高良や私などの戦後青春が基地とべトナム戦争をどのようにくぐったかを表象していた。
 だが、「沖縄イニシアティブ」のなかに<ベトナム>体験は不在である。あるのは過去にバイバイし、軍事を前提にした安全保障論と沖縄のアメリカ軍基地の高い貢献度を公然と宣告することによって、戦後精神と越境する声の萌芽を<国家内言語>に封じ込めた傲慢(ごうまん)な<現在>の顔である。饒舌(じょうぜつ)なアジアは空疎な呪文にしか聞こえない。
 高良や私と同じアメリカの団塊の世代はといえば、今もなおベトナムにこだわり、終わらないベトナムを生きる。ティム・オブライエンの『カチアートを探して』や『本当の戦争の話をしよう』をはじめ「ベトナム戦争文学」といわれる表現の領域を開拓した。映像の世界においても例外ではない。アメリカが味わった敗北の意味と戦場の記憶との絶えざる交渉によって、心臓に届く言葉を紡ぎだすことができたのだ。
 この地表という地表が国境で囲われた二十世紀的空間を、沖縄という場から越えるポ
eンシャリティがあるとすれば、沖縄の持つ「日本であって日本ではない」境界のトリアーデを徹底して耕し、国家の文脈とは異なる文脈で、トランスナショナルな空間を拓(ひら)くことができるかどうかにかかっているはずだ。日本のフレームに折り畳むことでなく、東アジアの地政学的な想像力に置き換えることだ。
 <高良倉吉>とその同伴者たちは、どうやら国民国家の動揺を、パワー論理で化粧直しした「新しい日本」の国家像への帰属を主張し、その下での<サイボーグ沖縄>を夢見ているようだ。すでに「新しい日本」は、周辺事態法、国旗・国歌法、盗聴法などでドーピングを終え、マッチョに改造を遂げつつある。「沖縄イニシアティブ」がそのドーピングに「高い貢献」をするだろうことは疑いえない。そこからは、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で指摘した<一望監視装置>までそう遠いとは思えない。
 <高良倉吉>とは誰か。人々のブーイングに絶望し、切ない日々を送りながら「しきりに『亡命』気分を訴えた」場所から、沖縄の歴史と体験とは逆立した「新しい日本」ヘ亡命した国家主義者、そういってもいい。その「亡命」を資質の問題として片付けることも可能だが、高良が若き日の情熱を傾けて探索した伊波普猷らに連なる沖縄的知のアポリアを、現代的に、しかもよりあざとく拡大再生産してしまった、という印象は否めない。沖縄のゴツゴツした現実から亡命し、サイボーグになった<高良倉吉>の姿を見るのは正直いって憂うつでもある。

----- 仲里効
1947年生まれ。総合雑誌『EDGE』編集長、
『もしもしちょいと林昌さん わたしゃアナタにホーレン草〜嘉手苅林昌 唄と語り』企画原案(95年)、
『夢幻琉球つるヘンリー』脚本(99年)他。

 
■石原昌家T「沖縄イニシアティブ」を読むU (『沖縄タイムス』2000年6月10日朝刊)

 戦前・戦中・戦後体験を直接聞き取りして三十年もたつ私は、お会いしてきた数千人のかたがたの心情や「情緒」が、私の物事を考えるベースになっています。「沖縄イニシアティブ」なる提言を読んだときも、あの人、この人が、このような考えについてどのように思うだろうかと頭に浮かんできました。
 そこで、何が書いてありましたかと聞けば、「あれやこれや、なんだかんだといろいろ言っているが、要するに沖縄の軍事基地を認め、しかも『軍事力の行使の必要性』も認め、『絶対的平和』論者と意見を異にする、とあからさまに書いてあったサ、アキサミヨー、この"沖縄の東大"といわれている琉球大学の"三先生"は、これからの若い人たちにこんなことを教えているのかねー」という声が聞こえてきます。
 つい、先月、五月八日の沖縄の地元紙夕刊には、「六〇年代米機密文書 中ソを核攻撃計画 嘉手納から弾頭即時搬入」とあり、恐ろしい米軍基地の実態を新聞でbトも、こんな碑文の言葉を本気で考えているとしたら、とんだ勘違いであり、アジアという概念規定のやり直しが必要だろう。
 日米安保条約をバックにした日本の、アジアに対するイニシアティブの取り方と、国粋主義者の第二の「大東亜共栄圏」(アジア植民地化)を目指すイニシアティブの取り方がどこで重なり、どこでずれるか。そういう基本的な問題もタナ上げしたまま「沖縄イニシアティブ」を唱え、碑文に浮かれるのはやはり おかしいと思う。
 沖縄戦をくぐった民衆としての歴史的実感では、軍事大国化した日本の、アジアに対するイニシアティブのしり馬に乗ったら、糞(くそ)をつかむくらいではすまない、と思っている。
 次に、仲里効が指摘する、歴史的ルサンチマンの転倒夢想だが、ここにも「沖縄イニシアティブ」の論理の粗さがみえる。
 基地反対を唱え続けて半世紀、沖縄革新のステレオタイプ化した運動のあり方や、発想の貧困さには確かに苛立(いらだ)たしいものがある。
 かといっていきなり、復帰で日本国を選んだから国家の先兵になろうというのは、歴史の短絡というものだ。一九六〇年代(ベトナム戦争)から、復帰の冠には反戦がしっかりのっかっていた。その反戦はますます緊迫の課題となっているにもかかわらず軍事基地を枕(まくら)に、アジアで金を儲けようというのは虫が良すぎはしないか。
 さて、その選んだ日本国家だが、近代国民国家が、そのシステムの内部でどういう事態に直面しているのか、という設問が全く欠けている。歴史的ルサンチマンを転倒させて、国家の選民入りをめざすのは、高良ら個々人の<私>利の追求にかなうとしても、それは「沖縄」という仮面をつけてなされるべきことではない。
 日本で戦後国家を成り立たせてきた根幹に、<私>の優先思想が根づいてしまい、社会、あるいは民衆という<公>は希薄になってしまった。ましてや国家などというものは大手企業、資本の利益配分の調節機関でしかないという疎い関係である。
 つまり国家には、いま倫理がない。だからナショナリズムの内実が崩壊し、その危機をカバーするために小林よしのりらのゴーマニズム人形を踊らせているのである。江藤淳のような勘の良い人たちが早くに気付いて警鐘を叩(たた)いていたが、わたしはナショナリズムの崩壊と再生(近代国家終えん)の視点から江藤を批判した。
 そのような時代に国家との心中を唱えるのは、やはりゴーマニズムでしかない。高良倉吉はいま、沖縄版ゴーマニズムの旗手に立った。
 「沖縄イニシアティブ」の論理の粗さや、飛躍、省略を埋めて、ゴーマニズムを確立し、次期の県知事、あるいは大臣のいすをめざして、民衆の審判を仰いでみるのもよいだろう。立派な歴史学者の道からはずれるのは惜しいが、二兎(と)を追うわけにもいくまい。

----- 川満信一
詩人。『沖縄・根からの問い』『沖縄・自立と共生の思想』『ザ・クロス−21世紀への予感』他。

 
■比屋根照夫T「沖縄イニシアティブ」を読むU (『沖縄タイムス』2000年6月26,27日朝刊)

 高良倉吉氏ら琉大三教授が提唱した「沖縄イニシアティブ」論が激しい批判の的になっているのは、それなりの必然性があると筆者は考える。というのも、高良氏らは「琉球王国時代」から近現代までの戦後沖縄歴史学の諸成果を前提としながら、まさに来間泰男氏が指摘するようにその成果を「逆転」させる形で、沖縄の進むべき今後の方向性について基地との共存を説き、基地はもはや「存在することの是非を問う問題」ではないとさえ断定しているからである。
 一九六〇年代から七〇年代にかけて、戦後沖縄歴史学の形成に多少なりともかかわり、研究者としての自己実存をかけた一人として、高良氏らの基地容認・共存論、国策への同化論は、沖縄戦後歴史学の成果・遺産の放棄・否定である、と言わざるを得ない。かつて高良氏自身も参画した戦後沖縄歴史学の精神と遺産を否定し、限りなく国策へと同化・一体化する知識人の転回の姿勢は、近代以降の同化主義の系譜の中でも類例を見ないだろう。この意味で、新川明氏がまさに指摘したように、この問題の思想的本質は、われわれが現在的な脈略の下で同化主義の問題をどのようにとらえるべきかということに帰着する。
 とりわけ、近代以降の同化主義の系譜とその問題の所在については、植民地であった台湾、朝鮮をふくめて詳細な論を立てる準備があるが、ここでは言及しない。
 ただ、ここで言いたいことは、屋嘉比収氏が指摘する発話者の「位置」についての問題である。そして、それは同時に戦後沖縄歴史学が既存の権力といかに緊張関係を持ちつつ形成され、その遺産はいかに継承されるべきかの問題へと連動する。
 一般に、ある発話主体、または歴史主体が自らの歴史認識、歴史観を自由に開陳することは、その主体の研究の自由の範囲に属するということは言うまでもない。しかし、高良氏らの発言は、それが個人の学術研究の発表という以前に、小渕前総理も出席した「沖縄フォーラム」で、現下の国策への提言として、その歴史認識なり、史観が表明されているところに、まさに発話者の政治性が今問われているのである。それゆえに、「沖縄イニシアティブ」をめぐってこれほどの論議、批判が巻き起こっているのである。
 事柄の本質は、高良氏らが「一つの展望を自由に提示」したに過ぎないと弁明するほど単純な問題ではなく、沖縄の将来構想にかかわる知識人の言論の質(「言力」)が問われているのである。
 「位置」の政治学という言い方をすれば、高良氏らの姿勢にあるものは、権力へのあくなき"情熱"、"同化"であり、戦後沖縄歴史学が持った権力との"緊張関係"、権力からの醒(さ)めた"距離"とは、まさに正反対の方向でしかない。
 かつて筆者は、まさに未開拓の人物論であった伊波普猷の掘り起こしにかかわり、高良氏も金城正篤氏とともにその分野を担った。そしてまた、戦後沖縄歴史学を立場の相違を超えて背負ってきた者の一人として、今ある種の悲哀の感慨を込めて、なおかつ、次のように厳しく問わなければならない。
 一体いつからわれわれの戦後沖縄歴史学はこのように権力の側へと転回し、その同伴者と成り果てたのか。
 この問いは、米軍統治下のあの五〇年代から六〇年代の苛酷(かこく)な時代に、歴史研究者の多くが良心の灯を胸中にかかげ、巨大な米軍権力と緊張関係を持しながら営々と築き上げてきた戦後沖縄歴史学の伝統とは一体何であったのか、との問いかけへと連なる。
 この問いの前に立つ時、高良氏が昨年七月、「二十一世紀日本の構想」懇談会で行った「問題提起」こそが、まさに問題とされねばならない。なぜならば、ここに表明されている高良氏の史観・歴史認識こそが、「沖縄イニシアティブ」で言う「歴史問題」と通底するものだからである。この高良リポートは、同懇談会の第一分科会「世界に生きる日本」第七回会合議事概要として、インターネット上に公開されているので、だれでも簡単にアクセスできる。この中で、高良氏は、沖縄戦後歴史学の成果全体を"沖縄の「被害者」的歴史観"として規定し、その「構図」を次のように描く。
 『沖縄の「被害者」的歴史観の構図を振り返れば、(1)輝かしい栄光の時代であった古琉球時代、(2)過度の搾取を被った薩摩支配時代、(3)強権的に日本に編入された琉球処分時代、(4)対等でない日本人になることを強いられた皇民化・差別時代、(5)過酷な戦場を体験させられた沖縄戦、(6)分断され無権利状態におかれた異民族支配時代、(7)圧倒的な不公平状態を強いられている基地沖縄という歴史の流れになる』
 このように"沖縄の「被害者」的歴史観の構図"を軽妙なタッチで素描し、「多くの場合、被害者として自己規定してきた研究者が多い」とまこと大ざっぱな沖縄歴史研究者像を提起する。恐るべき安易な研究者批判(非難)ではないか。その「典型的」事例としてあげられている大田昌秀氏以外に、この被害者史観にとらわれている多くの研究者とは、一体どういう研究者群像なのか、高良氏は明確に提起する義務がある。それこそが言論人・知識人の社会的責任というものではないか。

 近代以降、とりわけ沖縄戦を経て戦後五十年の歴史の実態に照らせば、われわれの近現代史はそれこそ筆舌に尽くせぬ凄絶(せいぜつ)な歴史経験の上に成り立っていることは自明なことだ。あの沖縄戦の経験をとってみても、あるいは戦後五十余年の経験をとってみても、沖縄の歴史経験はどこを切っても、そこには鮮血が噴き出るようなそうした凄絶な経験があり、歴史への記憶の集積がある。それを単に被害者史観などと言うべきではなく、むしろそうした歴史経験を歴史の証言として後世に継承していくべきではないか。
 しかるに高良倉吉氏は、前述したように"沖縄の「被害者」的歴史観の構図"を素描したうえ、「こうした歴史研究は、歴史認識・現実認識の深化を阻害し続ける」ものであり、この構図からの「変革」・脱却を求め、「歴史と現在の峻別」を説き、「安易に融合」することを退ける。それにしても、かつて琉球処分の強権的な性格を問題とし、天皇制イデオロギーをも批判し、同化主義を指弾した気鋭の歴史研究者高良氏が、自らも共有した「古琉球時代」から「薩摩支配時代」「琉球処分」を経て「異民族支配時代」、現在の「基地沖縄」の時代という苦難の歴史認識をたかだか"沖縄の「被害者」的歴史観の構図"とたばねる戦後沖縄歴史学への的外れな非難をわれわれは本当に許容できるのか。
 筆者はこのことを立場の相違を超えて、かつて沖縄歴史研究の苦闘の日々を共有した研究者たちに痛切に問い掛ける。われわれの歴史研究が共有していた民衆的高揚への熱い共感とさらにわれわれが直面した時代空間への消し難い記憶とは何であったのかと。
 この意味で問われているのは、高良氏自身も含めてわれわれの戦後沖縄歴史学における言説空間への社会的責任なのだ。いみじくも高良氏は復帰直前の一九七〇年に刊行され、七七年に増補された沖縄歴史研究会編『近代沖縄の歴史と民衆』の解題の中で、「事大主義=中央志向型の研究者や唯我独尊型の郷土史家らのデイレッタンテイズムの風靡した沖縄において、科学的歴史学の地平に立って沖縄史の科学的研究を目指す沖歴研の登場自体」(「思想としての近代史像」『沖縄歴史論序説』所収、三一書房)を高く評価し、当時の研究者のおかれた「政治的現実」とその「社会的責任」にふれ、次のような鮮明な文章を書き残している。
 すなわち高良氏は「…戦後沖縄の置かれた政治的現実の中で、研究者が背負った社会的責任の苦悶の道程があり、眼前の政治的現実とその打開の認識を沖縄の歴史につなげて理解する志向があった。」(「右同」)と述べ、当時の研究者の社会的責任の苦悶(くもん)の様相を語り、政治的現実を打開しようとする認識が沖縄歴史研究と深く結合していた事実さえも鋭く指摘している。
 そしてさらに、高良氏のこのような言説は、初期の共著『伊波普--沖縄史像とその思想』(七二年、清水書院)をはじめ、七〇年代から八〇年代にかけて相次いで出版された『沖縄歴史への視点』(八一年、沖縄タイムス社)にも明確に述べられている。
 この意味で、高良氏が声高に"沖縄の「被害者」的歴史観の構図"を唱え、「沖縄イニシアティブ」で「歴史問題」を説けば説くほど、高良氏は無残にも自らの過去の言説、膨大な業績によって裏切られ続ける宿命にある。ここに戦後沖縄知識人の痛ましい自己転回の姿がある。
 最後にあえて問いたいのは、このように自らの過去の言説を省みることなく、沖縄歴史研究全体にいともたやすく「被害者」史観などと批判(非難)し去り、葬り去ろうとする、知識人のあり方についてである。言論人、知識人とは、過去・現在・未来についての自己の言説に断固として社会的責任を持つ立場にある人間のことを指す、ということを付記しておく。

----- 比屋根照夫
琉球大学法文学部教授。日本政治思想史。
『近代日本と伊波普猷』『自由民権思想と沖縄』『近代沖縄の精神史』他。

 
■目取真俊T思潮2000 サミット-沖縄開催の意味U (『沖縄タイムス』2000年7月4日朝刊)

 サミットまで残すところ三週間を切った。選挙も終わり、これからサミット狂想曲が大々的に吹き鳴らされるであろう。すでに市民生活に影響を及ぼしている警察の警備も、一段と厳しさ増していく。下手をすれば騒然とした雰囲気のなかで、私たちはサミットに振り回されかねない。そういう意味で、今あらためて、沖縄でサミットが開かれる意味を問い、それがこれから私たちに何をもたらすのか、冷静に考えていくことが大切である。
 これまでたびたび指摘されてきたことだが、昨年の四月、大方の予想をくつがえして沖縄にサミットの主会場が決定した背景に、普天間基地の県内移設を進めるという政治的思惑がからんでいたことは、否定しようがない。だが、それだけだろうか。あれから一年有余が経過し、その間、沖縄や日本で起こった出来事を振り返るとき、そこにはもっと大きな意図がありはしなかったか。そういう疑いをぬぐうことができない。そのことを考えるために、昨年の四月以降起こった、県内外の主な出来事を振り返ってみる。

・サミット主会場に沖縄が決定。
・「基地問題が解決しないかぎり沖縄にいきたくない」というクリントン米大統領発言と、それをきっかけとした普天間基地移設問題の急展開。
・「周辺事態法」や「国旗国歌法」「組織犯罪対策法」など反動諸法案の成立。
・稲嶺恵一知事ら県幹部による平和祈念資料館の展示内容改ざん問題。
・二千円札の図柄に守礼門が決定。
・天皇在位十周年式典。
・北部振興策に十年で一千億円。
・普天間基地の移設先として辺野古海岸域を稲嶺知事が打ち出す。
・名護市議会による受け入れ決議と岸本建男市長による受け入れ表明。
・ヘリ基地反対協によるリコール運動の展開とその失敗。
・琉大の教員三人による「沖縄イニシアティブ」の提起。
・公的機関からの一坪反戦地主排除決議。
・「沖縄の教組と沖縄タイムス、琉球新報は共産党が支配している」という森喜朗幹事長発言。
・小渕恵三首相の死と森政権の樹立。
・沖縄における自公連立体制の確立と県会議員選挙における保守の大勝。
・県主催の「戦没者追悼式典」への米軍の四軍調整官の初参加。

 この一年有余に沖縄で進められたのは、たんに普天間基地の辺野古移設の策動だけではない。沖縄県民の反基地感情や平和意識の基礎となっている沖縄戦の歴史認識を変質させ、軍隊に対する否定感をなくしていくこと。それによって沖縄の反戦・平和運動を足元から崩し、日米安保体制や在沖米軍の存在意義を積極的に認め、ガイドラインに基づく米軍の「後方支援」を自衛隊や住民が担い得るものへと変えていくこと。さらに経済的には、北部振興費などをばらまくことによって基地受け入れの土壌を作り、中央依存の経済構造を一層進めることによって、予算配分による地方自治のコントロールを強めていく。政治の面においては、自公連立体制を確立することを通して従来の保革対立の構図を崩し、沖縄における保守・中道路線への政界再編をうながしていく。そして、文化・芸能面ではサミット・キャンペーンに沖縄出身の歌手や芸能家を活用して持ち上げ、論壇、思想面においても「沖縄イニシアティブ」という新しい潮流をつくり出していく。
 政治・経済・軍事・文化・芸能・思想・メディアといくつもの角度から、戦後の沖縄を形づくってきた「価値観」を作り変えようという意図が、それらの動きの底に貫かれている。それらはサミットで終わるような一過性のものではない。ただ、サミットは一つの集約点として位置付けられ、沖縄が変わっていくことのPRの場と化そうとしている。
 その最大の場面が、平和の礎(いしじ)におけるクリントン大統領の演説だろう。日米が戦った「沖縄戦終焉(しゅうえん)の地」で、米大統領が沖縄県民に米軍基地の駐留を感謝する演出がなされる。そして、米国・日本・沖縄の三人のリーダーが、沖縄基地がアジア・太平洋地域の「平和と安定」にはたす役割を強調し、世界にアピールする。それは沖縄が日本という「国家」に完全に組み込まれ、二十一世紀も軍事基地と共存することを自ら選ぶだけでなく、軍事力による「平和維持」に積極的に「貢献」することを国内外に宣言するに等しい。
 平和祈念資料館問題や沖縄イニシアティブなど、この間沖縄で問題になってきたいくつかのことが、一つの線でつながろうとしている。実に用意周到に、沖縄を変えていく追求が多様な領域でなされている。サミットを契機に沖縄がどこに向かおうとしているのか。私たちは冷静に考え、判断し、行動する必要がある。「主要国」という名の「大国」の論理に踊らされてはならない。

----- 目取真俊
作家。1960年生まれ。『魚群記』『平和通りと名付けられた街を歩いて』『水滴』『魂込め』他。
 
 
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